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翌週になると、自転車を引いたアロルドが大きな紙袋をぶら下げてやってきた。仕事帰りの夕方に、門の前でばったりと会ったので驚いて覗きこむと、中からは黄色い花弁がついたズッキーニがわさわさと飛び出している。
「どうしたの、それ」
「お届けものです。俺から君たち未来のご夫婦に」
アロルドは「失礼」と玄関口に袋を下ろして自慢げに言った。
「実家から送られてきたんですよ、カターニャの。ふた箱全部ズッキーニ! いくらなんでも一人じゃ食べきれない」
仰天したアロルドは、知人という知人を回っては、毎日こうしてせっせと渡して歩いているらしい。余程の量なのだろう。
肩を竦めて説明したアロルドが、「だから貰ってくれません?」と困ったように笑うので、そんな願ったり叶ったりな話はないと、私は喜んで受け取った。
貰いっぱなしでは悪いので、エスプレッソを淹れることにする。
砂糖をふんだんに入れてコーヒーを注ぐと、遠慮をして玄関先の階段に腰を下ろしていたアロルドは、水のようにそれを飲み干した。底に沈んだ砂糖までずるずると啜っている。私が呆れて笑うと、アロルドは照れ臭そうにカップを返した。

アロルドは、どこか別れた彼を彷彿とさせた。最初は少しもそうだとは思わなかった。ただ、彼が訪れる度に浮かぶ既視感があったので、首を傾げていたのだ。
しかし立ち上がった彼が不意に、
「本当、黒髪っていいよなぁ〜」
と言った言葉で私はようやく思い当たった。
そう思ってよくよく見てみると、顔立ちは全く違っていても、人懐っこい笑顔がとても似ている。そんな感覚がする。懐かしさと、昔の失意が思い出された。
「俺の茶髪って色が汚いでしょう? 君の髪は海から産まれたみたいに綺麗で羨ましいよ」
「それじゃあ髪だけが取り柄ね」
髪を褒められるのは嬉しかった。少しでも、ブチャラティとお揃いのような気になれたからだ。
「おっと」
目の前でパチン、と腕を叩いて、「蚊がいました」とアロルドが潰した手のひらを見せた。もう一匹も、ふよふよとアロルドの周りを漂っている。
更にパチンと叩いたアロルドがしげしげと潰した蚊を眺めて、急に真面目な顔になったと思うと、
「蚊でも、君の魅力的な肌に針を刺すのは躊躇われるのかな」
と言うので、いつにも増して絶好調な彼に、私は「あなたの笑顔には叶わないわ」と笑って、手紙と交換に、チップとミネラルウォーターを差し入れにした。

言われてみれば、蚊が増えてきている、とは思う。そろそろ何かしらの対策をした方がいいのかもしれない。
私の実家にはどの窓にも網戸があって、来る人来る人に珍しがられたものだけれど、それは祖父が日系だったことが由来しているのだろう。
蚊が多くなる時期には、父が倉庫から網戸を持ち出してきて、どの窓にも当たり前のようにあてがった。そのお陰で私はあまり家で蚊に刺されたことはなかった。
結婚するまでの仮の新居として、ネアポリス郊外に組織にあてがわれた住まいは、一戸建てで個室もあるけれど敷地が狭く、庭もない。アパルトメントが並ぶ路地の角に無理やり押し込んだような、ささやかな佇まいだ。部屋の戸の立て付けも悪くて開ける度にキイキイと鳴るし、隙間風も吹く。勿論他の家屋と同様、網戸なんてない。きっと夏になれば、蚊が沢山入ってくることだろう。
もうすぐ蚊の出る時期なので虫よけの網戸をしたい、と冬の終わり辺りにブチャラティへ言ったのだけれど、組織の揉めごとで忙しい彼はきっと忘れているに違いなかった。
自分事だ。ブチャラティへ言うのも気が引ける。私は蚊に刺されやすいし、この機会に作ってみようかと思いついた。便利であることに変わりないので、ブチャラティも喜んでくれるかもしれない。
私は休日を使って材料を買いに出かけることにした。ブチャラティが目を丸くする様子を思い浮かべると、自然に早足になった。

帰り道だった。ここ二日晴れが続いていて、雨の気配もなかった。からっとした風が心地よく、網を抱えた手を離しそうになる。
私は、先日アロルドから貰ったズッキーニをチェーナで全部使い切ってしまおう、と呑気に食卓を思い浮かべながら歩いていた。
白壁の門の横を通り過ぎようとした時だった。視界の端にブチャラティの姿を見たような気がして、門の中を振り返った。何せ好いてどうしようもない人なのだ。日に当たって眩しすぎるくらいの、オーダーメイドの白スーツは見紛うことはない。
真っ赤なフェラーリと黒いBMWの横の鮮やかな芝生の上で、二人の男女が寄り添っていた。ブチャラティは腕に、柔らかそうなブロンドの髪をした女性の手を絡ませて、一歩一歩、バルコニーから車までの距離をエスコートしている。何を話しているのだろうか、と想像してしまうほど、少年のような笑顔がブチャラティの顔に浮かんでいた。
胸に、微かな痛みが走った。驚いて、抱えた網ごと胸を抑える。
「あっ」
女性から小さな声が上がった。私が胸から顔を上げると、ブチャラティがその女性を抱き寄せていた。心臓が、止まったような気がした。
体勢を崩した女性の、ミニスカートから伸びる輝くような足が、とても鮮明に私の目に焼き付いた。腰もヒップも肉付きがよく、セクシーでいて破廉恥な印象は受けない。どちらかと言えば、清廉とさえ思える。
ブチャラティの大きな手は、その腰と小さな頭を自分の元へ引き寄せるようにして、力強く吸い付いている。寄り添う影は、愛おしいものを抱いているかのように見えた。
嫌だ──と思った。
浮かんだ自分の声が、頭を何度も何度も跳ね返る。
呼吸が荒くなって、止まっていたと思った心臓が、駆け足のように早くなっていることに気づいた。ドクドクと、心臓が嫌な音を立てて暴れている。
見てはいけないようなものを見てしまったのだ。日は燦々と照っている。熱を逃すように、体中から汗がふきだしている。それなのに、体の芯が凍えるように寒くなった。
風邪を引いたのかもしれない──
誤魔化すように浮かべて、私は網を抱き直した。命令しなくても、足は勝手に動いていた。私はその場から走って、荒い息を繰り返しながら家に駆け込んだ。


幾日経っても、その光景は頭から離れなかった。チェーナはどれもこれも失敗ばかりで、ブチャラティは口にふくむにつけ、不思議そうな顔をする。
これ以上嫌われたら──
浮かぶ不安に、何度も首を振った。
嫌われるも何も、彼は初めから私のことなんて眼中にない。あるはずがなかったのだ。
組織がお膳立てしたままごとのお陰で、そういう風に思い込んでいただけだった。そんなこと、知っていたはずだ。だれでもない、私自身が最初にそう望み、ブチャラティにも懇願したというのだから。
それでも私の胸はいつも不安に支配されて、キリキリと痛んだ。

ブチャラティにとって、私は邪魔者だ。厄介なんてものじゃない。もし私と婚約を破棄できなければ、あの女性を泣かせることになる。
本来堂々と好き合える仲だというのに、“苗字”に娘がいたばかりに、目を盗んで密会なんてしなければならないのだ。邪魔者以外の何ものでもない。
あの律儀な人は、どう思っているのだろう。想い人に辛い思いをさせていることを、心の底から悔いているに違いない。私だって分かるのだ。悔しいほどに。そういう人なのだと。
刑務所にいるポルポの代わりにする仕事も多いだろう。忙しい中での逢瀬では、女性らしいふくよかな腰をかき抱いて、「もう少しの辛抱だ」とでも言っているのかもしれない。私との生活は、彼にとっては毎日が辛抱の一つなのかもしれない。
情けなかった。私ときたら、何なのだろう。組織に抵抗をすることも忘れて、相手のいると分かっている男を好いて、フィアンセだと思い込もうとしている。淫らでいやらしい女だ。
それよりも、ブチャラティの腕の中にいるブロンドで色の白い女性を見た時、私もあの色なら好きになってもらえたのだろうか、と思ってしまったことが、何よりもショックだった。必死に焼いた肌も、これだけは気に入っていた黒髪も、今までの自分をたった一瞬で、全て否定したような気がしたからだ。
私には、自分がない。夢とブチャラティの間を、いつまでもうろうろ、うろうろとしている。
たまらなく、自分が惨めな人間のように思えた。
あんなこと言わなければ、結婚したくないなんて言わなければ──
考えれば考えるほど、浅ましい自分が嫌になっていく。
私は背中を見送るばかりだ。いつも立ち去る背中を。


|(3話へ)
13/06/02 短編
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