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ブチャラティにはパートナーがいるという噂を小耳に挟んだ時、真っ先に私の頭に浮かんだのは、まさかでもそんなはずは、でもなかった。
ああ、やっぱりそうだろう──という、納得と失意の両方だった。私と同じ年頃の彼に、そんな人がいないわけがなかった。思春期なんてものが想像もできない仏頂面をしているブチャラティでも、人間なのだ。恋をしないわけではない。その方がおかしい。
だから私の家の前で、「結婚をしたくない」という組織に反抗的な私の訴えをすんなりと聞き入れたのだろう。彼にとっては満場一致の想いだったに違いないと私は知った。
行き場を失くしたのは、私の感情だけだった。失恋をしたと思っても、心が言うことを聞かないのだ。近づいてはいけない、これ以上踏み込んではいけない、と言い聞かせても、そう思えば思うほどブチャラティが恋しくなってどうしようもない。
またもう一度彼の口から「俺を信じろ」と言われれば、私は組織の中でさえ生きていけるような気がした。どうしてかそう思えるほど、彼に惚れてしまっていたのだ。

普通の人生を望んでいたはずだった。友人をいつ家に呼んでも、組織の誰ともしれないおじさんを「親戚」などと紹介することもなく、恋愛をして互いの家を行き来したり、たとえ喧嘩をしたとしても、盗聴器を見つけて壊したあと、何事もなかったかのように暮らせる家庭には決してしないはずだった。
構成員のいない、“家族”だけの旅行をする友人が羨ましかった。彼とショッピングをしたとか、キスをしたとか、両親に受け入れられたと聞くたびに、そんな些細なことを羨ましく思った。
でもそれは私が一生をかけて抵抗して行かない限り、叶いそうにない。もし組織を受け入れたとしても、ブチャラティと結ばれることはないのだ。私がどうにかしてブチャラティを諦めない限り、恋を醒まさない限り、私の人生の望みは、何一つとして叶わないことになる。
ブチャラティが20歳になる9月に、私たちは結婚をする。彼はあと数ヶ月の間に約束を守るだろう。婚約は必ず、破棄される。私がそれを望んだからだ。


薄暗くなり始めた頃、家中の床を磨き終え壁も窓も汚れ一つない状態に仕上げると、チェーナに丁度いい時分にブチャラティが帰って来た。仕込みは終えていたので、シャワーを促して早速調理を始める。作り終えるのに半刻もかからなかった。
テーブルの上には見事にアーティチョークばかりだ。酢漬けにしたアーティチョークとボイルチキンのサラダ、牛肉で出汁をとったトマトソースとオリーブ漬けのアーティチョークのパスタ、そしてアーティチョークのフリット、といった様子を眺めると、風呂上りのブチャラティは僅かに驚いた顔をした。
「つい買いすぎてしまって……」
私が気恥ずかしくなって口を挟むと、
「季節だな」
と彼は文句も言わずに口を綻ばせた。
ブチャラティはタオルでガシガシと無造作に頭を拭きながら、食卓についた。この季節にはブチャラティは無地のノースリーブが多くなる。暖かくなってきた時期に理由を聞いてみれば、呼び出された時にすぐに着替えられるからだと言う。
「上から羽織れば問題ないだろ?」
と暑さからか、風を入れるように胸元をパタパタとはためかせるので、「そんなものですか」と納得をした。
言われてみると確かにその通りだった。
冬までは、近くのアパルトメントに住んでいた子供から貰ったパジャマを身に着けていたのだ。以前に小さな揉めごとの世話をしたらしい。組織も何も関係ない、ほんの兄弟心のようなものだとブチャラティは言う。
その子供はお小遣いをためて、わざわざブチャラティにお礼を言いに来たようだった。ブチャラティは快く受け取って、殆ど毎日それを着ていた。
けれど、ブチャラティの部下の少年がギャング抗争の知らせを持って深夜に飛び込んできた時に、ブチャラティが白スーツを手に抱えて、その派手なドット模様のパジャマ姿で出て行くと、少年が用件も忘れて大いに笑ったので、流石の彼も緊張感を削がれてしまったようだった。
夫から暴行を受けていた女性が顔を腫らして駆け込んできた時などには、ブチャラティにしがみついてとても着替えられる状態でもなかったので、仕方なく上からスーツを着て向かうことになった。女性は夫に殺されると思っていたらしい。
死ぬよりならばギャングにでも縋りたいという思いからなのか、異常なほどに震えていて、ブチャラティがいくら促しても、腫れた顔を涙で濡らして、決して赤く爛れた手を離そうとしなかった。残酷な日常が垣間見えて、胸が裂けるような光景だった。
しかし後々になって思い返してみると、男の元へ向かうブチャラティの胸元からはファンシーな柄が見えて、脅しに行くには大変間抜けな姿となっていたはずだった。
ブチャラティ自身もそれは重々承知しているらしく、ついには、
「この姿で殺されないことを願うばかりだな」
と冗談を零したこともあった。けれどその季節だけは、何があっても着続けていた。
別に着なくても誰も見てはいないのだ。夜中に飛び込んでくる人なんて、そうそういない。貰ったパジャマを着ているかどうかなんて、私しか知らないというのに。
それでもブチャラティは、誰から見ても大の大人が着るには滑稽なパジャマを、何も言わずに着続けた。誰に笑われようと、それを恥とは思っていないようだった。
妙におかしさがこみ上げた時があって、つい、
「ずいぶん律儀ですね」
と私が笑ってしまったことがある。すると、
「俺がか?」
と、ブチャラティ意外そうに、ソファーで読んでいた新聞から顔を上げた。
「別に毎日着なくてもいいじゃないですか」
彼は私の言葉に得心した様子で頷くと、少し考えてからこう言った。
「俺は着ているだけでいいが、あの子供は帰りに食べるはずだったジェラートを通りすぎて、友達と集めていたセリエAのカードを止め、そうして貯めた安いお小遣いを持って、到底興味もない大人用のパジャマ売り場へ行った。しっかり包装までして貰ってな。俺のしてやったことなんて、落ちたフォークを拾うくらい大したことのないものだ。だが、子供はこれをお礼の気持ちと一緒に、俺のために持ってきた。出来得る限りの、精一杯の誠意を込めてだ。律儀なのはどっちだろう……誰が考えても答えは決まってる」
彼はそれ以上のことは言わず、怒る風でも呆れる様子でもなく、話し終えると静かに新聞へ目を戻した。
私は淡々とした語り口調を聞きながら、わくわくとした気持ちが滲むように溢れてくるのを抑えられなかった。ブチャラティの口からその言葉が聞けたのが嬉しくて、目元が緩んだ。
誰が聞いたって分かる。律義者は、二人いる。
それでも云とは言わない彼が、私は好きだった。彼が誠実であることを、私は半年をかけてようやく知ったのだ。惚れてはいけないと分かっていても、到底無理な話だった。

だから、私に対してもそうなのだろう。その律儀さが、彼の足をこの家へ向けているに違いない。
黙々と食べていたブチャラティが、ふと顔を上げた。
「香りが違うな……何か入れたのか?」
彼は口をもごつかせながら、フォークに刺したフリットを不思議そうに掲げている。私は窓際に置いたタイムの鉢を指して答えた。
「ハーブを刻んで衣に混ぜたんです」
アーティチョークの下ごしらえをする間、色が変わらないようレモンにつけていたら、やりすぎて味が消えてしまったのだ。ついでだからと、フレーバーオイルも使った。
誤魔化してしまったと私が言うと、ブチャラティは「そういうこともある」と頷いてフリットを頬張った。私の頬がほんのりと赤らむのがわかった。
嬉しい。満たされている。お腹もだけれど、何より胸が。ブチャラティの口が咀嚼をするたび、浮かんでくるのはふわふわとした幸福感だ。
けれど、ひとたび現実を見ようとすれば、これはまるでままごとのようだった。
嘘に埋め尽くされている。よい妻を演じ、よい夫を演じ、組織に貢献をしている。私たちの関係といえば、最初からたったそれだけだった。
ブチャラティのあの穏やかな笑顔を生むノースリーブの下の胸には別の女性がいて、その女性には誰にも見せない無邪気な笑みを零すのかもしれない。代わりに私には人質という、同情の笑顔が向けられる。
ブチャラティの相手を知る他者から見れば、私は妾とどう違うのだろう。
いけない──幸せに理性を投げ売ってしまいそうになった自分に、なんとか言い聞かせる。
踏み込んでは組織から逃れられない。踏み込んではブチャラティから離れられないのだ。
それでもいい。同情でもいいとさえ思ってしまう湧き上がる衝動から、背を向けて逃げてしまいたい。それなのに、どうしてもできない。足が竦んで、仮初の家庭に囚われてしまう。
ブチャラティとこうして食事をするたび、一瞬組織のことを忘れて、友人たちと同じような普通のあたたかい食卓を囲んでいるのだと、思い込んでしまいそうになる。

戸口を叩く音がした。
「ブチャラティ」
「どなたです?」
ブチャラティがフォークを置いて、口の中のものを飲み下すように水を煽って立ち上がると、ラックにかけていたスーツを羽織ってドアへ向かった。
「フーゴです、急ぎの用が」
料理からは、まだ仄かに湯気が立っている。フーゴという少年の声が、くぐもって聞こえてくる。
ブチャラティがドアを開ける音がした。
「こんな時間にすみません、問題がありまして……食事中でしたか?」
走ってきたのか、僅かに息を切らしている少年を察して、ブチャラティが「構わない」と促した。
「他のシマの連中が、ナランチャを引き渡せと。取引でヘマをやらかしたみたいで……今は港のアパルトメントに匿ってます」
「あちらさんは何て言ってる」
「まだ何も……しかしタダで返してくれそうにはない」
ブチャラティは静かに「わかった」と告げた。歩幅の大きな足音がこちらへ戻ってくる。部屋着を脱いで、さっとスーツのズボンを通した。
まだしっとりと濡れた髪が重たげに揺れて、台所へブチャラティが顔を出す。
「行ってくる」
という声に、私は「気をつけて」とだけ返して、彼の髪留めを手渡した。ドアが閉まり、門の錆びた部分が音を立てて彼らを路地へ通す。
静かになった。テーブルの上では、食べてくれるものを待つように、料理から湯気がゆらゆらと漂っている。
私はフォークを置いてお皿をテーブルの隅に寄せると、ぼんやりと暗い夜の窓を眺めた。


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