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七月が泣くとき ― 09 雨の芽



名前を預かると決めた時、俺は弥吉への義理を考えた。決して名前のためと思ってのことではなかった。いくら子供といえど、初対面から睨みつけてくるような無愛想で喧嘩腰のやつを、快く引き取ろうなどとはつゆにも思わなかったのだ。今でも当然だと頷くことが出来る。
しかしそれがどうだ。気づけばいつの間にか俺は、名前のいない日常など考えられなくなってしまっている。

俺たちはすぐに名前を探しまわった。何かあればいつでもアジトに逃げ込めるよう近場は子供達が、それ以外は俺が一日中駆けずり回って探した。名前の足で行けそうな地区を検討をつけて、悪目立ちするほどの大声で名前を呼んで歩いた。幾日経っても、名前から返事が帰ってきたことはない。アジトに戻って成果を尋ねても、子供達も真っ青な顔で首を振った。
朝から晩まで叫び続けた俺の喉は、すっかり潰れてガラガラだった。名前に俺の声は届いているのだろうか。思ったが、届いていても現れない可能性があった。きっと、弥吉を待っているだけのアジトの生活に耐えられなくなって飛び出したのだ。俺たちに見つかればまた、連れ戻されて遠出できなくなる。だから、自分で弥吉を見つけるまで帰らないつもりなのだろう。
だがそうしている内に、俺の大声や子供達の慌ただしい様子で、人攫いのような輩が反応してしまうかもしれない危険もあった。ここはBAD地区だ。住む場所や身寄りのないものが辿り着く場所でもあり、サテライトでも最悪のイカれた野郎の溜まり場でもあった。
「名前!どこにいる!いたら返事してくれ!」
頼むから出てきてくれ、名前。肌に張り付くようなじめっとした空気が、俺の胸まで入り込んでくる。
「いないのか名前!」
ひっそりと佇む廃墟の谷間に俺のしゃがれが声が反響して、青々とした夏の空に吸い込まれていった。

一日二日と過ぎ、三日も四日もすぐに過ぎていった。腹が減ってひょっこりアジトに戻ってくるかもしれない。どんなに見栄を張ったって子供なのだ。空腹には勝てやしない。
思ったが、これだけ日が過ぎるとそんな希望も薄れ始める頃だった。反対に、名前が戻ってこないことに、もしかしたらという不安がじわじわと広がり始める。
意地を張っていたのだとしても、こんなに長い間アジトに戻らず弥吉を探していけるのか?それとも他に頼る場所でもあるのだろうか?
だが、どんな疑問にも必ず首を振ることしか出来なかった。名前に身寄りがあるはずもない。頼れる場所すらあったとするなら、弥吉は俺に頭を下げる前にとっくにそこへ預けていただろう。
ここ以外に行く場所がない。そうなれば名前はきっと飲むもの食うものに困るはずだった。店や家庭の廃棄をくすねたり、あるいは目を盗んで他人様のものを頂いていくのが、ストリートの常套手段だったが、いくら困っていたところで絶対に盗みはしないのが名前という人間だ。ここいら辺では食べられるものを捨てるような余裕のある奴もいない。
最悪ずっと飲まず食わず。それでも戻ってこないとすれば、幾ら一度決めたら頑として変えない気の強い性格だとしても、本当に名前の身に何かあった可能性の方が、大きいような気がしてならなかった。何度頭を振っても、最悪の情景が幾度も頭にぽかぽかと浮かんでくる。
どこ行っちまったんだ。どうしちまったんだ。
「名前よォ…」
俺はアジトに戻ってきてはテントの木箱に座って、頭を抱えることが多くなった。差し入れを持ってくる、名前の特等席だった。
子供達も我が事のように思うのか、不安な面持ちでいることが増えていった。年長が笑わせようとするのに、ささやかな笑顔しか返ってこない。このままではいけない。俺が一番に笑顔でいなければならない。
だが、そう思えば思うほど、拭えない不安ばかりが胸にのしかかって重たく頭を垂れさせた。

暫く熱い日が続いていた。動かずともそこにいるだけ、息をしているだけで、汗がだらだらと流れ落ちる。額を滴るそれを手の甲で払いのけても、またすぐに滑ってくる。拭っては落ち、拭っては落ち。忙しなさはまるで餅つきのようだった。
「暑いよ…」
そう零してぐたりと床に倒れ込んでいる子供に、水を湿らせたタオルを首筋に当ててやる。そろそろ気をつけて水を飲ませないと、倒れる子供も出るかもしれない。そう思っている横から、「行かなきゃ…」と言う声とともにむくりと起き上がる気配がした。
「名前を探さないと…」
そう言ったのは、名前を気味が悪いだ幽霊だとさんざ遠巻きにしていた子供だった。着ている服は汗ですっかり色が変わって、どれくらい走り回ったのか、見ていなくとも一目で分かる。
「いいから休んでろ」
「でも…」
「これだけ暑けりゃ、名前も動けねーさ」
言って、タオルに顔を埋める。ごわごわして固いそれは、面倒がった子供が適当に洗って干したのかもしれない。目を覆うと、夏の音がミンミンと飽和する。微かな風が吹いたような気もした。
「名前もきっと暑がってるよなぁ…」
タオルを顔に被せて大の字に寝転がっていた子供が、ぼんやりと零した。誰も返事はしなかった。ひとり言だったからかもしれない。単に暑くてだるかっただけかもしれない。
暑がっていてほしい。ぬるいタオルに顔を埋めて思った。まだ暑さは続く。この暑さに根性負けして、さっさとアジトに帰って来ればいいのだ。洗わなければならないものは、たくさんある。名前の手を借りないときっと、夏中シワだらけのごわごわしたタオルを使わなければならなくなる。
帰って来い。早く、帰って来い。


しかし、そうして帰って来たのは予想外の人間だった。
弥吉だった。外が俄に騒がしくなって、名前が見つかったのかと思い慌ててテントをめくると、アジトの真ん中で子供たちに取り囲まれた弥吉の姿があった。
元々骨と皮しか無かったような体が益々痩せ細って、殆ど形相が変わってしまっている。そして悪い予感の通り、頬にはくっきりと目立つマーカーが刻まれている。驚いて一瞬言葉を失った俺に気づくと、弥吉は弱々しい笑顔を向けた。どこか人懐っこいそれだけは、以前と変わっていなかった。
「弥吉!」
足が地面を蹴る。骨に響くほど強く蹴った。駆け寄る時間が惜しい。
大丈夫か。何があった。その体は。あの店はどうした。かける言葉は多々あった。頭の中をそれらが埋め尽くしてぐるぐると回っていた。それだというのに、駆け寄った俺は労るどころか弥吉を押し倒さんばかりに肩を掴んで、頭にはなかった、ひとつの言葉を放っていた。
「聞きたいことがある」
弥吉は俺の言葉の意味を量りかねていた様子で、口を開けたまま返事を探していた。説明しようにも、俺の頭の中もめちゃくちゃで、次の単語が出てこない。
「名前が!」
言葉に詰まった俺を見て、取り巻いていた一人の子供が叫んだ。慌ただしく騒いでいた子供たちが思い出したように、一斉に弥吉の服を掴む。名前。弥吉が確かめるようにその名前を呟いた。
「名前がいなくなっちゃったんだよ…!!」
弥吉の眉がみるみるうちに曇っていく。困惑した目が、俺を振り返った。びくりと体が震えた。口を閉じて、ゆっくり唾を飲み込む。
もう、限界だった。何もかもわからない事だらけで、その少しずつのすれ違いが、いつの間にか大きな不安に変わってしまっていた。弥吉が姿を消してからのひと月、俺はどうしようもなかった。弥吉と名前のことを、俺は知らなすぎたのだ。
「……ちゃんと話す……だから、教えてくれ」
肩を掴む俺の手からは、どんどん力が抜けていった。俺も今、こんな目をしているのだろうか。そう思うと、弥吉の目を覗きこむ自信はなかった。

俺は弥吉のいなくなってからのひと月のことを、出来るだけ細かく話した。焦燥感で口がもつれても、弥吉は黙って俺の話を聞いていた。
「…名前がいなくなって一週間か?」
「いや…」
一瞬、言葉に詰まった。まだ、なのか。もう、なのか。どちらにしても楽観的にはなれなかった。
「五日だ」
「そうか……」
俺は唇を噛んだ。帰らない名前のことばかりが頭をよぎった。もし、何かあったら。この五日、ずっとそんなことばかりを考えている。
弥吉は窓の外へゆるりと顔を向けた。刺すような夏の日差しが、窪んだ弥吉の顔を照らす。その鼻筋をつと、汗が流れていった。組んだ指をほどいて滴る汗を拭う弥吉を眺める。日が差しているはずだというのに、目だけがどんよりと薄暗かった。
「おめーも必死で探してくれたんだろう」
俺は俯いたまま、返事ができなかった。
本当は、弥吉は俺を怒鳴りつけても、殴っても良かったのだ。現に弥吉を椅子に座らせるまで、俺は弥吉に殴られてもいいと覚悟していた。歯の数本、骨の一本くらいは覚悟していたのだ。だが弥吉は俺が促すまま疲れきった顔で椅子に腰を下ろすと、それきり口も挟まず俺の話に頷くだけだったのだ。
殴らないのではなく、もしかしたら、もう殴れないのかもしれない。細い指を固く握り締める弥吉の姿に、俺の罪悪感の行きどころは無くなり、胸の中に沈殿していった。
俺の歪んだ顔に、弥吉が喉の奥で笑う気配がした。気がしただけかもしれない。顔を上げた先の弥吉は、ただやつれて無表情だった。
「話し終えたら、すぐに探しに行こうか」
そう言って弥吉はぽつりぽつりと、弥吉自身と名前のことを話し始めた。


弥吉は昔から行商をしていた。ゼロリバース前からこの土地で暮らしていたらしいが、俺や多くの人間と同じように、あの事故で家族を失ったのだという。不慮の事故で沢山の人間が死に、そして街も死んだ。
規模が大きすぎる被害によって、当時の復興は滞っていた。弥吉は悲しみの中、瓦礫を撤去する作業に従事していたが、治安維持局の通達によってそれもすぐに終わった。サテライト制度が取り決められたためだった。始めはシティとサテライトという階級制度はなかったものの、次第にその意図が浮き彫りにされ、復興は永劫に中断されることとなった。
弥吉の暮らしていた辺りには廃棄工場が建てられ、その土地に残るもの全てが焼却処分された。弥吉に残ったのは、手配された狭い住居と、治安維持局から渡された立ち退き料だけだった。
行商を始めたのはその後だという。その時の弥吉はまだ俺より年下だった。何不自由なく育てられていたことで、金の使い道も思い浮かばず、仮の住居と食費に半分を費やした。
その頃は住まいも持たず、路頭に迷う者がそこかしこにいたため、工場で働けば住居も保障されると聞いて飛びつく人間もいた。しかしそれも労働者が増えるにつれ、急いで作ったようなバラック小屋に押し込まれるだけとなっていった。
弥吉は工場で働く気にはなれなかった。今で思えば、シティとサテライトのサイクルを作り出す大きな目的がこの工場にはあったのだと理解できるが、それでもそれを知らなかった弥吉は工場で働かない道を選んだ。幸い、職を始めるだけの元手はあった。しかし店を持てばまた、治安維持局に無情に土地を取られる可能性が頭から離れなかった。
「きっと昔の俺の方が、今よか現実的だったんだろうな」
弥吉は一旦息をつくと、自嘲気味に肩を震わせた。今回捕まったことを、思い返しているのかもしれなかった。
「治安維持局の奴らが、何でこんな非人道的な制度を作ったのかは分からねぇ。だが、住民を騙して復興を捨てたのは確かだった」
それァ、人を捨てたってことだ。最後は呟きだったが、弥吉の声は地を這うように低くなった。
事故後の政策を俺は目の当たりにしたわけではない。それでも弥吉の気持ちは痛いほどよくわかった。今の俺たちはシティの人間にとっては物で、工場の歯車でしかない。それが、治安維持局の成果だった。
「それで俺は、行商を選んだ」
逆に言えば、それしか思い浮かばなかったのだと弥吉は続けた。その当時はまだシティとの流通は盛んで、物には溢れていた。
シティにも差別の意識はなかった。サテライト制度に反対し、治安維持局に異議を唱えるシティの人間も多く存在していた。それもいなくなったのは、そういった人間が政治犯だ思想犯だと叩かれ、サテライトへ移住を余儀なくされたからだった。ゼロリバースから数年で、サテライトはシティの流刑地となった。
「最初は店と契約して売り歩くだけの小遣い稼ぎだったが、不思議とそれでも食っていけたのさ」
俺は一人だったからな。そう言った弥吉が俺を見て笑った。
「……俺ぁ、あんたほどしっかりしちゃいねーよ」
その通りだと思った。盗むことでしか、食いつなぐことが出来ない。弥吉のように働こうという気を、起こしはしなかった。
声を呑んだ俺に、弥吉は首を振った。
「人には色んなやり方がある。それを間違っていると言えるのは、自分だけだ。後はケジメをつけられるかどうか、それだけしかない」
だから名前を育てようと決めたのだと、弥吉が呟いた。

「俺は名前を赤子の時から知っていた」
他人の子でも、こんなに可愛いと思えるのだと思った。血も繋がってない赤の他人の、それも子供なんて一度も考えたことのない弥吉でさえも可愛いと思ったのだ。父親はそれはもう、目に入れても痛くないほどに可愛がっていたという。
名前の父親は三十路を過ぎた働き盛りの歳で、弥吉と同じく治安維持局が管理している工場では働かず、修理屋として細々と稼いでいた。廃品を崩したパーツの売り手を探していたところで偶々弥吉と出会い、取引をしたのが始まりだった。
まだ使えるパーツを弥吉に売り、弥吉が他で仕入れたパーツを買って備品を揃える。そうして顔を合わせている内に互いに反骨者というのもあって気が合い、よく話をするようになった。
名前の母親は健康的ではっきりものを言う性格だったが、普段は大人しく、弥吉と父親が長話をするのを、裁縫をしながら朗らかに見守るような女性だった。名前のそういう一面は、母親の方に似たのかもしれないと、弥吉が零した。
だが、人生は何が起こるかわからない。名前が7つの時に妹が生まれたが、その出産が元で母親が床に伏せ、数カ月後に息を引き取った。父親は食事すらままならないほど酷く落ち込み、暫く赤子の泣き声が絶えなかったという。眼の下に隈がくっきりと浮かび、頬もこけていく。みるみる内に父親に以前の面影はなくなっていった。
妹も少しずつ衰弱していった。見かねた弥吉がミルクを買って飲ませてやったが、弥吉が来ない間は名前が幼い手で妹をあやし、なんとか泣き止ませていた。
そうしている内に、段々と父親も目が覚めてきたのだろう。収入も少なく、弱った名前の母親の薬代で、貯金は殆ど底をついていた。
まだ歯も生えていない妹のために母乳を貰いに頭を下げていたものの、名前たちの住む貧困地区では栄養不足のために母乳のでない母親も多く、日に一度貰えればいい方だった。
満足にミルクも買えないために、妹は十月十日を経て生まれた赤子とは思えないほど、やせ細っていった。衰えたせいで少しずつ泣き声が少なくなり、ある時突然風邪をこじらせ、高熱を出した。父親が仕事に出ている間に弥吉が様子を見に行くと、泣きそうな顔で飛び出してきた名前の顔を、弥吉は今でも鮮明に思い出せた。
――どうしたらいいかわからないの…!
そう言って名前はおろおろと泣いた。肌の荒れた手で、動かない妹の熱い顔をわけも分からずぺたぺたと触る。
――落ち着きねぇ!!
そう叫んで弥吉は家を飛び出すと、急いで氷を買って届け、休む間もなく医者を頼って薬を貰った。その日暮らしの弥吉に大した貯蓄があるはずもなく、これまでそんなものと思って馬鹿にしていたものだが、この時ほど金を貯めておけばよかったと後悔したことはない。金目の物を全て売っても、数日分の薬代にしかならなかった。
父親はどんな顔をするだろうと思った。今度気力を失ってしまったら、弥吉にはもう、ミルクすら買って助けてやることはできない。
だが帰って熱にうなされるわが子を見つめた父親は、名前を寝かせると、一晩中静かに妹をあやしていた。そして朝になった時には、名前と妹だけを残して、姿を消していたのだという。

「俺は前に、新品のチップは売り場所によっちゃとんでもない高値で売れるという事を、あいつに零していたんだ」
俺は息を呑んだ。しきりに盗みをやめろと俺を引き止めていた名前の言葉の意味が、分かってしまったからだった。
「盗んだのか…?」
弥吉は俺の問いかけに、初めて沈黙した。眉を寄せた顔がゆがむ。やりきれない。そんな表情だった。
チップは、シティ側に申請している店でしか買えない。サテライトで自由に取引は出来ないのだ。だから、もし手に入れば高値で買い取られる。だがもし盗んだとなれば、セキュリティに追われる身となることは必至だった。
「セキュリティに捕まれば最低でもひと月は帰ってくることは出来ない」
「名前の妹は……」
弥吉は組んだ指に目を落とした。
「死んじまったよ」
父親が捕まって数日後に、泣き声も出せずに死んでしまった。そして父親の方もひと月と経つ前に、再教育プログラムを受ける最中、病死してしまった。名前の母親が死んでから弱っていたのを、無理をしていたのかもしれない。
「俺ァ、死神ってのは本当にいるんじゃねぇかと思ったよ」
一度不幸の気をまとった人間には、こうも死の気配がまとわりつくのかと思って、背筋が寒くなった。けれど、一番つらかったのは名前に違いなかった。
「俺が死なせちまったようなもんだ…無茶をするような男じゃなかったんだからな」
それで弥吉は、名前を育てることに決めたのだという。

「俺にとっちゃおめーは偉ぇよ」
「俺が…?馬鹿言うなよ」
俺はあんたに頼まれたってのに、その大事な娘一人、責任持てちゃいねーんだぞ。そう言った俺に、弥吉は笑い声を漏らした。馬鹿を言ってんのはおめーさ。笑いながら窓の外へ目を向ける。心配そうにこちらを窺う子供たちの様子が目に入った。
「いつも楽しそうに笑えてるじゃねーか。泣いたり、心配したり、そんなことは幸せじゃなきゃ出来ねぇ」
胸が詰まった。そんなことを言われたのは初めてだった。つらい思いをさせていないか。いつもそんな不安ばかりが頭を過ぎっていた。現に、名前だけではなく、子供たちですら俺の盗みによって不安を抱いていたのだ。
それでも弥吉の言葉で俺は、どこか救われたような気がした。
名前の父親にも、弥吉はそう思ったのだという。名前の母親が、妹が病にかかった時も、奔走する父親を見てそう感じていたという。
「あいつはつらかっただろう。だが俺ァ、それが少しっぱかり羨ましかったんだ」
弥吉は一旦言葉を切って、喉を潤すように唾を飲み込んだ。窓を開けていても、風はあまり入り込んで来なかった。薄暗くてもプレハブの中は、少々暑い。
「ゼロリバースで天涯孤独になってから、俺は毎日毎日、てめぇのことばかり考えて生きてきた。今日は食えるか明日は食えるか。そんなことばかりだ。食えなくてつらいことなんてあったが、それ以上のことはなかった…それしか、なかったのよ」
でも、名前の父親は違った。食うも食わせるも、全てが家族のためだった。食べさせるために稼いだ。稼ぐために食べた。それが名前の父親の毎日だったのだ。
「家族のために苦しむってのは、どんな気持ちだと思った。酷ぇことを言っているとは思う。けど俺ァ、妻や子供のために命を削って、プライドを削って頭を下げて回るあいつが、心底羨ましかったのさ」
淡々と語るその静かな声に、名前を預けると頭を下げた時の弥吉の姿が浮かんだ。
俺も分かったようでいて、弥吉の気持ちなんざこれっぽっちも理解できちゃいなかったのだろう。“父親”の気持ちは、守られて育った今の俺には、分かりはしない。きっと、名前の父親を見た時の弥吉が、そんな心境だったのだろう。

忘れていた蝉の声が、突然部屋に響いた。
「弥吉、店はどうなったんだ」
俺は思い出したように問いかけた。すると先ほどまでの空気とは打って変わり、驚くほど大きく喉を震わせて、弥吉は笑った。
「騙された上に、治安維持局に取り上げられちまったよ」
からりとしたものだった。不幸だとも何とも、思ってはいないようだった。
「俺はこのサテライトって土地にとことん嫌われてるのかもしれねぇな」
根っこが全く伸びちゃいかねぇ。言って、弥吉は話は終わりだと言わんばかりに椅子から立ち上がった。
俺は全くどんな顔をすればいいのか分からなかった。眉は上がっているのか下がっているのか、自分の顔だというのに思い通りに行かない。
「……んっとによぉ…」
でも口から出たのは、笑みの滲んだ声だった。弥吉という男の心配は、初めからする必要などなかったのだと思い知らされた。
俺に話したことで、弥吉は心に溜めていた澱が少しばかり消えたのだろうか。椅子に座る前より伸びた背を見ながら思う。俺の気持ちにも、確かに変化はあった。不思議と求めていた答えが見つかったような気がしたのだ。
後は名前だけだ。立ち上がった弥吉の背に続きながら考える。いくら弥吉が帰ってきたところで、俺の気持ちが少しだけ救われたところで、名前の安否の不安だけは消えちゃ行かないのだ。弥吉の話を聞く間も、嫌な情景ばかりが浮かんで、背筋は凍りついたままだった。それでも話を聞く前よりずっと、希望が見えた気がした。気持ちに整理がついていた。

弥吉と二人で、無言でプレハブを出た。さらけ出した肌を、刺すような日差しが照りつける。タイミングを見計らっていたのか、冷やした水を持った子供たちが、俺と弥吉へ注いでカップを差し出す。それを一気に喉へ通した。
そうして口を拭うと、むわっと広がる夏の空気を振り払うように、大きく息を吸い込んだ。



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12/06/01 長編
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