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七月が泣くとき ― 08 唖蝉



もういくつの頃かは覚えていない。昔――といっても俺の言う昔なんてたかが知れているが、風のない夜の静けさの中で、急に空恐ろしくなったことがある。しん、と静まり返って微かな寝息しか聞こえず、月明かりがぼんやりと照らす薄暗い室内の闇にじわじわと飲み込まれていくような感覚に襲われて、わけもわからずに脂汗を流した。昼間の賑やかなマーサハウスとの対照的な空気は、その時の俺には世界が反転したようで怖くて奇妙でたまらなかった。あるいはまた、一人で瓦礫の中を彷徨っていたことを思い出して、夢か現実か判別できなくなっていたのかもしれなかった。
あの頃の俺は、マーサハウスでようやく手に入れられた穏やかな日常を失うのが、一番恐ろしかったのだ。

薄暗いテントの隅で盗品を分けながら、マーサハウスに迎え入れられたばかりの頃のことを思い出して手を止めた。
今よりもっとチビだった俺は四方八方怖いものだらけで、何が怖いのかすらも分かっていなかった。分からないことが、恐らく怖かったのだろう。子供達にはそんな思いをさせたくなかった。
それでも盗みをやめることは出来なかった。盗みをすれば、廃棄工場で汗水流してひと月働き詰めてやっと買えるものを、すぐに手に入れることができるのだ。困ったときに盗みさえすれば、子供達にも物乞いのような真似はさせなくて済むし、喜ぶ顔もすぐに見れる。ガラクタを作ったり、拾い集めたパーツを売ったり、情報を売ったり、それで食いつなげない時に生きられる術がある。そう考えるだけで、幾分か暮らしが楽になった。
だからだろうか。こんなことになったのは。


弥吉がぱったり姿を現さなくなってひと月が過ぎていた。とうに季節は夏を迎えている。弥吉が告げた、約束の季節だった。
弥吉が迎えに来る前に、梅雨が明けたらすぐに線路を辿って探検をしようと言っていたのだが、週に数回律儀に顔を見せていた弥吉が急に訪れなくなり、知人を通じても連絡が取れなくなったので、、ピクニックどころではなくなった。名前の表情は重い。
始めは「大丈夫だ、お前を喜ばせたくて大掛かりな用意でもしてるんだろう」と言って笑っていた俺も、ひと月となると流石に不安が胸にもたげるようになってきた。だがそれよりも弥吉が来ないことで食が細くなった名前の体の方が心配だった。

名前はプレハブの中の固いソファーにもたれてテレビ中継を見ながら、果物と野菜を潰したものをちびちびと口に含んでいる。肌がいよいよ青白くなってきたのをいけないと思い、煮詰めて時間をかけて作ったのだが、味は好みではなかったらしい。嫌がる名前に無理やり飲ませようと、砂糖を入れて何とか落ち着かせた。
アジトのどこに張り付いているのか、蝉の声がやけに大きく聞こえる。窓から入り込んでくる鳴き声が気にならないのか、名前の目は先程からテレビに釘付けだった。
「キラキラしてる」
画面に映るジャックのデュエルを見て、名前が半開きの口でぼんやり呟く。横に腰掛けて拾った新聞を読んでいた俺は、文字の部分が破れてボロボロになっているのを指で繋ぎあわせながら名前を振り返った。
「ねぇ」
「んー?」
「クロウのD・ホイールも、デュエルに使えるの?」
「そりゃあな」
D・ホイールだからな。言いながらまた新聞に目を寄せる。横目に見れば、名前は複雑そうにジャックのデュエルを眺めている。
「乗りてーのか?」
んなわきゃないと思いながらも尋ねてみる。やはり名前は首を振った。
「クラッシュしたら危ないよ…」
言って、LPを削られる度にユラユラと揺れる画面の車体に手を握りしめている。ライディングデュエルを初めて見たわけではない。ジャックかその挑戦者を応援して、観戦に熱くなっているわけでもなかった。
意図を量りかねていると、名前が不安げな眼差しのまま、そっと俺の方を向いた。そういうことか。新聞をたたんで、名前の額をこつりと拳で叩く。
「俺のライディングテクニックは奴よかずっと上だぜ?」
「クロウ……」
にかっとおどけた風に笑えば、名前は目を潤ませる。そうかと思うと、そのまま体を大きく跳ねさせて咳き込んだ。
「ゲホッゴホッ…!」
青白く前より随分やせ細った名前の小さな体がビクビクと跳ねて、ぞっとしたものが俺の背筋を這い上がる。
「お、おい名前、大丈夫か?」
慌てて薄い背中をさすって顔を覗きこんだ。
「名前!おい…!」
「くろ…」
目を真っ赤に充血させた名前が、苦しそうに小刻みに呼吸をして、消え入りそうな声で呟いた。
「ま、不味い…」
まずい。何のことかと思って視線を落とすと、名前の握っていたスプーンがべっちゃりと俺のシャツに染みをつけている。嫌いだ嫌いだと思いながら渋々食べていたのを変な体勢で飲み込んだせいで、流動食が気管に入り込んだらしかった。
「紛らわしーんだよおめーは!」
焦る俺に少しだけ笑った名前は、背中を摩る感覚に気持ちよさそうに目を閉じた。頑としてまともに食事を採らないせいで、衰えてきたのかもしれない。嫌がろうが、無理矢理にでも食わせねーと。名前の背中は温かいが、弱々しかった。
名前。背中を撫でながら呼びかける。目の前の頭が静かに揺れた。
「ブラックバード完成させたら一番最初に乗せてやるからな」
「いいよ…そんなの」
「だからよォ」
これ以上痩せたらどうなっちまうんだ?熱を分けるように背中に手のひらを押し当てる。きっと弥吉といても、元気ではいられなくなってしまう。笑顔に、影がさしてしまう。
「ちゃんと食うんだぞ」
名前は今度はいいよ、とは言わなかった。分かった、とも言わなかった。
「……頑張る」
もう、頑張らなきゃ食べれねーのか?いや、違う。気持ちの問題だ。弥吉がいない今、あの弥吉に頭を下げられた俺が、弥吉の代わりにならなければならない。
テレビから流れるジャックの声を聞きながら、これが俺の戦いだと、手に力が入った。

それから数日はサテライトをかけずり回ってひたすら弥吉の事を聞きまわる日々だった。ひとつひとつの地区を虱潰しに聞いて回る。情報屋の伝手も使ったが、弥吉は俺が思うより細々と稼業を続けていたようで、所在を特定するにはまだ時間がかかりそうだった。
弥吉を探して来たことは、名前にも子供達にも告げていなかった。日給の仕事だと嘯いて職を見つけたふりをした。毎日泥だらけのくたくたになって帰ってくるので誰も詮索はしなかったが、飴玉やチョコレートのような小さな菓子を必ず土産にするので、盗んだのではなく働いた給金で買っているのだと疑っていないようだった。
だが名前は、茶封筒も何も持たず帰ってくる俺を、そろそろ疑い始める頃だと思った。お金を見せてくれと言われたら、働いてから大して使っているはずのない日給の貯蓄が、いつも通りの缶に入ったカスカスの生活費のままであることを証明しなければならなかった。
弥吉の消息は未だに掴めない。弥吉の言っていた雑貨店には辿り着いたが、店はセキュリティに押収されて、人っ子一人寄り付かなかった。ガラス越しに見える店内は荒らされたのか、取っ組み合いでもしたのか、雑然として足の踏み場もない。弥吉の身に何かあったとしか思えなかった。
セキュリティに捕まったか、もしくは怪我でもしてどこかに身を隠しているのかもしれない。それよりももっと最悪な状況は考えたくなかった。
もし名前に弥吉を探していたことをバレたとして、それでもこのことは言えるはずもなかった。不安定な名前に話せば、今以上にやせ衰えていくことは明らかだ。
「参ったぜ弥吉…」
とにかく今は探すしかなかった。そしてカスカスの生活費も、何とかしなければならない。小遣い稼ぎをしている余裕はない。選択肢はひとつしかなかった。


バサリとテントの入口がめくられた気がして意識が引き戻される。顔を向けるが、そこには誰もいなかった。いつもならば、テントで俺がD・ホイールをいじっていれば、必ず名前が温かい飲み物を持って来たが、プレハブに篭って姿を見せやしなかった。
傷つけただろう。俺が思うよりも深く、傷をつけてしまったかもしれない。盗品を握り締める。自分の胸まで掴まれたようだった。
馬鹿だ。体の底からぽかりと、浮き上がってくる。俺ァ本物の馬鹿だなぁ。今日ほどそう思ったことはなかった。

大きな盗みをして逃げる途中、破れていた柵に腕を引っ掛けてしまった。触れただけで思わず呻いてしまうほどの痛みだったが、手当をする暇はなかった。
怪我をした腕を抱えながら帰ってきた俺を見た時の、名前の顔は忘れもしない。言葉を失ってぞっとするような形相をしていた。力が抜けて崩れてしまいそうな、真っ白な顔。絶望という言葉が一等先に浮かんだ。
心配かけまいと見つからないようにアジトに滑りこむつもりだったが、物音に気づいた子供が血止めの布を真っ赤に染めた俺を見つけて、飛び上がらんばかりに驚いて、その声にアジトの全員が駆け寄って来てしまった。
しまった、と思ったが、俺は空元気のような大声を出して笑った。
「いやぁ、仕事帰りに近道しようと思ったら建物が痛んでたみたいでよ!」
子供達の後ろで立ち止まったままの、名前の淀んだ目が突き刺さる。
「アホだなぁ俺も。油断して怪我しちまった!」
言葉を探す。子供達が俺の腕を見ながら、慌てて救急箱を抱えて来た。名前は俺を呆然と見つめたまま、ぴくりとも動きもしなかった。喉が干上がったみたいにカラカラになる。反対の肩にぶら下げたカバンいっぱいに入った盗品が、やけに重たかった。
名前は知っている。子供達ですらきっと、分かってしまったに違いない。頭は真っ白だ。それでも口は止まらなかった。
「こんなん心配するこたねーぞ!痛くも痒くも…」
俺の声は、悲鳴のような、聞いたことのない甲高い声に遮られた。胸に大きな鈍い衝撃がぶつかる。
「…お、おい」
名前が、俺の体にしがみついて泣き叫んでいた。背中までぐるりと腕を回して、とてもその細身から出ているとは思えない力で、俺の胸に抱きついていた。
名前。動揺した俺の声などお構いなしに、名前は涙に濡れた声でやめてくれ、と叫んだ。やめてくれ、やめてくれと、何度も泣いてすがる。今までどんなことがあっても涙どころか、大声すら出したことがなかった名前がぼろぼろと涙や鼻水で顔中ぐちゃぐちゃにして泣きじゃくっていた。
どこにも行かないでくれと、名前は泣いた。幼子がぐずる姿そのものだった。あの気の利く働き者の姿とは真逆の、わがままでどうしようもない幼子のようだった。
やめてくれ。行かないでくれ。繰り返す名前の口から出る息が、俺の胸を内側から濡らしていく。怪我をしているのも忘れて、両腕で名前を抱きしめた。肩にぶら下げた重たいカバンが地面に滑り落ちて、盗品が崩れた。
「悪かった…俺が悪かった」
泣き止まない名前の肩をあやす。胸に押し当てた名前の眼や鼻からでた体液が染みだして気持ち悪いはずなのに、ぬるい温かさだけが鮮明に頭に残った。
「悪かった…」
今度は俺が繰り返す番だった。肩を震わせる名前から不安が伝わったのか、子供達まで救急箱を放り出して泣きじゃくってしまっている。それを見てしまえば、大丈夫だと思っていた子供達ですら、この暮らしがずっと不安だったのだと気付かされずにはいられなかった。
馬鹿だ。俺は本物の――


腕に巻かれた包帯に触れる。丁寧なそれは、名前が手当をしてくれた。延々しゃくりあげて涙を零しながら、黙って俺の血だらけの腕を洗って薬を塗ってくれた。
幸い、血が出ているだけで傷は浅く、縫合せずとも良かった。だが、胸の痛みだけは消えなかった。
名前は手当を終えるとすぐに、俺と目も合わせずプレハブに戻って行った。それから数時間、夜も更けたがそこから寝床のあるテントへも動いた様子はない。
機嫌を治したかった。謝りたかった。名前の取り乱した姿は、俺の知らない過去に何かあったのだと思わせた。それは父親のことなのかもしれないと確信的に思った。
でも俺の体は名前のいるプレハブに向けた途端、軋んだように動かなくなる。ただただ気まずかった。子供達にもしたことがない。こんな思いは初めてだった。俺にとって名前は、単なる子供ではなかった。自分自身が重なる、名前という存在だったのだろう。

盗みをしたことを、これまで恥じたことはない。だからといって正しいことだも勿論思っていない。いくら学がないと言われ、みなし児だというだけで石を投げられるような理不尽な幼年期を過ごした俺でも、善悪の判別くらいは出来た。
でも道端で野垂れ死にしそうな人間を尻目に、旨い肉を食い、旨い酒を喰らい、何一つ不自由なく生活している人間がこのサテライトにもいると思えば、その幸せのほんの一握りくらい、こちらに分けてくれても損はないではないか。そう思ってしまえば、そこまでの罪を犯しているという気持ちにはならなかった。
人を傷つけているわけでもない。殺して奪うわけでもない。こっそりと、棚の底で使われず眠っている物や、無くなったところで食べずとも生きていける菓子などをちょいと頂戴するだけなのだ。服も、おもちゃも、どうせ忘れてしまっているようなものなら、子供達に着せて、子供達に遊ばせてやった方が、埃を被るより余程喜ばしいことのように思えた。そうやって盗みを重ねれば重ねるほど、罪悪感なんてものは消えていった。
子供達を幸せにしている。そう思う心は、どこかにはあったのかもしれない。マーサハウスに来たばかりの頃の俺のようにはさせたくはない。
そうは思っても、小遣い稼ぎに出れば俺がいない日もあった。売り物をくすねたのが見つかってセキュリティに捕まり、ひと月は帰ってこないこともある。それでも子供達の好きな菓子を買って来たり、カードを探して拾って帰ってきた時の笑顔を見ると、ほっと息がつけた。昔の自分のような暗い顔だけは、させたくなかった。
だがそうすることで悲しませることがあるのだとは、少しも思いもしなかった。捕まりさえしなければ笑顔は守られるのだと思い込んでいた。俺は俺と同じ境遇にさせたくないと思いながらも焦るあまり、子供達の心境など推察する余裕もなくなっていたのかもしれない。

名前。戸口の前で、名前を反芻する。いざ話しかけようとプレハブの前に立っても、思い浮かべるのは簡単だったが、口にするのは難しかった。月が静かに雲間に身を委ねている。昼の暑さとは反対に、夜は少しだけ肌が冷えた。もしかしたら名前もこんな気持ちだったのかもしれないと、ふと思った。
まだアジトに来たばかりの頃、タオルを抱えて俺の部屋に入るのに、こうして何度もノックをする練習をしたのかもしれない。夫婦ごっこを始めたばかりの頃、添い寝を頼むのに、俺の部屋の前で随分長い時間立っていたのかもしれない。
「名前」
思った途端、俺の口からはするりと音が出た。中から微かに音がして、名前が身を強張らせたのではないかと感じた。ひっそりと返事を待つ。鼓動の中に、沈黙が落ちる。
暫くしてから、なぁに。と言う、小さな声が聞こえた。
「……入ってもいいか」
言い出すまでに時間がかかった。いくら待っても、名前からは返事はなかった。だが、駄目だという声もしなかった。ノブを回す。鍵はかかっていなかった。ゆっくりドアを開ける。しかしその時になって、「駄目」と言う名前の声が響いた。
「駄目」
もう一度届いた声に、ドアから手を離す。
「…悪かった」
俺は同じ言葉を言った。オウムのようだと思ったが、そう言う以外にふさわしい言葉がなかった。
「盗みは嫌い」
名前が言った。ドアの隙間から、弱々しく俺の耳に吹きつける。
「……悪かった」
俺の声も、自分でも驚くほどか細かった。

どんな盗みをしても、それを正しいと思ったことはない。どれだけ金持ちが余している菓子で子供達を喜ばせても、口に放ってしまえば、舌で溶けるのと一緒に消えていく一時の笑顔だということも分かっていた。
けれど、一度盗んでしまえば手癖はつくし、捕まるのは御免だと逃げてしまえば、セキュリティの目を避けてまっとうな職につける筈もなく、盗んでは逃げと繰り返す内に、ずるずると堂々巡りの生活になってしまっていた。ここいらでその生活を断ち切れば、こそこそせずとも幾分かまともな暮らしが出来ると分かっていながらも、積み重ねてきた非行の山を背負ってしまえば、子供達には当分会えず、つらい思いをさせてしまうに違いなかった。
もしかすれば、それを理由に向き合ってこなかっただけなのかもしれない。それでも菓子を持ち帰った時の子供達の笑顔は浮かぶし、「美味しいね」と俺に大事な半分を分けて幸せそうに口に頬張る姿も浮かぶ。
結局俺はやめることが出来ずに、盗みにとり憑かれたままだった。
そんな俺の意識を引き戻したのは、やはり名前だったのだ。

「父さん、帰って来なくなっちゃったの」
その声は、唐突だった。だから。
「だからね、」
俺は口を挟むことは出来なかった。月明かりを受けながら、幾らか涼しい風に吹かれて、じっと言葉を紡ごうとする名前を待った。でも、それ以上声にならないようだった。名前は言葉に詰まったまま、また静かになった。そして、ドアがさっと開く。
視線を下げれば目が合った。お前。思う間もなく、「クロウ…っ!」と息を吐きだして、名前は目に涙を浮かべて俺の胸に飛び込んだ。それをしっかり受け止めて、しゃがみながら全身で包み込んだ。俺の首筋で、名前が嗚咽を殺して息を吐きだす。

俺はやっぱりガキだなぁ。抱えた名前の頭を撫でながら、苦い気持ちがこみ上げる。子供を育ててるつもりでも、親心なんざ、これっぽっちもわかっちゃいない。

父親が死んだ。きっと、たった一人の頼れる存在だったのだろう。それを抱えて立ち直れない名前を、弥吉はどんな思いで安心させようとしていたのか。弥吉は名前を不安にさせまいと、用がなくとも週に何度も顔を出していたのだ。俺の思うような単なる親ばかなわけではなかった。
俺に話さなかったのは、そのことに気を遣わせまいとしていたのだとも分かっている。名前を俺の元に預けたのは、仲間を作らせるためだということも分かっている。でももし。もし名前の不安を知っていたら、俺は名前を泣かせただろうか。
「大丈夫だ」
弥吉がいなくなったこと、俺が怪我をして帰ってきたこと。それが父親の死と重なって、名前はきっと自分でもわけが分からなくなっているに違いなかった。たとえ弥吉が気にするなと思っていても、俺はそれに気づけなかった俺自身を責めるだろう。
「大丈夫だよ、名前。俺はどこにも行かねーし、弥吉も帰ってくる。すぐに帰ってくる」
名前は声もなく泣き続けた。目尻から止めどなく涙を流して、俺の肩に熱い息を吐き出した。
抱きしめたまま背中を撫でて、暫く二人で地面に座り込んでいると、「くろう…」と舌っ足らずに呟いて、名前はいつの間にか眠ってしまっていた。泣き疲れ、大分衰えて軽い身体を抱えて子供達の眠るテントへと寝かせる。
ゆるい風が吹いていた。やはり夏にしては涼しい風だった。行かないでくれと泣いた、名前の声と息遣いが耳に残る。俺に何が出来るだろうか。自室でまとまらない思考をめぐらし、夜は更けていった。


そうして朝は来る。何事もない朝のはずだった。
虚ろな頭に響く窓の外の声は騒然としていた。ドアを叩き開けるように飛び込んできたのは、名前と同い年の子供だった。
「名前がどこにもいないんだよ!」
子供達の騒ぐ声が、寝ぼけた頭を徐々に覚醒させていく。俺は電撃でも食らったみたいに一瞬で飛び起きた。寝間着のまま部屋を転がり出る。数時間前に名前を運んだ寝床へ走った。
テントをめくる。うろたえた子供が驚いて俺を振り返った。構わず、ボロ布みたいなシーツをめくる。名前はいない。子供達の眠るテントもシーツも全てめくり、簡易テーブルの下も覗き、プレハブの裏も探した。アジトの中は全部探し回った。けれどどこにも名前の姿はない。どこに行っちまったんだ。
「名前…?」
ドアを開けて薄暗い室内に目を凝らす。蝉の鳴き声が不意に大きくなって、背中を嫌な汗が流れた。すけべ、でも駄目、でもいい。祈るように思う。だがそんな声すら、返ってはこなかった。



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12/05/06 長編
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