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七月が泣くとき ― 10 空蝉



俺はまた心当たる場所を探し回ったが、依然、名前は見つからなかった。弥吉が帰ってきたという噂を聞いて、いずれふらりとアジトへ戻ってくると自分に言い聞かせもしたが、やはりその様子さえなかった。
見つけたらすぐに知らせに来ると言って飛び出したきり、弥吉もアジトへ一度も顔を見せていない。一日が駆け足で過ぎていった。

四日を過ぎた頃だった。名前がいなくなってから、雲は覆えど、雨の降らない日が続いていた。
からりと晴れた空から惜しげもなく照る日を浴び、燃えつくような地面を棒になった足を引きずりながらアジトへ帰って来る。すると、子供たちが入り口で待ち受けていた。落ち着きなく辺りを見回していたのが、俺を見つけるなりはっとして飛び上がる。すぐに俺を待っていたのだとわかった。
――名前が見つかった。
即座にそう思った。遠くから見ても、子供たちの挙動は吉報のそれだ。俺は疲れきっていたのも忘れて、アジトに向かって走った。ハッハッ、と荒れる息に無理に声を被せる。
「名前が見つかったのか?!」
もう答えすら待ちきれなかった。抱きつくように子供たちの元へ滑り込む。
「うん!」
「弥吉からの伝言だって!」
「…伝言?」
荒い息を整えながら、子供たちが手を引いた方向へ顔を向ける。そこには壮齢の男が佇んでいた。
その男を目に捉えた瞬間、胸をもやっとしたものがこみ上げる。言い知れぬ感覚が下腹部から這い上がり、全身にじわじわと侵食していった。
男は無表情だが、俺と目が合うと柔らかい物腰で頭を下げた。子供たちを抱いていた手を離し、男を向いたまま立ち上がって、俺はゆっくりと歩み寄った。
「弥吉からは、なんて」
「…ついてくるようにとだけ」
俺は子供たちを振り返った。にこにこと、喜びに満ちた顔で俺と男の様子を窺っている。俺はまた男に視線を戻した。男は、静かに首を振る。一人で来いという、伝言のようだった。
「悪ィなお前ら、遠い場所らしいから、ここで留守番していてくれ」
笑いながら言えば、案の定子供たちからは非難の声が上がった。
「ずりーよ!」
「僕たちだって頑張って探したのに!」
「わーったわーった!すぐ戻ってくっから!」
しがみつきかねない勢いで騒ぐ子供たちを何とか宥めすかして、男とアジトを出る。道中は、終始無言だった。じりじりと太陽が焼き付けるのに、あちぃという言葉すら出ない。どうしてか、出せなかった。
どこへ行くんだ?
聞きたい気持ちもあったが、俺はどうしても聞けなかった。胸につっかえているものが喉まで閉ざしているようで、声が出せない。もう、分かっているような気がした。だから、俺は口を閉ざしたのだ。聞いてしまえば、全てが終わるような気がした。
男は無言で、俺の前を黙々と歩いている。建物の影が男の上を泳ぐのを、回る車輪を眺めているような心持ちで見つめながら、俺は汗を拭うこともせず、ただ黙って追いかけた。


夏だ。ぼんやりと思った。白い壁を見ながら、眩しさに目を瞑りたくなる。背を向けたくなる。
「着きました」
そう告げられて立ち止まったのは、古びた教会だった。蔦が刈り取られて、白い壁がすっかり見える。俺は、やはり何も言わなかった。
俺の足に、蔦が絡まっているんじゃないかと思った。男が振り返るが、ぴくりとも、動けはしない。
「……ご愁傷様です」
男の言葉に、俺は固く目を瞑った。名前がいなくなってから、心のどこかでもしかしたら。そう思っていた。サテライトで子供が死ぬのは、珍しいことではなかった。だから子供たちにも滅多にアジトの外をうろつくなと、言って聞かせていたのだ。それを名前は、一週間以上も帰らなかった。この暑さの中、食べるものもなく、頼る人間すらいない土地で。悪い予感ばかりが、当たってしまった。覚悟など、出来ているはずもなかった。したくもない覚悟だった。
でも、どうして、何故。一瞬で頭に渦巻いた言葉を弾くように瞼を開けば、扉が僅かに開いている。間違いなかった。この中で弥吉が、名前が、待っている。俺は漸く足を踏み出した。
男は立ち去りもせず、俺が重いドアを閉めるまで、日照りの中で静かに見つめていた。ズボンの前ポケットの中から、チェーンの付いた小さな十字架がぶら下がっているのを、俺はその時になって気づいた。

中に足を踏み入れると、ひやりとした空気に変わった。扉を軋ませて閉めるが、蝉の声は絶えず入り込んでくる。振り向いて大丈夫だろうか。俺が、大丈夫でいられるだろうか。大丈夫とは、どんな姿だ?
扉から手を離して、ゆっくりと振り返る。俺は思わずほっとしてしまった。そこに弥吉の姿はなかった。
礼拝をしている人間もいるらしい。もしくは暑さしのぎなのだろうか。広い教会内にはまばらに人がいて、椅子も床も思っていたよりも綺麗に整えられていた。
見回しながら一本道を踏みしめていると、ステンドグラスを背に牧師らしき親父が、俺を見つめていた。目が合うと、すっと横のドアへ腕を伸ばす。そこで弥吉が待っているということのようだった。
ドアの先には廊下が続いている。部屋は、奥に一つしか無かった。天窓から差す光を踏みながら歩く。驚くほど落ち着いていた。思考が停止しているような感覚が、ずっと続いていた。ほとんど何も頭には浮かんで来なかった。
高い天井にコツコツと、足音だけが反響する。

狭い部屋だった。表に比べれば壁のヒビが目立つ、コンクリートむき出しの部屋だ。その隅のベッドに寄り添うように、弥吉が座っていた。名前。俺は無意識に呟く。弥吉の顔が肩越しにゆったりと俺を振り向いた。
俺を見ると何故か、弥吉は照れたように笑った。力のない笑みだった。
「悪いな、知らせるのが遅れちまって…」
俺は返事をするのも忘れていた。目は弥吉の向こう側のベッドに釘付けになっている。弥吉の背に近づいて、ベッドを覗きこむ。顔にかけられた布に手を伸ばすと、指が震えてしまった。それは確かに名前だった。もう随分やせ細っていたが、優しい顔立ちは、名前に間違いがなかった。
何を言うことも出来なかった。覚悟も、出来ちゃいなかった。それでもここには、事実があるのみだった。
――こんなところにいたのか、名前。
名前の顔を見た途端、どうしてか急に安心したような心持ちになった。こんなところにいたのかよ。そっと顔に触れてみる。夏だというのに、ひんやりと冷たい。汗でしっとりとした親指で、瞼をなぞり、頬を撫でる。それからそっと、布をかけ直した。
窓代わりに壁に掘られた十字架から、光が床に落ちる。蝉の声はいっそう大きくなった。夏だ。場違いにそんな言葉が浮かぶ。名前がこのアジトからいなくなるはずの、その季節だ。だが、こんな形ではなかった。こんなはずではなかったのだ。

だらだらと汗が流れても、じりじりと陽に肌が焼かれても、俺も弥吉も呆然と名前の側にいた。見つめれば見つめるほど、それが抜け殻なのだと実感してくる。
死体は何度も見たことがある。当たり前のように転がっているからだ。だが目の前のそれは、確かに名前だった。
「本当は、腐っちまう前にすぐ焼いてもらおうと思ってたんだが……」
おめーに会いたがると思ってな。言って、弥吉はうっすらと笑みを残したまま俯いた。
三日前、名前が家族と住んでいた元の住居の近くで、弥吉が見つけたらしい。廃墟の地下で瓦礫の下敷きになっていた。頭を強く打ったのだろうか。その時にはもう、既に息はなかったのだという。
「……どんな、様子だった」
「…少なくとも、苦しんじゃいなかったようだ」
傷んでいた床が崩れて、廃材とともに名前もろとも滑り落ちてしまったのだろう。サテライトではよくあることだ。それでもそのよくあることが自分に起こるとは、誰も思いはしない。まさか名前が死ぬなんて、誰が思うだろうか。

弥吉と名前の姿を見るまで、ここの扉を開ける間、俺はもしかしたら泣いてしまうんじゃないかと思っていた。けれど不思議と涙は出てこなかった。どうしてかは分からなかった。弥吉が泣かなかったからかもしれない。一番に名前を思っているはずの弥吉が、一滴も涙を零さなかったからかもしれなかった。
「あいつが死んだ時、」
不意に、弥吉が力のない声で呟いた。あいつ。名前の父親のことだろうかと思った。
「名前は、ひとっことも俺を責めやしなかったよ」
名前が責めてくれなきゃ、俺ァ誰に責められればいい?静かに吐き出した弥吉の背を、俺は黙って見つめていた。そう思った時、既に弥吉は己を責めていたのだろう。
だから弥吉は、自分のたった一人の親友と名前への罪滅ぼしで、名前を育てることに決めたのだという。だがそうじゃなくたって、目の前でたった今天涯孤独になった子供を路上に捨てていくなんて、そんなことは出来なかったに違いなかった。俺だってきっと、弥吉と同じ事をした。

幸い、名前は母親に教えられたのか、家事ひと通りのことはできたという。母親が弱った時も、妹が熱を出した時も、父親がいない間も、自分の身の回りの世話は勿論、看病さえ、しっかりとこなしていた。それは弥吉と暮らすようになってからも同じだった。弥吉も寂しい思いをさせないよう、仕事の後は誘われても付き合いを断って住処に帰ったし、食事はいつも一緒にとった。
幸せってのは、こういうものなんだろうかと弥吉は思った。仕事の合間に、ひっそりとした寂しい廃墟の片隅にようやっと重い天秤棒をと腰を下ろして、冷えた握り飯を食いながら自分の胃袋のために稼ぎ、帰ってくたくたになった泥だらけの足もそのままに、冷水を飲んで空腹をごまかし、いつ干したのかもわからない布団を被って寝る。名前が来てからは、そんな今までの日常が嘘のようだった。
帰れば温かいおまんまが待っていて、戸口の布をめくれば人の住む気配がする。大した会話がなくったって、ただの白いご飯と薄いお湯のような味噌汁だって、誰かと食べるだけで、それは一人で食べる握り飯よりずっと美味しい物のように感じられた。
「守るものが出来るってのは、いいもんだと思った。これだけはあいつに感謝したよ。俺には勿体無い、よくできた子供を残してくれたって…」
弥吉は言葉に詰まってしまったようだった。だが名前は違ったのかもしれねぇなぁ。弥吉の喉から漏れたのは、ほとんど空気のような声だった。
幾ら弥吉がそう思ったところで、名前は笑わなかった。いつも、うつろな目をしていた。それは家族を続けざまになくしたショックを考えれば、仕方のないことだとはわかっていた。ゆっくり、解きほぐしていくべきなのだと弥吉は思っていた。
「もしかすると俺は名前に、自分の面倒を見るのは罪滅ぼしなんだと、思わせていたのかもしれねぇ」
たとえ弥吉がそんなんじゃねぇ、と言ったところで、弥吉に罪悪感がある限り、名前は心から笑うことは出来なかったのかもしれない。それでも、弥吉が名前を育てると決めてからの二年で、名前は少しずつでも笑いを零すようになったのだ。それだけは、本当だったのだ。
俺は頭が働かなかった。何の言葉も浮かんできやしない。弥吉の淡々とした小さな話し声が、するすると通り抜けていった。

名前を前に、名前の話をする。なんだか、妙な感覚だった。口を閉ざしたまま黙って背後に立っている俺に、口をもごつかせていた弥吉が、俺ァ。絞りだすように呟く。
「俺ァ……ちっとは、親ってのに、なれていたんだろうか」
「……馬鹿言え」
馬鹿を言え。俺はようやく声が出せた。ともすれば裏返ってしまいそうなほど、掠れた声だった。馬鹿言うなよ。心のなかで、もう一度繰り返した。
「あんたが親じゃねーってんなら名前は、」
名前はどうしてアジトを飛び出した?どうして物が喉を通らなくなるくらい、心配なんてした?一人でジャンクを拾いに行った?潔く俺のアジトに、預けられようなんて決意をした?何より、あんな頑固な奴が、黙ってあんたと暮らしてたんだ?
全部、全部。どれも、これも。
「あんたが、親だったからじゃねーか…」
何もかも、から回ってることなんざ、一つもなかったのだ。
俺の弱々しい声に、弥吉の喉がひとつ変な音を立てた。笑おうとしたのかもしれなかった。
「……生きるってのはこんなに辛ぇのに、人ってのはどうしてこうも…簡単に逝っちまうんだろうなぁ…」
その声は、空っぽだった。名前を覗きこむ弥吉の背中からは、何かが抜け落ちているように感じた。
ふと、もしかしたら俺が来る前に、弥吉は泣き尽くしていたのではないかと思った。泣いて泣いて、もう涙が出ないほどに体中の水分を絞り出した後で、俺のことを呼んだのではないだろうか。
「後でアジトに来てくれよ」
弥吉は黙っていた。
「あんたに全部返すよ。預かってた名前のもの、全部」
初めて俺が名前を見た時、弥吉は拾ったと言った。その通り名前と血の繋がりはなかったが、確かに弥吉の子に間違いなかった。弥吉は、名前の親で間違いはなかったのだ。子供を手元に置きたくない親なんて、どこにいるというのだろう。
もう、ここにはいられなかった。俺自身の罪悪感なのか、悲しみなのか、絶望なのか、ここの空気は吸い込むには重たすぎた。

去り際に微かな声が聞こえて、肩越しに少しだけ振り返る。あの時整備が進んでいれば。弥吉がか細い声で呟いていた。
「少しでも、撤去できていれば…」
俺は黙々と足を進めた。胸にはぽっかりと穴が開いて、すーすーと虚ろな風が吹き抜けていくというのに、頭は破裂しそうなほどまとまらない言葉や感情で溢れかえっている。
サテライト制度によって整備が打ち捨てられさえしなければ、瓦礫の下に埋もれて死ぬような人間がもっと減っていたはずだった。名前だって、死にはしなかった。

扉まで、無音だった。俺の足音だけが虚しく広い廊下に響く。
――夏になったら…
俺の声が蘇る。無闇に約束なんてするものではない。反響する足音に、思考が馴染む。守れない約束ばかりが、増えていく。

ドアを潜ると、真っ白な光で視界が遮られた。その熱さに目を細めて目蔭を差す。空虚に包まれた灰色の瓦礫と、その向こうでは真っ青な空が広がっていた。少し乾いた風がひゅるりと吹く。再び鳴き始めた、何も知らない蝉の声。じわりと、冷えた背中に汗が滲む。

夏だ。ぼんやりと思った。弥吉と名前の、俺と、名前の。約束の、夏だった。



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12/06/06 長編
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