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七月が泣くとき ― 07 ゆりかごの歌



気づいた時には、急に日が長くなっていた。手桶に貯めた水で顔を洗いながら、つい最近までこの時間は暗かったのになぁと、まだ季節に追いついていない体を緩慢に伸ばす。水気を取っていない顔からぽたぽたと雫が伝う。初めからシャツで顔を拭こうと面倒がっていたのがわかっていたのか、名前が呆れたように横からタオルを差し出した。
「おう、悪いな」と言えば、少し前までは頬を赤らめて嬉しそうに頷いていたのが、「それ以上顔が汚くなる」と憎たらしい口を利くようになった。どうやら名前も季節とともに変わり目を迎えたらしい。夫婦ごっこも、新婚夫婦から次のステップへ向かったようだった。
年少を起こしにテントへ駆けていく小さな背中を眺め、ため息をつきながらだるい体を左右に捻る。

変わったことといえば、まだ大きなものが一つあった。いや、これから分かることというべきなのか。思い直し、名前の持って来たタオルを首にかける。タオルの感触が、必死で手洗いする名前の姿を浮かび上がらせる。同時に八十八夜も過ぎる頃、息せき切ってやって来た弥吉の言葉が思い出された。
――吉報だ!

「吉報?」
弥吉が天秤棒を振り廻さんばかりにアジトに飛び込んできたのは、子供達と棚を作ろうと壊れた木材を繋ぎあわせて、慣れない手先でトンテンカンしている時だった。脇目もふらず俺の元へ駆け寄って来ると、興奮しきった顔で頬を窪ませる。
「ああ、吉報も吉報だ!名前は、あいつはどこにいる?」
普段温厚な弥吉の大声に驚いて、屋内にいた子供達がこちらを伺うように顔を覗かせている。その中に名前の姿もあった。名前を見つけると、弥吉は一層笑みを深めながら大きく手招きをした。何が何だかわかったものではない。
置いてけぼりの状況を焦れったく感じたのか、子供達が声を上げた。「なんだ」「どうした」と、争うように口々に弥吉に質問を投げかける子供達を宥めて弥吉を見れば、歩み寄った名前の肩を嬉しそうに抱いている。
「おいおい、どうしたんだ」
聞きはしたものの、弥吉の様子から何となく次に出る言葉が分かってしまったような気がした。弥吉は俺の想像を肯定するように、感慨深く目尻に皺を寄せた。
「世話になったなぁ」
世話になった。言葉が、俺の頭の中をぐるりと一周する。
「世話になったって、そりゃあ…」
弥吉はやはり口を大きく開けて笑みを滲ませながら、
「名前を迎えに来れるようになった」
と言って、名前の頭を揺れるほどに撫で回した。予想はしていたが、驚いたのは俺や子供達の方だった。
「そんなに急にか?」
ざわめく声に、流石に話を性急に進めすぎたことを恥じたのか、弥吉は申し訳なさそうに「夏になったらだがな」と頭を掻いて言う。
名前もまた嬉しそうな顔をしていた。どんなに否定しようと、親子なのだということを見せつけられたような気がした。名前のそんな表情を見て、弥吉は人懐っこい顔を更に緩ませていた。
「良かったじゃねーか」
心からそう思った。
弥吉と名前の事情は今でも知らない。時折垣間見える影も、二人の抱える問題で深く入り込むべきではないと、見て見ぬふりをしてきた。触れられたくない過去があることは、子供達ですら知っていた。それでもこのアジトで過ごした限りは仲間で家族であることは変わらなかったし、それと同じように、たとえ血が繋がってなかろうと、弥吉と名前が親子であることは誰の目から見ても明らかだった。
その二人がまた共に過ごせることは、嬉しくもあり、羨ましくもあり、また寂しくもあった。それは二人を祝う感情とはまた別のものだった。
マーサが一人の母親だったら、ピアスンが生きていたら。ふと自分の過去を振り返ってしまうのだ。だがそういった感情はいつもすぐに消えて、子供達こそ強く抱えている憧れに違いないと思うに至った。俺よりずっと子供達の方が、寂しさや憧れといった気持ちを抱えているかもしれないのだ。そしてその子供達にとって俺が、マーサであり、ピアスンであり、弥吉かもしれないのだ。
「良かったなぁ、名前」
弥吉に言わせれば俺が子供だろうと、そのために俺は二本足で立っていなければならなかった。弥吉という親に憧れるのではなく、弥吉のような親にならなければならなかった。
「クロウ…」
名前は微笑む俺を見て一瞬、寂しそうな顔をした。それだけで俺の17年が、意味のあるもののように思えた。

「クロウ兄ちゃーん!」
ようやっと寝床から這い出した子供達がもみくちゃになりながら何やら騒いでいる。また粗相をした子供がいたのかもしれない。騒がしい声に手を上げて返事をする。
寝起きだからか、頭がやけにぼんやりとしていた。嬉しいはずだ。たしかに心からそう思っていた。本心であることは間違いなかった。だが、弥吉が名前に迎えに来ると告げてから、もう10日は経っている。この調子で夏までのひと月もふた月も、あっという間に過ぎていくのだろうか。そう思った途端、不意に全身から力が抜けていくような気がしたのだ。それはどこかおぼろげで、非現実的だった。名前がこのアジトへ来てから、まだ一年も経っていない。それでも俺には、名前のいなかった生活が思い出せなかった。
弥吉が言うには、知人から店を譲り受けられることになったらしい。小さな雑貨店らしいが、常連は多く、近隣で怪しい噂も聞かない。弥吉が腰を落ち着けるには願ったり叶ったりな条件だった。弥吉がこのアジトへ名前を預けた理由が、わかった気がした。恐らく、親子二人で安定して落ち着ける場所を探すつもりだったのだろう。
「夏までには迎えに来れる。だからそれまで辛抱してくれ」
そう言った弥吉には勿論、悪気などない。わかっていても、辛抱という言葉に僅かに胸を刺されたような気がした。
「兄ちゃん!早く!」
「わーったよ!」
今度は振り向いて叫ぶ。布団を引きずり出す子供に混じって、名前が泣きわめく年少の体を抱いてさすっていた。
「夏か……」
タオルを額に押し当て、髪から滴り落ちた水を吸い取る。眩しすぎる夏が、もうすぐそこから照りつけてくる。
線路、辿れっかなぁ。約束は快晴でなければならない。もうすぐ梅雨だ。今から辿るには曇天が多すぎる。テントへ足を向けながら、ぼんやりと未来を思い描いた。そのたった数ヶ月も、俺には曇り淀んで、見通すことは出来なかった。


おかしいぞ、と感じたのはそれからだった。名前がやたらと視界に入る。狭いアジトだから、とも思った。だが今までとは違っていた。視界に入っても気にしなかったのが、突然「視界に入る」と思うようになったのだ。始めは名前の方からまた俺に近寄ってきているだけなのだと思っていたが、子供達とジャンク集めに行ったのを知らず、どこへ行ったんだとアジトを見回した時に漸く、俺が名前を目で追っていたのだと気づいた。
流石に唖然とした。そこまで名前との別れが惜しかったのかと思った。俺が思うよりずっと、名前はもう、家族としてアジトに溶け込んでいたようだった。
弥吉はあれからぱったり姿を見せない。店を譲り受ける支度でもしているのだろうかと思い、寧ろ今顔を合わせるより好都合だと思わずにはいられなかった。今生の別れではない。だが夏がくればもう、名前がタオルを手渡すことも、ホットミルクを持ってくることも、食事の時間だと呼びに来ることも、子供じみた夫婦ごっこをすることもなくなるのだ。弥吉の顔を見れば、名前の声のない生活に頭を巡らせてしまうことは確かだった。
「クロウ様とあろうものがどうかしてるぜ」
調子を取り戻そうとおどけてみせたが、どうにかなるものではない。しかしそこで、はたと合うはずのない目が合った。俺のプレハブの入口で、「にいちゃ…」と言葉半分にドアを開けたまま、子供が目を点にして固まっている。そうして顔を真赤にすると、馬鹿にするように吹き出された。真っ赤になりたいのは俺の方だった。
「く、くぉら!笑うな!」
「ブフッ…!兄ちゃんのカッコつけ…ぶふっ…!」
「お〜ま〜え〜!」
飛び出そうとする小さな体をひっ捕まえて、羽交い締めにすると、甲高い声でキャーキャーと叫ぶ。騒ぎに慌てて駆けつけてきた子供達が、俺達の格好を見てなんだといった顔をした後、悪巧みするような笑みを浮かべ、一斉に飛びかかってきた。地面に倒れこんで土まみれになりながら、ごろごろと転げまわる。女連中は何が楽しいのかといった風に遠巻きにして、関与しようとしない。
「お前ら!兄ちゃん一人に全員たぁ汚ねーぞ!」
「戦略と呼んでほしいね!」
「そうだそうだ!戦術!」
「せんぽう!」
「なんでもいいから統一しろ!」
血相を変えて駆けつけていた名前は、すっかり笑いながら観戦に回っている。それでも腕にしっかりと抱えた救急箱が、名前らしかった。

「まぁったくよぉ…」
本気になるこたねーじゃねーか。呟くと、口々に「兄ちゃんこそ」という声が戻ってくる。体中どうやって出来たのかわからない傷やら痣でチクチクと傷んだ。一つの救急箱を回して、全員の傷の手当をするはめになったのは、残念ながら俺のせいだった。言い返せない悔しさにぐっと詰まったまま、ため息を飲み込む。
ガーゼを当ててギュウギュウ詰めのプレハブの壁に寄りかかった。
「痛くない?」
「……ない」
小さい子供の手当から優先して始めた名前は、コットンに染み込ませた消毒で丁寧に傷を洗い、優しく絆創膏を貼り付けている。どうしてこんなによく働くのだろうか。不意に不思議な気持ちになった。手当も慣れていれば、洗濯も、料理も慣れている。マーサに俺がそうされたように、子供達にひと通り教えて当番を組めるようになったが、名前は初めからひと通りのことは出来ていた。それが、名前の弥吉ではない親を連想させた。勿論弥吉が教えたことだってあるだろう。けれど名前のそれは、名前に染み付きすぎていた。そういう中で生活していたとしか、思えなかったのだ。
市場で声をかけられた時に見せた空虚な顔を見てから、名前の過去を詮索しまいと思ったものだが、感心と一緒に疑問が生まれるのは仕方のないことだった。

熱心に手当をする名前は、サテライトでは珍しいほど、怪我に拘る奴だった。
「これくらい舐めときゃ治るだろ」
今からそんなに大事にしてちゃ、デカくなってからも多少の傷で狼狽えちまうようになる。そういう意味で、冗談めかして傷をべろりと舐めて見せたら、叫び声を上げそうなくらいの剣幕で消毒液を振りかけられた。よく気がつく奴だったが、多少過保護の度合いが強くて、それには辟易した。
そんな名前の手当は、優しく、丁寧が過ぎて、言い方を変えれば時間がかかる。
あーあ、いつ俺に回ってくんだろうなぁ。思っただけと思っていたら口からも溢れていたようで、子供が名前に包帯を巻いてもらいながら、
「クロウ、もしかして嫉妬してる?」
とからかうように意地の悪い笑みを浮かべた。些か考えるのが面倒になった。
「あーそうだよ、兄ちゃんも早く名前に手当してもらいたいんだよ!」
子供染みた叫びを上げる。

また名前の最近のお気に入りの反応のように、呆れた目で見られると思っていた。その方がよっぽど良かった。だが名前は、囃し立てるガキ共の調子に俯いて、遠目でもわかるほど肌を真っ赤にさせたのだ。首筋から耳まで、ぼっと音が聞こえそうなくらい。
「お……」
おいおい。突然のことに声が出なかった。なんでそこで顔を赤らめんだ。思っても、それは音にならない。喉で何かにせき止められてしまっていた。
お前の夫婦ごっこももうそろそろ佳境だろ?新婚でもなんでもない。このごっこ遊びも次のステップへ入っていて、きっと熟練夫婦か何かだ。それが終われば死を看取って、そしてこの一方的なままごとは終わりだ。アジトから出ていけばお前は弥吉のたった一人の娘で、たった一人の家族なのだ。
勘弁してくれよ。
ぽろりとそんな言葉が頭に転がった。勘弁してくれ。自分の気持についていけなくなった。あるいは、ずっとそうだったのかもしれない。
わけが分からなくなるくらい、毎日が名前のことでいっぱいなのだ。

きっと、俺が名前を引き止めたかったのだ。不意に思った。きっと俺が、見ないふりをしていたのだ。
名前の夫婦ごっこに付き合ってやっていると思って、本当は、俺の方がそれに寄りかかっていた。頼っていたのだ。夫婦なんて、きっかけに過ぎなかった。歩み寄るための口実でしかなかった。そうして俺が支えるだけではなく、支えてくれていた名前に知れず助けられていたのだ。
俺は名前を一人の人間としようとしたが、名前もまた俺を一人の人間として見ていたのではないか。父親でも兄でもなく、俺自身を見つめていたのではないか。それがまだ幼い名前にとっては妻という形になったんだとしたら。

「はい、クロウの番」
いつもより小さめの声で、はにかむように名前は手を差し出した。手当を終えた子供達は、嵐のように外に飛び出してしまっている。散々からかい終えて、最早ここに興味のものは無いらしかった。
「悪ぃな、自分でやりゃいいんだが」
疲れてるだろうと救急箱に手を伸ばそうとする俺に、名前は笑いながら首を振った。
「やりたいの」
その一言で、俺は黙るしかなかった。消毒のピリピリとした痛みが、どうしてか心地いい。

マーサハウスでもピアスンのとこでも、俺が子供達を守っているように、二人にそれ以上に守られて来たが、どんなに背伸びしようと結局俺は子供達の中の一人で、ガキでしかない。二人共俺にとっては親同然の存在だったが、決して俺自身を見てくれはしなかった。どんなに優しかろうと、居場所をくれようと、俺だけの親に成り得はしなかったのだ。
だがそれは俺にも言えることだ。甘えるばかりでマーサやピアスンをこれっぽっちも見ちゃいなかった。支えようなどと微塵も思いもしなかった。支えられるのが、当たり前だと思っていたのだ。それは子供にとって悪いことではない。
だが名前は違う。名前は俺を支えようと、対等になろうとしている。それが背伸びだろうと、つま先立ちだろうと、寄りかかってもいいという覚悟をしてくれる名前に、俺は無意識でも、甘えていられたのだ。

居心地がいい。思いながら、名前に手当されるまま壁にもたれていると、名前の優しく触れていた手が離れ、救急箱を片付け始めていた。もう終わりなのか。浮かんだ言葉に我ながら恥ずかしくなった。まどろむような心地よさだったためか、もっと触れていて欲しいと引き止めそうになった。居た堪れなくなって、名前の頭をグシャリと撫でる。
「ありがとな」
すると俺のはにかむ顔を見た名前は、照れたように笑ってそれから、
「クロウは夏みたい」
と呟いた。唐突に、夏。
「なんだそりゃ」
「暑苦しいし騒がしいし」
「はぁ…?」
「汗っかきだし足は臭いし頭はオレンジだし言うこと細かいくせに大雑把だし」
名前のそれは段々悪口になってくる。もしかしてお前はやっぱり夏が、いや俺が嫌いなんじゃねーのか。思い始めたところで、でも。名前が言う。
「でも、いつも明るくて安心する」
なんだそりゃ。どっと笑いが起きた。脱力する。なんだ、と思った。なんだ、お前も同じだったのか。ほっとして体の力が一気に抜けた。
「もっと褒めるとこねーのかよ…」
「……あ、えっと」
笑いながら言えば、名前は狼狽えながら、指を折って俺の長所とやらを懸命に探し始める。その必死な姿が尚更おかしかった。
「名前!」
にやけながら叫んだ途端、ぽっかりした虚ろなものは、傷の痛みとともに、いつの間にか消えてしまっていた。



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12/05/04 長編
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