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七月が泣くとき ― 06 線路は続くよどこまでも



季節も春に近づいている。大分暖かくなった午前の光を浴びて、アジトの真ん中で火を囲みながら子供達と談笑していると、入り口から人の気配がした。木材から立ち上がって様子を見に行けば、弥吉が錆びたコンテナに寄りかかっている。声をかける前に俺に気づいて、コンコンとノックをしておどけたように笑った。
「聞いたぜ」
調子はどうだと聞こうとすれば開口一番にそう言ってにやけるので、俺は怪訝な顔で返した。
「妻として娶ってくれるそうじゃねぇか」
「ああ…それか…」
一気に脱力して肩を落とした。弥吉が愉快そうにケラケラと笑っている。
「名前から聞いたのか?」
「ああ、珍しく近寄ってくると思ったら“嫁ぐ”と来たから驚いて泣きそうになっちまったぜ」
「…どーせ笑い泣きだろ」
恨みがましく弥吉を睨むが、一笑に付されてこちらは面白くもなんともない。妻だろうが何だろうが好かれていることに変わりはなく、そしてそれをこうしてからかわれているのだから、俺の顔も少しは赤くなってもいいだろう。赤みを隠すようになんとなく名前の姿を探してみても、テントかプレハブの中に入っているのか見当たらなかった。
居たたまれずに足元で開きかけているたんぽぽを引きぬいて手で弄ぶ。ひと通り笑い終えた弥吉が、口を緩ませながら俺がくるくると茎を回すのを目で追っていた。

名前は依然、俺の世話を焼き続けている。実際は俺の面倒を見ているというより気を使っているだけだし、俺の方が寧ろ手を焼いているのだが、ままごとのようなその行為でどうやら俺と夫婦でいるつもりらしい。
流石にしおらしく三つ指なんぞはつかないが、テントに篭った日には食事を持ってくるし、タオルや着替えまで用意している。助かるには助かるのだが、どうも素直に厚意を受け取れない気がしないでもない。あれから添い寝も頻繁にせがまれたが、それは俺が断る内に名前から言ってくることはなくなった。大きく変わったことといえば、口煩く「盗みはやめろ」と繰り返すようになったことだけだった。
「俺ァちょいと寂しいぜ」
「あ?」
弥吉の声にたんぽぽから視線を移すと、弥吉はまだ俺の手元をじっと見つめていた。続く言葉を待って俺も薄い花弁を眺める。弥吉が口を開くのには間があった。
「おめぇから物を買うなと言われちまった」
「はぁ?」
名前の言いたいことはすぐに分かった。弥吉が盗品を買わなくなれば、俺も盗みをやめると思ったのだろう。だが、伝手は弥吉以外にもあった。それで困るのは顧客の減った弥吉の方で、聡い名前にそれが分からないとは思えなかった。だとすれば、軽い警告のつもりなのだろう。
そこまでしてやめさせてーのか、あいつは。ため息をついて頭を掻く。いつも出掛けるとなれば名前の目が光っていて、最近じゃ気軽に情報収集すら行けやしない。
「どうしてそんなに拘るかねぇ」
とつい零してしまい、舌打ちしそうになった。また弥吉に笑われると思ったのだ。だが弥吉はぼんやりと俺の手元を眺めているだけだった。まるで何かを思い出しているかのように、焦点は合っていない。無表情の薄気味悪い顔立ちから感情は読み取れなかったが、声をかけるのを一瞬ためらう空気をまとっていた。
弥吉。語尾が僅かに上がった。問いかけていいものか迷って、ぎこちない発音になった。響きが少し情けない。俺の声に弥吉はふっと意識を戻して、取り繕った笑いを浮かべた。
「…それだけマーカーだらけじゃ、あいつが心配するのも無理はねぇな」
子供達が何やらガラクタを抱えて弥吉へ一斉に駆け寄ってくる。その騒々しい音に紛れて、俺の感じた違和感は有耶無耶になってしまった。弥吉は手を上げて子供達に笑みを向けている。俺の勘違いだったか?そんなはずはないのだが、弥吉と子供達の騒ぐ光景を見ているとそんな気になってくる。
「弥吉!これ買ってくれよ!絶対売れるぜ」
「俺に売ろうってんならもっといいモン持って来な」
言いながら、天秤棒にぶら下げた袋に手を突っ込む。中身は全員が何であるか知っていた。寄り集まった顔がぱっと明るくなる。
「俺緑のやつな!」
「あっ俺も緑がいいのに!」
「んなもん何色だって同じじゃねぇか」
「弥吉はわかってない!」
飴玉をめぐって飛びつかれてもみくちゃにされているのを、俺は一歩離れて眺める。微笑ましい。自然と目尻が下がるのが分かる。だからどんな良い条件があろうと、弥吉と取引をするのだ。
名前が洗濯物を抱えてプレハブから姿を現した。こちらを見たので軽く手を上げる。途端名前が嬉しそうな顔をした。上げ返そうとして両腕に抱いた洗濯物を落としかけ、慌てて抱え直しているのが可笑しくて笑うと、それを見ていた弥吉が子供達にのしかかられたままの体勢で意味深な表情を浮かべた。目が不気味に弧を描いている。くくっと、そんな声が漏れた。
「見せつけてくれるじゃねぇか」
「…うるせーよ」
ありゃやっぱり俺の気のせいだったか。まぁ、弥吉も毎日歩き回っているのだ。やせ細った体のどこにそんな体力があるのかと思っていたが、疲れる時だってあるだろう。子供達に向かって「頭はやめろ」としきりに言う弥吉へ、たんぽぽをピン、と弾いた。


少し先の地区で市をやるらしいと聞いたのは、昨晩のことだ。いい情報はないかと仕入れに歩いていたら、広場でたむろしている連中から偶然耳にした。
市といっても治安維持局から許可の下りていない所謂闇市のようなもので、各々好き勝手に物品を売るだけの不定期な市場だ。だがその分裏ルートで仕入れたものも多く、偶にサテライトじゃ中々手に入らないような品物まで売られている時がある。取り仕切っているのがセキュリティにコネがあるのか、黙認されている部分があり、滅多に検挙にはやってこない。いわば裏取引の楽園だった。勿論表向きは健全な市を装っているので、見た目は普通の市と変わらない。用途によっては黒にも白にもなるという場所であった。
「お前は欲しいもんねーのか?」
市場の喧騒を前に尋ねると、名前が首を振った。普段は子供達を滅多に連れては来ないのだが、名前がどうしても行きたいとせがむので何か買いたいものがあるのだと思い、仕方がなく一緒に出てきたにも関わらず、何度聞いても名前は静かに首を振った。
「じゃあ何でついてきたんだお前は」
往来の隅に寄って市場を眺めていた目が、俺を見上げる。
「一緒に買物がしたかったの」
そのはっきりとした物言いに、夫婦だから、という語尾が聞こえたような気がした。呆れてため息もでない。
「クロウ早く、早く!」
すっかり見違えた名前は、はしゃぎながら俺の手を取って急かした。生き生きした足を止めさせることは俺には出来ない。
「おい、こら!犬じゃねーんだからゆっくり歩け!」
トン、と立ち止まった名前がきょとんと俺を振り返る。わん。不意に聞こえた声。
「わん、わん」
あ、犬だ。吠える名前にぽかんと口を開ける。また手を引っ張られた。リードなんか持っちゃいない。離れろと言っても離れていきゃしないから、持っていたって意味がない。一人で捕まえて一人で走っていく、そんな身勝手な犬だ。
こいつにゃ振り回される。多分下手すりゃ一生この調子かもしれねーぞ。ぐいぐい引っ張られる腕にそう思ったのは、本当に無意識だった。

仲のいい兄妹だ。手を繋いで歩く俺達を見れば、そう思われるのは自然のことだろう。だが名前はそれが気に入らないらしい。
名前がそう思うだろうことは分かってはいたが、兄妹だと間違える人間に一々「夫婦です」と言い直すのには参った。顔見知りにも数人会ったが、そちらにも尋ねられないというのに丁寧に告げていくのだから、いよいよ口を塞ぐ方法を考えなければならなくなってきた。そうして頭を巡らせていると、必ず怪しい奴にぼったくられそうになるので、その度に関心を持って聞き入る名前の襟を無理に掴んで逃げ出さなければならなかった。
未だにいい案は浮かばない。この数十分で俺と名前のままごと夫婦は市場に知れ渡っていることだろう。記憶力の良い奴なら、今後会う度に「よう色男!」と腹を抱えてからかってきそうで、想像するだけで胃が重くなる。
しかしこいつは満足そうだ。隣を愉快気に歩く名前を横目に見て、そりゃそうかと思った。俺のどこを気に入っているのかは知らないが、こいつにとっちゃ、俺は夫婦と形容するほど必要な存在らしい。それ自体は嬉しいが、妙な噂を立てられるのだけは御免だった。
「苗字んとこの娘じゃねーか」
「あ」
悶々考えていると、唐突に名前が立ち止まる。どうしたものかと考えあぐねていたところだったので、俺は驚いて声の方を向いた。苗字?誰だ。思って名前を見れば、テントの横でリヤカーに腰掛けた親父に目を向けている。どうやら声をかけたのはその親父のようだった。
「どうも」
名前は歩み寄ることもせずに、立ち止まったまま深々と頭を下げた。そんな無愛想な態度に気にした様子もなく、寧ろ可笑しそうに親父は笑った。
「苗字の娘は昔っから変わらねーなぁ!」
そういえば俺は名前の苗字を知らなかった。親父の言葉に、苗字とは名前のことだと漸く気づく。ゼロリバースの影響で両親と引き離されて育つものが多いためか、稀に苗字のない奴もいたので、特に気にしていなかったのだ。
苗字。弥吉から貰ったものだろうか。弥吉なら何度かこの市でも見かけたことがあるし、サテライトじゃ知り合いも多いだろう。
しかし娘たァな。弥吉のニヤけた面を思い出してひっそりと笑う。拾ったとさんざ俺には嘯いておきながら、なんだかんだでふれ回ってやがる。呆れた親ばかだと、先日の仕返しを計画してほくそ笑んでいたが、名前が俺の手をぎゅっと強く握る感覚に意識を戻した。
「親父さんは元気か?」
屈託のない親父の問いに、悪気などあろうはずもなかった。だが、空気は張り詰めてしまった。
「父は、死にました」
名前はやけにはきはきとした口調で答えた。自分で言葉を噛み締めているようだった。
親父は名前の言葉にばつの悪るそうに口を閉じてしまった。僅かな気まずい沈黙の後で立ち上がると、リヤカーから売り物と思われる酒瓶を持って歩み寄る。そして無言で名前の手を取ると酒瓶を腕に抱かせた。重みで名前の体がゆらりと沈む。
「悪かったな。兄ちゃんと仲良くやんな」
すり切れた軍手をはめた手で頭を撫でる。名前は何も言わなかった。兄妹ではないとも、夫婦だとも、一言も言わなかった。また深く頭を下げると、黙って俺の手を引いて雑踏をかき分けて歩いて行く。握った手が小さく感じる。
弥吉のことじゃあなかったのか。ぼんやりと思ったが、かける言葉は見つからなかった。

市場の端まで見たが、生活必需品以外にこれといって目ぼしい物はなかった。名前も欲しいものはないとは言ったものの、歩いていればその内目を留めるだろうとゆっくり見て回ったが、先刻の出来事からぷっつりと黙りこんでしまっている。名前の片腕に収まった酒瓶の中身が、重たそうにゆらゆら揺れている。
「名前」
声をかけたときには、市を通り抜けていた。活気を背にして名前を呼ぶ。名前ははっと後ろを振り返って、それから俺を見上げた。
「ご、ごめんなさい」
答える代わりに頭を撫でると、名前は安心したように力を抜いた。
「ガキ共にも土産を買ってこうと思ったが、あいつらが欲しがるようなのはなんもなかったなぁ」
抱えた袋を覗いて買ったものを確認する。紙袋の中には歯ブラシやら缶詰めやら紙やらまとまりのないものが雑然と押し込まれている。これじゃあ喜びはしねーだろうなぁ。そんなことを思いながらどうしたものかと頭を悩ませていると、市場を振り返っていた名前が俺の手を引いた。
「あれ」
と言うので、視線の先を追う。“あれ”の指すものが分からずに暫くきょろきょろと目を彷徨わせていると、名前がもどかしそうにもう一度手を引いた。
「あれだって」
「だからあれってどれだよ」
幾ら互いに片腕が塞がっていようと、繋いだ手を離せばいいだけだ。ちょっと離してさっと指を差してしまえばすぐに分かることなのだ。だが、そのちょっとですら名前は嫌なようだった。
仕方がなく名前に導かれて“あれ”とやらを拝みに戻る。バラック小屋の並ぶ一列の中ほどで、名前は立ち止まった。これだと言いたげに俺を見るので、ひょいと覗けば肉を売っている。確かに肉ならやかましいあいつらでも喜びそうだった。
「うし、そいじゃ買ってくか」
普通に買うよか値は張るが、法外な高さではない。荷物を抱えた手でがま口を取り出すと、名前が嬉しそうに口を緩めた。元気になったか?値踏みをしながら俺はほっと息をついた。


せーんろは続くーよー、どーこまーでーもー。帰り道、名前は終始上機嫌だった。思いの外荷物が重くなって繋いでいた手は離してしまったが、あの沈黙の時間が嘘だったかのように、名前は文句を言う事もなくステップを踏みそうな勢いで体を揺らしている。それどころか、気持ちよさそうに歌まで口ずさんでいる。いつだったかは忘れたが、小さい頃に聞いたことがある。歌詞も覚えている。懐かしい歌だった。
「そんな歌、よく知ってたな」
俺が言うと、名前は酒瓶を揺らしながら、
「父さんに教えてもらったの」
と嬉しそうに語った。
「鉄道が好きだったから、よく歌ってた」
父親とは、やはり弥吉のことではないのだろう。弥吉が拾ったと言うようになる前の、名前の本当の父親のことなのだろう。
死んだ。そう言った名前の声を思い出す。噛み締めるようなあの言葉の中に、何を含めていたのだろうか。俺にはさっぱり分かりはしなかった。分かるはずもなかった。父親も、母親も、最初から記憶になかった俺には、名前ほどの歳で肉親が死ぬということがどんなものなのか想像できるはずもない。だが半年以上共に過ごして初めて見えた名前の親の影に、俺はどこかで安堵していた。
「いー歌だよな」
名前が綻ぶように笑って頷く。言葉だろうと歌だろうと、親の思い出を表せることが少し羨ましい。そして、楽しそうに父親のことを話す名前が、俺には嬉しかった。
元から両親のいない子供、幼くして失った子供、捨てられた、もしくは自ら飛び出してきた子供。孤独になる理由は沢山ある。でも俺は一度もそいつらを可哀想などと思ったことはない。
違うのだ。同情でもなんでもない。俺は、俺のためにこいつらと一緒にいる。俺が昔出会った仲間たちに教えられたように、世の中には、辺りを見回せば居場所も笑顔も幸せも溢れるほどあるということを教えてやりたいだけなのだ。その一つ一つの小粒の幸せが、ひとつくらいの不幸じゃ覆せない、とんでもなく大きな希望になるということを俺は伝えたかった。こうして変わらない日常を過ごす中で、自然とそう思ってくれていればいいと思った。
だから名前の見せるこの笑顔が、俺は嬉しくてたまらないのだ。

「はーるかな町まーで、ぼくたちのー、たーのしい旅のー夢、つーないでーるー」
ランランと名前は歌いながら、踊るように大股を踏んで歩いた。俺の前を一歩二歩三歩と躍り出る。跳ねる背中をゆったりと歩きながら眺める。これが普通の名前だったのだと思った。理由もなく人を睨みつけるような、そんな奴ではなかったのだ。
ふと、名前に聞きたくなった。出会った時では見れなかった表情や豊かな感情を、どうしてここまで出すようになったのか。ここに来たことで、何かが変わったのかと思った。俺は、名前の何かを変えられたのだろうか。そうであればいい。
「なあ、名前」
愉快気に歌い続ける名前の背に声をかける。明るい笑顔が振り返った。
「なぁに?」
それは、本当に子どもらしい顔だった。柔和で、無垢で、微塵も疑いを含んでいない、真っ白な笑顔だった。
「…いや、」
一瞬、開けた口を閉じた。滲むように、俺の口元に笑みが広がっていく。聞く必要はないと思った。聞けば、俺のちっぽけな願望を名前に押し付けることになるかもしれない。それに。
「夏になったら、線路を辿ってみるか」
名前は、ステップを踏みかけていた足を静かに止めた。
「本当?」
「ああ、本当だ」
BAD地区を出てすぐに、もう使われていない線路があったはずだった。思い返して、名前に頷く。名前は目をまんまるくして、早口で聞き返した。
「一日中?」
「おう!弁当持って、のんびり歩いて、そんでみんなで探検すっか」
それに、聞く必要なんてないと思ったのだ。
「うん、絶対ね!」
名前の顔を見たら、それが答えのような気がしてならなかった。

春風が吹いている。遠くの埃もすっかり舞い上げちまう強風は、二本足でなければ立っていられない。それでも、これっぽっちも寒さなんて感じやしなかった。
ランラランラ、ランランランランラン。名前の声が風に乗って走っていく。心なしか、汽笛が聞こえてくるような気がする。夏までこのまま、走り抜けられそうだった。



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12/01/22 長編
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