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七月が泣くとき ― 03 声に染み入る



夜がとっぷりと暮れる。
「ほら、ガキはもう寝た寝た」
夜更かしを目論む子供達を追い払いながら、温かいモンでも飲んで寒さをしのごうと鍋にお湯を沸かす。
「兄ちゃんだってガキのくせに」
「んだと?!」
鍋を放って思わず追いかけそうになった体を引き止めて、さっさと寝ろー!と叫ぶに留める。きっと弥吉の口癖を真似たのだろう。確かに弥吉に比べりゃ俺はまだまだガキだが、お前らよりは数年長く生きてんだ。思いながら体を戻す。
逃げるように閉められたドアの向こうから、きゃーと甲高い笑い声が聞こえた。まったくガキは元気なもんだ。いつも何かしらでどたばたと忙しい。

名前がこのアジトに住むようになってから、すでにふた月が経とうとしていた。冬の寒さもいよいよといったところで、ちらほらと雪が降っては積もることもあった。
この頃では名前は子供達の輪に入るようになった。まだまだ進んで、というわけではないようだが、無言の体勢だけは解いたようだった。俺が気をつけて名前を見るようになったからか、そういったことに聡い子供達は恐らく名前が人見知りだということに気づいたのだろう。半ば無理矢理に名前を引き込み、いつの間にかそこかしこに連れ回すようになっていた。

俺が名前にとって弥吉の代わりとなっているかはどうとして、名前に気を配るようになってから分かったこともある。俺が思い違いをしていたのは実は名前の人見知りだけではなかったということだ。
名前は元来がそういう性質なのか、はたまたまだ緊張がほぐれていないのか、能面で滅多に表情を動かしはしないが、体だけはよく動かした。薪がなくなったのに気づけば補充し、年少が怪我をすれば救急箱をそっと側まで持って来、醤油差しに醤油がなくなれば夕飯前に注ぎ足している。気づかないところで気を利かせるのがうまい奴だった。
元から細かいことに気の動く性格だったのだろうが、来たばかりの頃の名前では考えられないことだ。少しずつここの生活に慣れてきたのだと思った。それが無性に嬉しかった。
相変わらずにこりとも笑いはしないが、もう俺を睨みつけてくるようなこともない。戸惑ったり驚いたり微かに見せる表情に、俺は気づかぬ内に満足を覚えることもあった。
親になった気でいんのか俺は。思って考えて見れば、名前とは兄妹程度しか年が離れていないはずだったが、確かにどんな子供達よりも手がかかる娘のようにも思えた。
「まさかなぁ」
不意に可笑しくなって、お湯の煮立つ音に紛れてくつくつと笑った。

トン、とドアが鳴った。風の音かと思ってぼうっとコンロの前に立っていたが、もう一度トン、という音に戸口を振り返る。外で人の動く気配がした。微かに砂利の擦れるのも聞こえる。
「おう、入っていいぞ」
子供達にしてはやけに礼儀を知っている。あいつらはいつ何時でも俺が何をしていようと、構わずノックと共にドアを開けて飛び込んでくる奴らばかりだった。その違和感が来訪者は名前だと思わせた。
控えめにドアが開く。コンロの火を止めて歩み寄り薄っぺらいドアを押してやると、思った通りそこにいたのは名前だった。両腕いっぱいにタオルを抱えている。そういえば今日の洗濯当番は名前だったと思い至った。
「お疲れさん。適当なとこに置いててくれ」
名前はキョロキョロと部屋を見回して、俺の衣服が無造作に重なっている部屋の隅の低い棚に洗ったタオルを積み上げた。そのまま出るでも座るでもなく、ぼんやりと突っ立っている。顔がほんのりとピンクに染まっていたので、疲れて眠くなってきたのだろうと感じた。
「名前」
名前を呼べば、はっとしたように顔が上がる。笑いながらベッドを指さして「そこに座ってろ」と言うと、黙って頷いてたどたどと歩きながら腰を下ろした。
どこにやったかな。棚の上、ダンボールの中と俺は目的の物を探す。なにせ使ったのが随分前で、滅多に部屋の掃除なんぞしないために、いつも物の位置が変わってしまっている。
「おっ、あったあった」
箱の下で潰されていたものを引っ張り出して、代わりに散らかしたものを放り込む。そしてそれに沸かしていたお湯を入れて、ベッドの端で縮こまっている名前に軽く投げてやると、「あっ」と慌てた声を出しながら、名前は危うげに布袋に入れた小さな湯たんぽをキャッチした。
「それを抱いて温まってろ」
名前はまたこくりと頷いて、腹の上で静かに湯たんぽを抱えた。


名前を見ていると、俺が初めて人の輪の中に入れた時のことを思い出す。両親の記憶もなく、一人で動けるようになるまで育てられた人間の記憶も薄い。たった十六年の記憶の前半は霞掛かっていて、思い出の始まりはいつも一人だった。
だからこそ強く記憶に残る。敵意のない声を聞いた瞬間と包み込まれるような笑い顔が、聴覚でも視覚でもなく、俺の感情として心に強く残っている。ほっとした。笑うということは得体のしれない温かくて苦しいものが渦巻くことなのだと思った。
それは今だからこそ安心感で泣きたくなったのだと分かる。だがその時の俺は、それが笑うことなのだと生真面目に考えていた。常に気を張って、朝から晩まで周りは敵と孤独しかないように感じていたのが、急に世界が反転した。見えるものすべての色が変わって、俺は自然に笑うということを知ったのだ。

ペットボトルから鍋に水を入れ、コンロにまた火をつける。シンクに寄りかかりながらベッドの隅で息を詰めている名前を横目に見る。名前もそうなのだろうか。眺めていると、ふとそんなことを思ってしまう。少しも笑わず、何もかもに身構えて体を強張らせている名前を見ていると、その日すら曖昧だった俺の記憶が重なってしまうのだ。
「名前、あったけぇか?」
目を細めて言えば、名前は小さく頷いた。湯たんぽを抱きしめている腕から覗くのは、熱で桃色に染まった手だ。体が火照ってきたのか、頭が眠たげに揺らぎだしている。少しずつ緊張が解れてきているようだった。
そのまま全部解れてしまえと思った。解れてふにゃふにゃのタコみたいになって、笑っちまえ。そう思いながら今にやけているのは俺自身だということに気づき、気色の悪さに呆れて口を曲げた。

そんな穏やかな時間が変わったのは、そろそろだと思ってカップを取り出そうとした時だった。背後で鈍い音がした。ん?と何気なく振り返ると、足元にごろりと湯たんぽが転げ落ちている。そこから這うように視線を上げれば、名前が膝に頭がつくくらい背を丸めて寝こけている。
おいおい器用な奴だなぁとひっそり笑いながら近寄って肩を掴む。
「そろそろ布団行くか?」
言いかけて言葉を飲んだ。覗いた首筋が真っ赤になっていた。一瞬の違和感に思考が停止した後、慌てて名前の顔を両手で挟む。熱い。湯たんぽの熱ではない。熱い。尋常ではない熱だ。サテライトじゃ風邪をこじらせたって死ぬこともあるのだ。そんな人間をごまんと見てきた。喉が空っぽになった気がした。おい。呼びかけるが、俺の声は息のようだった。
「おい、名前!」
ぺちぺちと、軽く頬を叩く。名前のまぶたが薄っすら開いた。大丈夫か。名前が頷く。
「大丈夫なわけねーだろ!」
もう何を言っているか分からない。何で気づかなかったんだ。焦って思考は回らない。この部屋に来た時から名前は少し顔が赤かったのだ。この生活に慣れてきたんだと思ったばっかじゃねーか。このふた月ずっと気を張り詰めていたのだ。緩んだ拍子に熱を出すことだって考えられたのだ。何で気づかなかったんだ、俺は。
ベッドに名前を寝せて、落ちた湯たんぽを抱かせる。ぐしゃぐしゃに丸めて放り投げていたシーツやら毛布やら上着までも、暖を取れそうなものを集めて名前の上に被せる。
薬。前にガキ共が死にかけた時に、伝手で貰った薬があったはずだ。それでも高い金かけたが、なんとか払いきって暫くはジリ貧生活だった。だが死ぬよか全然マシだ。そん時の薬がまだ残っていたはずだった。どこにしまったのか。
頭を掻きながら部屋中を荒らしまわる。横になった途端、名前からは荒い息が聞こえ始めた。微かに寒い、と言う声が聞こえた。熱が上がるかもしれない。汗をかかさなければ。いや、その前に薬を。頭がぐるぐると回り始めた俺の横から、顔を真赤にした名前が苦しそうにもがいて、俺が積み上げた布団から手を出した。人差し指が俺の真後ろを指す。
「コンロ…!コンロ!」
「えっ…あっ!」
火をつけっぱなしだったのを思い出し、散乱した物の山を踏みつけながら泳ぐようにしてコンロの火を止めた。
「悪ぃ名前」
振り返ると、布団から顔と手だけが出た亀みたいな名前が俺を見上げて、ほっとしたように頷いた。
コンロと名前を交互に見る。俺が落ち着かないでどうする。そこで俺はようやく冷静になった。


薬は棚の奥底に袋に詰められて眠っていた。なんとか探しだして白湯と一緒に名前に飲ませる。味に不満そうな顔をしていたが、子供達に内緒でこっそりと取っておいたみかんを剥いて口に放り投げてやると素直に飲み込んだ。
それからかなりの時間は経ったが、疲れているだろうに、一向に眠る気配はない。それどころかもぞりと体をくねらせて必死に布団から這い出そうとしていた。俺は椅子に座ったままその様子をじっと眺める。
「…何やってんだお前」
「寝る」
と名前は意味のわからないことを言う。その度に俺は零れた足と手を布団に戻さなければならなかった。
「寝りゃいいだろ」
本当は元気なんじゃねーか?と思いながら不思議な行動をなだめていると、名前は僅かに口を尖らせた。人間らしい一面を見たような気がした。
「ここじゃなくて」
「はぁ?」
うっすらと言いたいことが分かってしまった。つまり、いつもの子供達と一緒の自分の布団で寝たいと言いたいのだろう。
「寝づらいか?」
名前は頷きもせず、黙って視線を落としている。わからねーなぁ…と思っていると、布団がという声が聞こえた。
「…布団が重い」
「我慢しろ」
ため息を付いて、俺はまたもがき始めた名前を布団の中に詰め込んだ。それでも名前は抵抗をする。熱で体中痛いはずだが、隙があればベッドから這い出そうと必死になっていた。
何でこいつはこんなに自分の寝床で寝たがるんだ。単に布団が重いからか?この必死な様子を見ているとそんな理由ではない気がする。もしかして俺が嫌いだからか?出会ったばかりの頃の、噛み付くような目付きを思い出す。しかし名前は嫌いな人間に口を聞くようなやつではなかった。
「しょうがねーなぁ。あんま我儘言ってっと俺も布団に入っちまうぞ」
もぞもぞと布団の重みから逃れようと暴れる名前を覗き込んで、冗談めかして言う。てっきり睨みつけられたり、さっきのように嫌だと返してくるかと思ったが、名前はびくりと体を揺らしたっきり大人しく布団の中に収まってしまった。
あれ、もしかして本当に嫌われていたのか?と微妙な気分になりながら、「冗談だよ冗談」と安心させるように頭を撫でる。すると名前は顔半分まで布団に隠れ、横目に俺を伺うと、窮屈そうに寝返りを打った。その目元が寂しそうに見えたのは熱のせいだろうか。呆然と名前のつむじを眺める。
「悪ィな、あいつらにうつるといけねーから」
我慢してくれな、と俺が呟くと、名前の頭が小さく縦に揺れた。

暫くして、ぼそりと声が聞こえた。入れてあげてもいい。名前がそう言った。聞き間違いかと思って黙っていると、名前が頭だけでぎこちなく俺を振り向く。
「……今日は寒いから」
俺が椅子の上で毛布に包まることを言ったつもりなのだろうが、これまでの仕草を見ていると、どうしても名前が寒くて仕方がないように思えた。少しだけ、どう返せばいいか悩んだ。
「おう、さみーからな」
笑って布団に入る。名前は重いと言ったが、思うよりずっと重ねたはずの布団は軽かった。
十と言っても体は幼児より大きくて、一人用のベッドは少し狭い。ブーツを脱いだ俺の足の指が名前に触れると、冷たいのかぶるりと震えた。
「…っしょと」
俺が詰める度に、窮屈そうに丸まった体がどんどん壁の方へ寄っていく。それじゃ寒いだろうと、引き寄せようと背を向けたままの体に腕を回す。途端名前がびくりと跳ねた。俺も驚いて、一瞬手を引っ込めそうになった。構わず引き寄せる。体はガチガチのコチコチで、これじゃあ下がる熱も下がらない。
「大丈夫だ」
何が大丈夫だか分かったもんじゃないが、この鋼鉄のような体をほぐしてやろうと思った。大丈夫だと何度も頭を撫でる。月明かりに見る名前の肌はやはりまだ真っ赤で、触れた頭は燃えるように熱い。汗を掻くまで、あとどれくらいかかるだろう。名前の緊張をほぐしながら、ぼんやりと考える。包み込んだ体は熱で湯たんぽのように温かい。俺自身もぬるま湯に浸されたように落ち着いていくのを感じた。弥吉に預けられた時、頑なでどうしようもない名前を面倒だと思っていたことは、もうすっかり忘れていた。
次第に、硬かった名前の背が弛緩してくる。撫でていた手を中に入れて、ずれた布団を名前にかけ直した。
「名前、あったけぇか?」
また頷くのだと思って気配を凝らしていた。けれど違っていた。ふわりと空気が動く。俺の耳が柔らかい震えを捉える。
「…あったけぇ」
あったけぇ。半分眠りに入った舌っ足らずな声が、やんわりと答えた。引き寄せていた俺の腕が名前に捕らえられる。熱い手で、ぎゅっと抱きしめられる。ぞくりと震えかけた。こそばゆい。背中のあたりが痒くてたまらない。むずむずと、勝手に体が騒ぐ。これだから。これだから子供はいけない。無防備に頼られると、まるで俺がすべてだと思われているような感覚になる。手の届かないところが痒くて仕方がない。くすぐったくてもどかしいが、その感覚は嫌いじゃなかった。
まだ、名前は寝ていない。今度は俺の方が動けなくなってしまった。まどろみを妨げないように息を殺す。

名前に抱きしめられた腕から絶え間なく、どくどくと早い鼓動が伝わって来ている。不意に暗闇の中に名前のもがく姿や、赤らんだ顔が浮かんだ。
名前のこれは熱のせいだろうか。意味もなく、そんな考えが過ぎった。


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12/01/08 長編
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