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七月が泣くとき ― 04 愛か恋か



胸のあたりがもぞもぞと動くのに、微かに意識が戻った。腿に何かが当たっているようで重い。瞼の裏はオレンジの光を灯していた。ああ、朝なのかと思いながら、寝ぼけ眼をゆっくり開ける。
「おーい」
名前。呼ぼうとして止まった。たるい間延びした俺の声がしん、と空気に溶ける。いつの間に眠ったのかは覚えていないが、寝る前にあった名前の頭が視界にない。あれ、どこ行った。ぼうっとした頭に浮かべつつ息を吐き出すと、ほんのりと白い影が泳ぐ。ああ道理で顔が冷えるはずだ。だが、思った俺の体は温かかった。思考の動かないまま、重たいまぶたと一緒に視線を下に下げた。
「あ」
あ。ぽろっとその音だけが零れた。口からころころと転がって壁に軽くあたって砕ける。いた。思ってぼんやりと見ている内に、俺の目は次第に覚めてきた。
背を向けていたはずの名前は、寒かったのか俺の胸に引っ付いて丸くなり、布団の中で湯たんぽ同然となっている。強情で意地っ張りな名前の素を見た気がしてくすぐったい気持ちを抱えながら、俺はそっと首筋に手を当てた。
介抱の甲斐あって、どうやら熱はすっかり冷めたようだった。汗を掻くまで寝ずに待って、嫌がって駄々をこねるのを夜中に無理やり着替えさせ、また首を振るのに説得して水分を取らせたりと、嵐のような数時間だった。お陰で寝た気は全くしない。予想以上に世話のかかる奴だった。
だが、名前の世話を焼くことは苦痛ではなかった。確かに面倒だと思うことはある。このアジトには色んな人間が住んでいるし、ひとっ通りじゃ行くわけがない。喧嘩したり泣いたりと毎日騒がしいもので、それに引っ張り回されれば疲れることだってあるだろう。俺は名前をそんな中に入れてやりたかった。一人の人間にしようと思ってからずっと、楽しけりゃ笑って、気に入らなきゃ怒る。そんな人見知りの殻を破った、一人の人間にしてやりたかったのだ。
子供らしい顔もできんだなぁ。丸まって眠る名前に、仄かな嬉しさがこみ上げる。

外は明るんできている。子供達も起き出す時間だろう。窓越しから微かに活動する音が聞こえた気がして、半身を起こしながら、ぐっすり寝こけている名前の頬を軽く叩く。
「おーい、名前」
「んん…」
ぺちぺちと叩いていると、身じろぎをした後で、名前の目が薄っすらと開いた。
「おはようさん」
声をかけるがまだ目が覚めていないのか、名前は暫く半目のまま俺に身を寄せていた。ゆるゆると顔が持ち上げられる。目が合って、眠たげな瞼が瞬いた。
突然、ゴツッととんでもなく鈍い音が響いた。勢いよく後ずさった名前の肘が、プレハブの壁にがっつりとぶち当たったようだ。口を金魚のように開閉させて、「なん、なん…」と繰り返している。
痛みか驚きか、はたまたその両方なのかはわからないが、壁に背をぴったり寄せて目を白黒させているのに、俺は笑い声を上げずにいられなかった。人見知りもここまで来ると病気だ。さっき感じたこそばゆさはやっぱり撤回した方が良さそうだった。こいつは素直じゃなければ頑固で、一筋縄ではいかない。
「おら、挨拶はどうした」
「お…おはよう」
よく出来たと言わんばかりに、ぐしゃりと頭を撫でる。ぽかんとしていた名前が、一瞬面白くなさそうな顔をした気がした。しかしどうしようもない。弥吉が乗り移ったとでもいうのか、それすらも嬉しいと感じる。
「名前、汗拭いてやるから着替えちまえ」
頭を撫で回すままそう言うと、名前は困惑したように俺を睨みつけた。
「…やだ」
予想はしていた。ため息をつく。なんでこいつはこーも頑固なんだ。
「また熱ぶり返したくなかったらさっさと着替えろ、ほら」
昨日名前が洗ったタオルと、昨夜用意していたガキ共の着替えを持って名前に近づく。触れようとした途端、キッと眉が上がって、俺の脛は鈍い衝動を受け入れた。
「ぐおっ…!」
名前の靴を履いた足が、弁慶の泣き所にダイレクトアタックをキメていた。それも思いっきりだ。俺の脛はボールでもサンドバッグでもない。あまりの痛みに思わず前かがみになる。そんな俺の横で、名前は何事もなかったかのように使った布団を綺麗に畳んでいる。普段なら偉いと褒めてやるものだが、今はそれどころではない。
たたみ終えると、名前は俺を振り返ってまだいたのかという表情で見つめてきた。アジトの家長たる尊厳などあったものではない。名前は俺に歩み寄ると腕を取り、戸口へ向かおうとしている。聞かずとも、確実に俺を追い出すつもりだということは理解できた。捕らわれている反対の手で名前の腕を掴み、引き止める。
「ちょ、ちょっと待て名前!お前、俺が何したよ…!」
また無言の空間をまとった名前が、じっと俺を見つめて、そしてあろうことか、こう言ったのだ。
「すけべ」
…は?聞き返す暇もなかった。それしか頭には浮かばない。すけべ。すけべってのは、こういう時に使うものだったか?当の名前は、ここぞとばかりに言葉をすっぽりと失っている俺の背をぐいぐいと押す。そうやって戸口まで急き立てると、叩くように外に無理やり押し出した。
呆然と戸口の前で立ち尽くす。後ろから「兄ちゃん何やってんの?」と子供の声がかけられたが、頭は名前の問題の一言で埋め尽くされていた。
――すけべ
名前の声が反芻される。眉を吊り上げて、引き結んだ口。着替え。汗拭き。なんとなく、赤い顔。
俺は俯くと共に戸口にがっつり頭をぶつけた。音に驚いたのかもしれない。中からガタンと、何かにぶつかる音が聞こえる。だが構わず、俺の口からは叫び声が飛んだ。
「…あ、アホか!マセガキ!」


最近どうだ、と聞かれた声に顔を上げる。先日の名前の様子を思い返していた時だったので、思わず苦笑が漏れた。弥吉は木材に座りながら、俺が手渡したコーヒーの入ったカップを持って眉をあげた。子供達はもう弥吉にさんざ絡んですっきりすると、アジトを駆け回って遊んでいる。それを遠くに聞きながら、俺はいつも通りプレハブに寄りかかったまま、がくりと俯く。
「なんだ?調子はいいって聞いていた気がしたが」
弥吉が聞くのも無理はない。子供達の中にも入れているし、少しずつ生活に慣れてきたようだと、心配はないと胸を叩いたのが一二週間前の出来事だったので、その差に驚いているのだろう。
どうしたものかと思った。話してもどうにもなるものではないし、寧ろ感情を出すようになったことは喜ばしいことなんだろう。だがああいった手合いのものは、如何せんどう接していいかが皆目わからない。
「それがなぁ…」
悩んだ末、俺は唸るように搾り出した。

あれからというもの、名前は事あるごとに俺を放り出すようになった。風呂なんぞ毎日入れるようなものではないから、温めたタオルで体を拭いて風呂代わりにしていたのだが、タオルを持って俺が近づくと名前はさっと受け取って逃げたり、着替え途中に入れば物を投げつけられるために、間違っても朝と就寝前は不用意には近づけない。性別を意識するような奴には見えなかったが、俺も大分思い違いをしていたようだった。
「そうかそうか!」
顛末を話すと、弥吉は耐え切れないといった風に、大声を上げてげらげらと笑った。薄気味悪い顔に似合わず普段からよく笑う男だったが、弥吉がここまで破顔するのは初めてだった。ちゃんと話聞いてたか。笑い事じゃねーんだぞ。釈然としない気持ちなる。
そんな俺の様子に気づいた弥吉は謝るかと思いきや、腹を抱えたまま「まるで親父だ」と零した。
「娘ってのは父親を意識する日が来るもんだ」
「父親ァ?」
名前とはおよそ六つしか違わない。父親もへったくれもないだろう。すると弥吉は気持ちよさそうに笑って、
「いいじゃねぇか、そのまま女として貰ってくれ」
とコーヒーを飲み干した。散々名前がどうのと心配している素振りを見せていた奴が、俺のような盗っ人稼業に簡単に言ってくれるものだった。冗談だとしても、たまったものではない。
「勘弁してくれよ…名前も呼ばれたことねーんだぜ?」
「そうかい」
悪ぃな、と言う声には、悪気しか感じられなかった。それに重ねて、思い出したように弥吉が声を上げる。
「そろそろだと思うんだが、あれはまだ来てねぇんだろ?」
「…あれ?」
「女のアレよ」
首を傾げたり唸ったりと頭の中を引っ掻き回して、漸く弥吉の言うアレというものに思い至る。
そんなに早いものなのか?ガキ共じゃあ年長組は男一色だし、マーサハウスにいた頃もマーサが気を遣って隠していたようだったので、そういうことには滅法弱い。いずれ考えなければならないとは思ったことはあったが、そういう理由で疎いものだから、今の今まですっかり忘れていた。
少し焦った顔色をした俺を、弥吉が愉快そうに眺めている。どうやら俺のようなガキをからかうのが面白くてたまらないらしい。それに気づいて、勘弁してくれよ。俺はもう一度零した。
「俺はそういうのは全く分からねーんだ」
「ガキにゃわからねぇさ」
弥吉の子供扱いには偶にむっとするが、大して年の変わらないガキ共にも俺は確かにそうしているのだと思うと無性にこの年齢というやつが鬱陶しくなった。だがそんなことを思っている俺は十分にガキだ。
「返す言葉もねーよ」
弥吉はまた軽く笑った。空になったアルミのカップを木材の上に置く。名前も一応、年長だ。遠くで子供達にトランプをせがまれる姿を眺めて、弥吉が目元を緩めた。
まるで父親だという、弥吉の言う通りなのだろうか。ひっそりと遠くから眺めて目を緩める。そうする気持ちが俺にはわかる。弥吉が俺に任せるというのなら、任せられてもいいだろう。不意にそんなことを思って、慌てて首を振った。

名前の俺を意識した視線は日に日に増していった。最初は戸惑ったものの、それを人見知りが溶け出している表れなのだと思っていたのだが、弥吉にいいように弄ばれてからというもの、その視線を深読みしてしまって調子が出ない。
名前は本当に俺を兄や父のように思っているだけなのだろうか。その裏に、何か隠れているんじゃないだろうか。父や兄とは違う、別の異性を意識しているのではないだろうか。それならどうしたらいい。どう接するのが正しいのだ?
そんなことを思っては一人頭を抱えて、俺の方が余程ずぶずぶと深みにはまっていっている。弥吉はこれを予想してからかっていたんだろうか。だとしたら、とんだ策士だ。
だが、もし名前が俺を好きだったとしても、俺に名前をどうしようという気はなかった。ただ、子供達のように接するのとは同じように育てていくだけだった。でもそうはいかない。今のように、名前がそうさせてはくれないだろう。名前は出会った頃からそうだった。素直な子供ではいてくれない。だから悩んじまうのだ。
参ったなぁ…。零してもその先は浮かんでこない。どう接していいのかもわからない。
未完成のブラックバードを収めたテントで、悶々としながらパーツを弄る。いつもなら俺がテントに入っている時はあまり絡んでこないのだが、今日に限っては子供達もテンションが高いらしく、時折様子を見に来たり、俺の真似をして頭をグシャグシャとかき回して逃げて行ったりと、ひっきりなしに人が出入りしていた。落ち着いて考えている暇などない。思考は途切れ途切れで、さっきまで自分が何を考えていたのかすら忘れてしまうほどだ。
「だぁあーっお前ら!兄ちゃんは今会議中だ!」
テントの外で何故かスタンバイしていた子供達に叫ぶ。きょとんとした表情が返って来た。
「だれと?」
「俺だ!」
言ってばっと幕を下ろす。暫く入り口でざわめいていた影は次第に遠くへ消えて、中途半端に羽のついたブラックバードと、ドラム缶に腰掛けた俺だけが残った。しかし、実際静かになってみれば、何を考えていたかなどすっかり頭から抜け落ちている。
「あー、駄目だこりゃ…」
頭をボリボリと掻いて、ブラックバードに手を添えた。完成させちまおう。ピアスンから譲り受けたパソコンを起動させて、オート機能のプログラムを組むことにした。

どれくらい経ったのかは分からない。集中が途切れた時、不意に視線を感じた。なんとなく、名前だろうかと思った。別に子供達でも構わないのに、名前が真っ先に浮かんだ。首だけで振り返る。
「…おう」
やはり、視界に入ったのは名前だった。テントを遠慮がちにめくって、外からこちらを伺っている。
気づけばもうテント内は真っ暗で、外も薄ぼんやりとした明るさだ。日も沈みかけなのだろう。
「どうした?」
体ごと入り口に向けてから軽く手招きをして中に入るように促すと、名前はおずおずと体を滑り込ませた。ん?と違和感に首を傾げた。その様子は名前らしくなかった。人見知りだが、弱みを微塵も出さないよう、いつも身構えているような奴だったはずだった。子供達より礼儀は知っているようだが、少なくともおそるおそる部屋に入ってくるような奴ではない。
「…これ」
だがすぐに分かった。暗がりにそっと掠める匂い。甘い蕩けるような匂い。ホットミルクだ。
名前は熱そうにしながらも両手で抱えて、遠慮がちに俺に差し出す。受け取った陶器のカップが冷えた手にじんわりと熱を染みこませていく。
「お前が作ったのか?」
名前はぎこちなく頷いた。そして暗がりで、じっと俺が飲むのを期待して待っている。俺の背後から漏れるパソコンの光が、手元を浮かび上がらせる。
「ありがとよ」
言って、俺はカップに口をつけた。本当に作ったばかりのようで、口に含んだミルクは火傷しそうなほど熱い。冷ましながらごくりと飲み込む。喉を通る焼けるような熱が、体を一瞬で温めた。
名前はまだ俺をじっと見つめている。どうもこの視線が苦手だ。睨むことはなくなっても、視線の中に含んだ言葉が、どうしてか俺には分かってしまうのだ。自分の昔と重ねているからだろうか。それは分からない。
「美味ぇよ、ほら」
半分ほど飲んだそれを、黙って立っている名前の手に包み込ませる。触れた名前の手は、カップを持っていたというのに冷たい。飲むように促すと、名前はやはりおずおずとカップに口をつけて、それからは豪快にごくりと飲んだ。口の上にほんのりと白い線が出来ている。それを嵌めていたグローブで拭ってやりながら、
「な?」
と笑う。名前はこくりと静かに頷いた。そこまでは知っていた。でも、そこからだ。その後は全くもって予想していなかった。頷いた名前は、覚悟するでもなく本当に前触れもなく、釣られたように笑ったのだ。
俺は名前を笑わせてやろうと思っていた。一人の人間にするためにと、そう決めていた。それだというのにおかしなことだ。俺が何をするわけでもなく、こうして目の前で自分から笑ったことに驚いているというのだから。
名前は自分が笑っていることに気づいているのだろうか。そんな馬鹿げたことまで思った。そんなの当たり前だ。自分のことなのだから、わかっているに決まっているだろう。だが俺は名前の笑顔を受け止めるのに時間がかかった。
名前はやはり、俺をじっと見つめている。不思議そうではあるが、笑った後の柔和な名残が表情に残っていた。それを遮るように、名前の頭に手を乗せる。来たばかりの頃は大人しくしていた癖に、最近じゃ頭を撫でられるのが気に食わないようで、避けようと必死に体をひねっている。
「や、やめてよクロ…」
ウ。語気を強めていた名前の声が次第にしぼんでいく。遂に、俺の動きは絡めとられるようにぴたっと止まった。耳を澄ませる。今、こいつは何て言った?もう一度なんて言えやしない。だが捉えていた。その過去の音を思い出すように耳を澄ませる。聞き間違いじゃなけりゃこいつは今、俺の名前を呼ばなかったか?
急に見せた笑顔と切り離されたひとつの名前に思考が追いつかない。仰天して、まんじりと名前を見つめてしまった。こいつが?俺の名を?払うように頭から退けられていた俺の腕は、空中で宙ぶらりん状態だ。名前を呼ぶなんて、そりゃ当たり前の行為だ。だけど会話も単語のような、なかなか打ち解けないこいつの口から名前が出ることは驚きだった。五ヶ月近くも一緒に過ごしていて、誰の名前を呼んだところも聞いたことがない。きっと今までのこいつにとって、呼ぶ必要がないものだったのだ。
名前も段々と気づいてきたのか、俺の微妙な視線にはっとして目を丸めた。きゅっと口を引き結ぶ。その顔が、みるみる内に真っ赤に染まっていく。

参った。参っちまった。つきそうになるため息を飲み込んで、赤ら顔から手を退ける。どうも調子が狂う。だから初めから名前は苦手だったのだ。もう、この赤らみがなんなのかわからない。どうしていいのかわからない。ただでさえ他の子供より面倒で気苦労が絶えないというのに、これ以上俺に考えさせないでくれ。
だがそう思っても、放っておこうという気にはならなかった。昔の俺を見ているようで、表情の一つ一つが現れるたび、打ち解けていると分かるたび、こそばゆくて、嬉しくて仕方がないのだ。それは、弥吉の言うような男女のものではない。
「まだ残ってるだろ。ここで飲んでっちまえ」
パソコンデスクの前の椅子に腰を下ろして言うと、また首が縦にゆっくり動く。隣の木箱に座った名前が、パソコンの青い光で室内にぼうっと浮かび上がった。俺の目に映る顔は真っ赤だが、やはりいつもより柔らかで、小さな手は寒さを凌ぐようにカップを包み込んでいる。
名前のお陰で、体はもうあったまっていた。口に残る甘いミルクの味と香りが、俺にこれまでの名前の様子を思い起こさせる。
クロウ。先ほどの消え入りそうな声が、耳を澄ませばまた暗闇の中を巡る。名前は俺を頼っているのではなく、俺自身を見ているのではないか。なんとなく、呼ばれた声色に、そう感じた。



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12/01/15 長編
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