欲張り



今回の戦いは重傷者が多く出てしまった。
幸い船の損傷は少なく、何人か動けたクルーがいたため海中へと身を隠す事が出来たが、一味が受けたダメージは計り知れなかった。

船長のローも大きな傷を負ったが、この船の船医でもある彼は休む事なくクルーの治療を続けていた。


「うっ……」


そんな中、エマは目覚めた。
ぼけっとした思考の中、そこが自分の部屋だと気が付いた。
半ば無意識で触った自身の身体には、海軍から受けた傷はすっかり完治していた。


「私って、本当に不死身なのかも……」


自分でも若干引いてしまうほどの回復力に、最近は開き直りつつあった。
一安心したところで、身体を起こして部屋を出る。

船内は思っていたよりも静かで、時折誰かの声と足音が聴こえるくらいだった。
通りかかった船長室は扉が中途半端に開いており、ぼんやりとした明かりが漏れていた。
中を覗けば案の定、作業をするローの姿を確認した。

自分も相当の怪我を負っているだろうに、とエマは室内に足を踏み入れた。


「何か手伝う…?」

「エマ…起きたのか」

「ええ、さっきね」


ローが他人にここまで接近されて、声を掛けられるまで気づかないとは珍しい。
余程疲れているのか、とエマは心配に思った。


「船長、疲れてない?少し休んだ方が……」

「問題ねェ。それより、もういいのか」

「ええ、平気」

「そうか」


ほっとした表情を見せたローに、心配してくれていたのだとエマは思わず口元を緩めてしまう。
それに気づかれないように、話を続けた。


「みんなは無事?手当は?もう全員終わった?」

「粗方な。全員無事で、お前が一番の重傷者だった」

「あ、はは……あー、みんなが無事でよかった」

「笑って誤魔化すんじゃねェよ、ったく……」


ローは立ち上がり、エマの肩に手を置くと身体ごと引き寄せる。
そのまま流れるように前髪を掻き上げ、ぐっと顔を近づけた。

突然の事に驚いて、エマは半歩後ろに下がってぎゅっと目を閉じた。
そしてすぐにコツンと優しく、固いものが額に当たる。
反射で目を開けてしまえば、死ぬほど後悔するハメになった。

ほぼゼロ距離の状態で、瞳と瞳がぶつかった。
エマは徐々に顔が熱くなっていくのを感じ、それを隠す様に再び目を閉じた。

少しして、額への感触がなくなり恐る恐る目を開けると、目の前の彼はいつも通り意地の悪い笑みを浮かべていた。


「熱はなかったが……今上がってきたか?」

「……上がってないわよ」

「顔が赤いぞ」

「ばか、わざとでしょう」

「親切に診察してやっただけだ」


いつも通り、そう、いつも通りのやり取りだ。
しかし、大きな戦闘だったためか、やはりローの顔にも疲れが見て取れた。

再び作業を開始しようとしたローの手を掴み、エマは口を開いた。


「ねェ、自分の治療はまだしてないんでしょう?やってあげるから、見せて」

「治療するほどのモンじゃねェよ」

「嘘つき」

「うッ……テメェ…!」

「ほら、痛いんじゃない。強がらなくていいわよ」


彼女はローの背中を軽く叩いただけだ。
それでも、いつもなら表情には出さない彼が小さく呻き声を上げた。
エマは棚から救急箱を取ると、怪我を見せるよう促した。
ローは大きなため息をついた後、しぶしぶそれに従う。

上着を脱ぎ捨てどっかりと椅子に座り、ローは無言でエマに背中の傷を見せた。
予想通り痛々しいその背中に、エマの眉間には皺が寄った。


「ゆっくりやるけど、我慢できなかったら言って」

「構わねェ、さっさとやれ」


斜めに入った一本の太刀傷と、複数の打撲と擦り傷。
ボロボロだと思ったのが、正直な感想だ。

消毒液につけたガーゼで傷口を優しくなぞっていく。
クルーの誰かであれば泣き喚くのが優に想像出来るが、ローは少しも動かずに治療を受けていた。
医療船という事もあり、エマもある程度手当には慣れていたため、手際よく作業を進めていく事ができた。


「次、包帯巻くわね」

「あァ」


いくら消毒したとはいえ、そこから菌が入ってしまえば元も子もない。
エマは少し大げさだと笑われるかもしれないが、しっかりと傷を真っ白な包帯で隠した。
それと共に、彼のタトゥーも見えなくなってしまう。


「どうした」


ピタリと手が止まったエマに、ローが不思議そうに問いかけた。

背中にある彼の誇りに傷がついてしまった。
エマの中に、ふつふつとした怒りが湧き上がる。


「なんでも、ない」


それでも、彼が命を落とす事にならず本当によかったと、泣きそうになるほどに安堵した。
エマの中でモヤモヤとした感情が、渦巻く。

包帯を止めた後、エマは傷の負担にならないように軽くローの背に頭を預けた。
「重い」と嫌味を一言言われたのですぐに頭は上げたのだが、その際に、気づかれない様にキスを一つ、落とした。

おまじない、だなんて、子供っぽいと心の中で自傷する。


「はい、終わったわよ」

「……悪かったな」

「私がやるって言ったんだから、謝らないでよ」


救急箱を棚に仕舞いながらそう言えば、違う、と後ろから否定の言葉が聞こえた。


「手当の事じゃねェ」


思い当たらない、と首を傾げるエマに手招きをすれば、素直に近寄ってくる。
するとローはその身体にそっと手を当てた。

その場所は、海軍中将の男の拳によって貫かれた箇所だった。


「おれが弱かったせいで、お前に命をかけさせた」


悪かった、とローは再び謝罪の言葉を口にした。
エマは驚きを隠せず、ぽかんと口が開き、すぐに返事をする事が出来なかった。


「わ、私が勝手にやった事よ。だから……謝らないで」


結局同じ答えじゃない、とエマは眉を下げて笑った。


「部下が船長を守る、当然でしょ?」

「違うな。本来ならば、おれがお前たちを守ってやるべきだ」

「いつも船長は私たちを助けてくれてるわ」

「逆だ。おれがいつもお前たちに助けてもらってるんだ」

「ねぇ、それ……今度皆にも言ってあげてよ」

「……断る」


照れ隠しのつもりだろうか、ローは帽子を目深にかぶった。

思わず零れてしまった言葉は、エマの中にきちんと記録されてしまった。
今度こっそり皆に伝えよう、と笑みを受かべれば、それを見逃さなかったローに手刀を落される。


「いたい!」

「くだらねェ事考えるんじゃねェ」

「くだらなくないわよ。絶対喜ぶわ」

「やめろ」


二度目の手刀は上手く躱し、エマはふふん、と得意気に笑った。


「船長のあなたが命を落とすわけにはいかないでしょ?」

「だからって、お前が変わりに命を落とす必要はねェ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、私とあなたじゃ、やっぱり価値は変わってくるのよ。私が死んだら、皆が悲しんでくれると思う。でもそれだけ。戦力で考えればいくらでも替えは利くわ」


エマがそう言うと、ローは鋭い視線を放った。


「待って待って、最後までちゃんと聞いてよ。あなたが死んだら、ハートの海賊団は?誰かが代わりに船長をやるの?ううん、きっと誰もあなたの代わりなんてやらないし、あなたじゃない他の船長にはついて行かないわ」

「だから、なんだ」

「替えが利かないのよ、船長っていうのは」

「お前の代わりだっていないだろうが。大体、お前には目的があるだろう、死ぬわけにはいかねェんじゃないのか」


ローの握った拳は、これでもかというくらい強く握られていた。
まだ抑えてはいるようだが、次何かを言えば、さすがに堪忍袋の緒が切れそうだ。

そんなローに臆する事なく「なら、」と口を開いた。


「私たちが守る必要もないくらい、強くなって。私たちも、ローに守られなくてもいいくらい、強くなるから…!」


ローの目が大きく見開いた。

瞬間、怒りはシャボン玉が弾ける様にパッ、と消えたように思えた。


「…………ハァ、」


大きくため息を吐いた後、ローは頭を垂れて片手で頭を抱える。


「な、なに…私、そんなに変な事言ってないわよ…?」

「お前は、本当に……いや、なんでもねェ……」

「なによ、言いたい事があるなら言ってよ!分かってるわよ、甘いって、甘い考えだって!なんの捻りもないって!」

「何も言ってねェだろうが。ただ、まァ……」


「お前の言う通りだ」とローは言った。


「……今回の事で、皆も身に染みたと思う。もっと強くならなきゃ、新世界なんて夢のまた夢よ」


強くならなければ、この先ローの負担は益々大きくなってしまう。
足を引っ張るだけのクルーなど、話にならない。


「……なんかお前、変わったな」

「え…?」


ローの言葉に、エマはきょとんと目を丸くした。

出会った頃のエマであれば、皆で強くなろうなどと言ったりはしなかっただろう。
ずっと長い間、なんでも一人でやってきたのだから。


「……この船に乗って皆に変えられた、ううん、変えてもらったの。もう一人じゃないから、皆と一緒なら、私はもっともっと強くなれる」


そう言って、笑うのだ。

ローは完全に毒気を抜かれてしまい、とうの昔に怒る気力なんて失ってしまった。


「……わかったよ」

「船長…!」

「ただな、」

「? なに?」


自分よりも小さく細いその腕を、ローが引いた。


「あの技は、もう使うな。心臓に悪い」

「船長……」

「死ぬつもりなのかと、思った」

「っ、まさか…!そんな事しない!」


慌てて否定するエマの事を、ローの目はじっと捉えていた。


「もう、しないから。絶対よ」

「あァ」

「心配してくれて、ありがとう。でも、私だってすごく心配したんだから、お互い様」

「ふ、そうだな」


揺れるエマの横髪にローの指先が触れた。
人差し指でそれを器用に耳にかけると、そのまま後頭部に手の平が回った。


「待って」


引き寄せられそうになった所をローの顔と自分の顔の間に手を挟め、待ったをかける。

目の前のローの眉間には皺が寄り、気分を害してしまったようで舌打ちをされた。


「……なんだ」

「ダメ、しない」

「あァ?」

「特別扱いはしないって言ったじゃない…!」

「手を出さないとは言ってねェ」

「なによその屁理屈は!」

「うるせェな、耳元で騒ぐな」

「こ、この…!」


先ほど治療したばかりの背中をもう一度叩いてやろうと思ったが、あの傷を思い出すとそんな気も失せてしまったので、気合で気持ちを落ち着かせた。


「……私だって、言ってくれたらする、のに…その、ちゃんと、私の事……」

「知るか」

「ちょっ、ん、っ……っ、!」


エマの抵抗などお構いなしに、ローは唇を重ねた。

好いている相手に求められる事が、嫌な訳がない。
だから、本来ならば抵抗する必要もないのだ。

一言だけ、好きと言ってくれるのなら、拒んだりしない。
エマが拒んだのには、もっと別の理由があった。


「おいエマ、」

「だ、だって、んっ、もう……はっ……本当にずるい……」

「あ?」


ローが唇を離すと、エマの顔はまるで茹蛸のように赤く染まっていた。
口をパクパクとさせてから、一つ一つ、言葉を絞り出した。


「や、やめたくなくなるから、その、嫌、なの……それに、ちゃんとそういう関係になったわけでもないのにするのが、えっと、なんとなく、寂しいというか、悲しいというか……とにかく、ダメ」


そう言ってエマは空いている方の手で顔を隠した。

「最悪」と隙間から覗く唇は、僅かに震えていた。


「エマ」

「…………なに」

「お前、案外むっつりだな」

「なっ、違うわよ!というか、ローにだけは言われなくない!」

「あァ?誰がむっつりだ」

「あなたよ!」

「顔見せろ」

「嫌よ!!………ちょ、やめて掴まないで離して…!、っ、ぁ、こら…!」


力で勝てるはずもなく、顔を隠していた手はあっけなく剥がされてしまった。


「エマ」

「……っ、い、いやって、いったのに…っ、」

「おれになら、何をされても構わないんだろ」

「ば、バカ…!そういう意味じゃ…っん、ぅ……っ、」


両手は拘束されたまま、顔だけをぐっと近づけられてキスをされる。
そしてローはエマの両手を自分の肩に乗せ、背中に手を回す様に促した。
ロー自身も、腰に手を回してエマの身体を引き寄せた。

じわりと視界が滲み、涙が零れた。
エマは観念したように、ローの身体に腕を回した。


「首がいてェ」


そう言ってローはエマの身体を持ち上げ、自身の膝の上に乗せた。
先ほどよりも身体が密着した状態で、ローは耳まで赤くしたエマを見ては満足そうに笑みを浮かべるのだ。


「エマ」


その耳元で名前を呼べば、エマは小さく悲鳴を上げた。


「たまらねェな……」


そう呟いた言葉は、自らのキスによってかき消されてエマの耳には届かない。


「エマ、口開けろ」

「んっ、」


薄く開いた唇を割って、小さな舌に吸い付いた。
身に着けている服はつなぎではなかったため、シャツの中へとローの手が簡単に侵入してきて背中を撫でる。
ゾワリとした感覚に、小刻みに甘ったるい声が漏れた。

快楽に涙が止まらなくなってしまったエマの頭を、そっと大きな手の平が撫でる。


「ぁ……っ、」


ここまでされてしまえば、疑い深い性格のエマでもさすがに気が付いた。

目を開くと、ローの瞳が少しだけ細められていた。
慈愛に満ちたその瞳に写るのは、自分しかいない。

喉のすぐそこまでやってきていた言葉は、飲み込む事なく、すんなりと口から出ていた。


「……好きよ」

「エマ、」

「ローの事が、好き」


そうしてローの肩口に擦り寄った。

ローからは大きなため息が聴こえてきたが、優しい手つきで頭を撫でられたので満更でもなかったようだとエマは嬉しそうに笑った。

ローはきっと、今後もはっきりと口にする事はないのだろう。
それなら、自分が変わりに言葉にしてあげればいい。

彼は彼なりの愛情表現をしてくれているのだから。


「こっち向け」

「ん」


再度、口を塞がれる。

幾度となくそれを繰り返すうちに、身体がじんじんと熱くなりキスだけでは物足りなくなってしまった。
それが分かっているかのように、ローは唇を離しエマにこう問うのだ。


「満足したか?」

「まだ、全然足りない」

「欲張りな奴だな」

「ロー、もっとして。ね、お願い」

「ッ、煽んな、バカ」


突然感じた浮遊感に、エマからは思わず悲鳴が上がった。

抱きかかえられたまま、ローが向かう先にはクルー達のものよりも広いベッドがあった。
その上に降ろされたかと思うと、すぐさまローが覆いかぶさってくる。


「止めるなら今だぞ」

「うん」

「嫌だっつっても、止めてやらねェ」

「わかってる。抱いて欲しいの」


ローが欲しい――


ごくりとローの喉が鳴り、瞳は熱を帯びる。
頬に手を滑らせ、顎を持ち上げられて口を塞がれた。

エマは自分を見つめる目の前の男に、手を伸ばした。


「キャプテン!!」


「ッ!?」

「きゃあっ!」


突然聞こえた第三者の声に、エマは驚いて伸ばした手を引っ込め、ローは咄嗟にエマを声の持ち主から隠す様に抱きしめた。

心臓は飛び出てしまうのではないかというくらい、激しく脈を打っている。
どうしよう、クルーに見られた、自分は誰と何をしようとしていた。
ぐるぐると色んな感情が渦巻いて、エマは何も考えられなくなってしまった。

すると、今までで一番長かったのではないかというローのため息が上から聞こえてきて、我に返る事ができた。


「ノックくらいしろ、ベポ」

「べ、ベポ…?」


緩んだ腕からひょっこりと顔を覗かせると、そこには頭に包帯を巻いた白熊がいた。


「あ、エマ!起きたんだね、よかった!怪我は?」

「あ、う、うん、大丈夫よ。いつも通り、治ったわ……」

「そっか〜!心配したんだよおれ!」

「ごめんね、ありがとう」

「……要件はなんだ、ベポ」


あ、機嫌が悪い。
そう口に出してしまいそうなほど、ローの声は低く、ドスが効いている。


「あっ、そうだ!シャチがね、キャプテンに治療してもらった所を机の角にぶつけて更に悪化させちゃったんだ!だから急いでキャプテンを呼んできてって……ヒィッ!?」


話の途中でベポが悲鳴を上げた。
その原因は言わずもがな目の前にいるローであり、その表情を見れば、これはシャチの命が危ないかもしれないとエマは冷や汗を垂らした。


「せ、船長!気持ちは分かるけど、抑えて…!ベポが怯えてるから」

「黙れ」


エマの説得も虚しく、ローはゆらりとベッドから長い脚を下ろして立ち上がった。
そして手に取ったのは医療道具ではなく、愛刀の鬼哭。
サッ、と血の気が引いて「私も行く!」と声を上げたがすぐに却下された。


「お前はここに居ろ」

「でも、シャチが…!」

「シャチの名前を出すんじゃねェ」

「はい……」

「お前のその顔、他の奴らに見せたくねェ」

「え」

「おれが戻るまで、大人しくしてろ。すぐ戻る」


続きはそれからだ。

そう言い残して、二人は部屋から出て行ってしまった。


「び、びっくりした……」


強張っていた身体の糸がふっと切れて倒れ込んだ。
その顔とは、自分は今一体どんな顔をしているのか。

部屋にいるのは自分一人だというのに、火照った顔を両手で覆い隠した。


「幸せ過ぎて、死ぬかもしれない」


脱ぎ捨てられたローの服を手に取り、ぎゅっと抱きしめた。
一緒にいたのは今さっきの事なのに、すぐに戻ってくると言っていたのに、その少しの時間も待ちきれなくてもどかしい。


「ロー……」


愛しい人の名前を呟いて、エマはそっと目を閉じた。