わざと
時計の定期的な音。
紙の上を、細い鉛が走る音。
グラウンドの運動部の声。
大きな窓には、暮れかけてオレンジに染まる空。
窓際の自分の席で、ただひたすら紙にシャーペンを走らせる。
時折手を止めて、手首をくるくると回してみたり、軽く振ってみたり。
そろそろ、問題と解答を写すのにも飽きてきた。
独り言のように呟く。
「腱鞘炎になっちゃうよ」
すると、暇そうに私の手元を見ていたスパナ先生は、口を開く。
「赤点取る方が悪い」
補習、と、理科担当のスパナ先生は言い張る。
けれど、どう考えても、この赤点課題は家で一人でやるものだ。
それなのに、スパナ先生は、赤点を取る度に補習と称して、スパナ先生いわくマンツーマン指導を行う。
だけど、私は文句を言わない。
むしろ、喜んで受けているのだ。
「すずめは、他の教科のテスト、文句ないくらい点数取れてる。でも、理科だけ出来ないのは、なんで?」
同じ理科担当の教師に、入江先生がいる。
彼いわく、「理科はスパナに任せておけば大丈夫」。
というのも、スパナ先生は理科という科目に関しては熟知しているし、教え方も上手い。
一方私は、理科以外成績優秀で通っている。
むしろ赤点続出の我が担任スクアーロ先生の英語では驚異の89点を取り、さすがに先生を「ゔお、ぉ、い……」と唸らせた。
だけど、理科だけは赤点なのだ。
「ウチの教え子はみんな赤点取らない」
「……知ってる」
「?」
右手の動きを止めると、スパナ先生は椅子の背もたれに腕を乗せたまま首を傾げた。
「じゃあ、なんで」
「…わざと」
「……」
そう言い放って、顔を紙に向けたまま目だけでスパナ先生を見た。
何か考え事をしてるみたいだった。
他の先生にバレないように、人のいる所では絶対に舐めない棒つきのアメ。
口の中で、ガリッという音が聞こえた。
「…なんで、ウチがわざわざ放課後残ってマンツーマン補習してるかわかるか」
突然の質問に、頭がついていかなくなる。
なんでか訳がわからないけど、心臓が速く脈打っていた。
…多分、期待してる。
「そ、れは、…赤点が私だけだから……」
「ちがう。答えは……」
大きな手が伸びてきて、頬に添えられた。
「え、あ」
金魚みたいに口をパクパクさせていると、スパナ先生の顔が近付いてきて、耳元に唇を寄せた。
「すずめが好き」
驚いて、持っていたシャーペンが音をたてて机の上に落ちた。
時間が止まったような錯覚とうるさい心音に支配され、止まりかける思考のまま想いをぶつけた。
「……わ、私も好き…!先生と、補習したくて、毎回…」
「やっぱな」
ふふ、と首筋に息が吹きかかった。
机をひとつ挟んで顔を寄せて、遠いような近いような距離に少し戸惑った。
先生の顔が真正面にきて、じっと見つめられる。
オレンジに染まる世界で、窓から入る光が、まっすぐな瞳がやけに潤んで見えた。
少しだけ顔が紅い気がするのは、夕陽のせいなのかな。
恥ずかしくて目線を落とすと、紙の横についたもう片方の大きな手も頬に添えられ、両頬を包まれた。
ゆっくり目線を上げられ、目を合わせられる。
「…していい?」
囁くような声で小さくせがまれる。
そんな些細なことで、先生と生徒という関係が重くのし掛かるような気がした。
小さく頷くと、スパナ先生はふっと笑って、ゆっくり顔を近付けた。
――ちゅ
小さなリップ音がして、唇が離れると、コツンと額をぶつけられた。
「すずめ、緊張しすぎ」
「……え、あ」
クスクスと笑うと、張り詰めていた緊張が解れて、私もようやく笑えた。
「す、スパナ先生、あの…」
「ウチのことスパナでいい」
「え、でも」
「いいから。呼んで?」
猫のように首を傾げるものだから、可愛くてこんな先生を誰にも見せたくない気持ちになった。
「す、スパナ」
「ん。なに?」
「もし、他の先生に知られたら…」
「ああ。ヤバイかもな」
やっぱり、のびのびと付き合うことはきっと厳しい。
気軽に並んで外出するのも、きっと難しいだろう。
軽く俯く私に、スパナは大きな手を頭にぽんと乗せた。
「心配するな。大丈夫」
その力強い言葉と微笑みに、本当に大丈夫な気がしてきた。
だから、私も力強く頷けたんだ。
「うん」
その後、すずめは理科のテストで満点をとるようになった。
fin.
公開:2018/07/30
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