ひそやかに

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 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぎ、一織はそれをごくごくと一気に飲み干した。
「……っ、はぁ……」
 深呼吸して、空になったグラスをじっと見つめる。
 一織は今、どうしようもなく苛々していた。
 それはついさっき、リビングで起きた陸との喧嘩のせいだ。
 明日は久しぶりの単独ライブだった。にもかかわらず、夜中までライブ映像を見て起きている陸を見つけた一織は、つい厳しいことを言ってしまったのだ。それが始まりだった。
 言い方が悪かったのだろう、すぐさま陸が言い返してきて、そこからはもうくだらない言い争いの連続だ。最終的に言い返せなくなった陸は、激昂したまま自分の部屋に戻って行った。
 ライブを控えて緊張で寝付けなかったという陸の言い分はわかる。一織だって、多少なりともそわそわした気分で起きてきたのだ。
 しかしだからといって、何も自分たちのライブ前日にTRIGGERのライブ映像を見ることはないんじゃないか。
 陸に対し、つい口調が厳しくなってしまったのはそのせいだった。夜更かしをしては明日に障るというのは大前提としてあったが、本当のところはいつものように双子の兄を追いかけている彼が、単に面白くなかったのだ。
(七瀬さんが九条さんばかり見ているのは、今に始まったことでもないのに)
 狭量な自分が情けなくて、一織ははぁ、とため息を吐いた。
 陸とは数ヶ月前、特別な関係になった。そうなったことで自分たちにどんな変化が訪れたかといえば、それは色々とあるのだけれど、かえって余裕がなくなった気がする。
 こんなつまらないことで喧嘩をするなんて、出会った頃に戻ったみたいだ。
 一織はリビングを綺麗に片付けてから二階への階段を上がった。そのまま自室に戻ろうとして、陸の部屋の前で足を止める。
『一織なんか、泣いて頼んでももう口きいてやらないからな!』
 最後にそう言い捨てた陸の顔を思い出す。そういう彼の方が、よほど泣きそうな顔をしていた。
 陸の言葉を真に受けるわけではないが、明日は大切なライブなのに、このままでは良くないのではないか。
「…………」
 自分たちの喧嘩は日常茶飯事。彼のことだから、明日になればけろっとして「おはよう」と言ってくるかもしれない。それにもう、眠ってしまったかも。
 そう思いながらも、一織は短く息を吐き、陸の部屋のドアを小さくノックした。
「……七瀬さん。起きていますか」
 返事はない。やはりもう寝てしまったのか。それともまだ怒っていて返事もしてくれないのか。
 一織は少し迷ったが、後者の可能性を捨てきれず「入ります」とドアを開け中に入った。
 陸の部屋は真っ暗だった。ベッドはまるく膨らんでいて、小さな寝息が聞こえてくる。
 ほっとしながらも、その一方で残念な気持ちになる。
 一織はゆるゆると息を吐き、彼の枕元に近付いた。加湿器は動いていないし、掛け布団が少し捲れあがっているのが見えたからだ。
 陸は眠っていた。ほんの三十分前、真っ赤な顔でぷんぷん怒っていた片鱗はどこにもない。
 無邪気とも言えるその寝顔に小さく笑んで、一織は彼に布団を掛け直した。そうして枕元の加湿器のスイッチを入れ、再び陸の寝顔を見つめる。
 いつも思うが、寝ている顔は子どもみたいだ。
「……さっきは、すみませんでした」
 眠っている彼に届くはずはないけれど、言わずにいられなかった。
「あなたを怒らせたかったわけではないんです。あんな言い方をしてごめんなさい」
 呟くように謝罪の言葉を口にすると、横向きになっていた陸がごろんと仰向けになった。
「あ……!」
 起こしてしまったかと焦ったが、そうではなかったようだ。一織はほっと胸をなでおろしながら、もう一度毛布を掛け直してやった。
「……いおり……」
 突然、陸が名前を呼んだ。はっとして手を止める。しかしそれも、ただの寝言だったらしい。
 夢を見ているのだろうか。
 あんな喧嘩をしたばかりなのに、自分の夢を見ているのか?
 そう思うと愛おしさが膨れ上がってくる。一織は思わず、そっと上体を倒した。
(七瀬さん……)
 間近に陸の寝顔を見つめる。穏やかなその表情に、どくんと鼓動が跳ねた。
「…………」
 一織はふわりと、陸の唇に触れるだけのキスをした。
 重なったぬくもりとやわらかな感触に心が震えて、離れかけた唇を再び合わせる。離れて、触れて、もう一度。まるで魔法にでもかけられたように、やめることができなかった。
「ん、……ん……」
 眠っているのに、小さな吐息を漏らす陸がかわいい。ちゅ、ちゅと啄むようなキスを何度も繰り返していると、ふいに陸の唇が開いた。はっと目を瞠ると同時、重なった唇をぺろりと舐められる。一織はびくっと震えた。
 もうやめよう、そう思ったけれど──。
(七瀬、さん)
 もう一度唇を重ね、彼の口内に舌を差し入れる。すると陸は、いつもそうするように一織の舌を吸った。
「……っ、……」 
 交わる熱と濡れた感触に甘やかな感情が体の奥から湧き上がってくる。際限なく溢れるそれは全身を駆け巡って、どうにかなってしまいそうだ。一織は夢中になって陸の唇を味わった。
「んぅ……んっ……」
 くちゅ、と濡れた音と共にひときわ甘い吐息が耳に響いて、一織は再びハッとした。慌てて唇を解き陸から離れる。
 今度こそ起こしてしまったのではないか。そう思ったけれど、見つめる先の陸にその様子はない。一織はゆるゆると息を吐いた。
「…………はぁ」
 自分はいったい、何をしているんだ。恋人同士とはいえ、寝込みを襲うなんて最低だ。
 居た堪れない気持ちに襲われながら、一織は眼下の陸をじっと見つめた。彼の濡れた唇に、どきんと鼓動が跳ねる。
「……すみません」
 指先で唇を拭ってやりながら、もう一度小さく謝罪した。
 当然返事はない。しかしいったいどんな夢を見ているのだか、陸はふにゃっと笑った。つられてふ、と頬が緩む。
 どうか彼の見る夢が、少しでも幸せなものでありますように。
 鼓動はまだどきどきと早鐘を打っていて、体はじんと熱を訴えているけれど、一織はそれを懸命に宥めながら、静かに陸の部屋を出て行った。


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