「そういう言い方しなくたっていいだろ! 一織のバカ!! 意地悪!! ケチ!!」
「そんな幼稚な返ししかできないあなたの方がよっぽど馬鹿だと思いますけど」
「……っ、一織なんか、泣いて頼んでももう口きいてやらないからな!」
 吐き捨てるようにそう言って、陸はリビングを飛び出し二階の自分の部屋に駆け込んだ。
 明かりもつけずにベッドにもぐり、頭まで毛布と布団をかぶる。そうして抱き枕をぎゅっと抱え、心の中で叫んだ。
(ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく!!)
 明日は久しぶりにIDOLiSH7のライブがある。単独ライブは半年ぶりだ。
 この日のためにリハーサルは念入りに行ってきた。準備は万端。今日は早く寝ようと思ったのだけれど、なんとなく落ち着かなくて、陸はリビングの大きなテレビで前回のライブ映像を見ていた。TRIGGERやRe:valeと共演した、ハロウィンのライブステージだ。
 自分たちのライブはもちろん、他グループのライブを見ると士気が上がった。自分ももっと頑張ろうと思えるから。
 そうしてライブに見入っていると、一織がやってきて早く寝ろと言ったのだ。
『こんなところで何をしているんですか。もうすぐ日付が変わりますよ。夜更かししている場合じゃないでしょう』
『わかってるけど、緊張しちゃって眠れないんだよ。一織も眠れなかったんじゃないの? だから降りてきたんだろ』
 一織も自分と同じかと思うと嬉しくて、陸はふふっと笑った。
 しかし一織から返ってきたのは冷ややかな言葉だった。
『あなたと一緒にしないでください。私は喉が乾いて降りてきただけです。そもそも眠れないから夜更かしするなんていくつの子どもですか。プロの自覚があるなら、無理にでも寝る努力をしてください』
 一織の言うことはもっともだ。けれど言い方ってものがあるだろう。ましてや自分たちは恋人同士なのだ。もう少し優しい言葉をかけてくれてもいいんじゃないか。
 そう思ったらムッとして、陸はつい声を荒げてしまったのだ。一方一織もそれで折れる性格ではない。売り言葉に買い言葉。喧嘩になってしまった。
「バカ一織……」
 明日は待ち望んでいた久しぶりのライブなのに。
 喧嘩なんてしてる場合じゃないのに。
 そう思うと余計ムカムカして、苛立って、悲しくなった。
 一織とは初めて会った時から喧嘩ばかりしている。大半は今日のようなつまらない言い合いで、一晩寝たら何でもなくなっているのが常だった。だから今夜の喧嘩も、朝になればどうでもよくなっているのかもしれない。
 それでも、悲しいものは悲しい。
 涙まで浮かんできて、陸は目元をごしごしと拭った。
 こんなことで泣くなんて情けない。付き合う前は平気だったのに、付き合い始めたらつまらない喧嘩にもバカみたいに傷つくようになってしまった。
 それだけ一織が好きになっているんだと自覚すると、胸の奥がじく、と燃えるように熱くなるのだけれど。



 結局眠れずベッドの中でぐずぐずしていると、ふいに部屋のドアがノックされた。陸ははっとして瞼を上げた。
「……七瀬さん、入ってもいいですか」
 一織の声だ。
 返事は出来なかった。
 さっきのことはまだ腹が立っていたし、もう口をきかないと言った手前返事をするのは躊躇われた。
「すみません、入ります」
「えっ?」
 いいなんて言っていないのに、ドアが開いて一織が中に入ってくる。陸は慌ててベッドの上に起き上がった。
 ああもう、鍵をかけておくんだった。というか、寝た振りをしていればよかった。
 すべての後悔は先に立たず。一織は部屋に入ると、こちらまでまっすぐ歩み寄ってきた。
「七瀬さん」
 さっきとは全然違う、優しい声。陸を見つめる視線も、びっくりするくらいとても優しいものだった。
「先程はすみませんでした。あなたの言う通り、私が馬鹿でした。ごめんなさい」
「え……一織、どうしたの?」
 口をきかないと言ったのも忘れて、陸は思わず聞き返した。ついさっきまで眉間に皺を寄せてぷんぷんしていたくせに、今の一織はまるで別人だ。何が起こったのだろう。
 すると一織は、ぽかんとする陸を見つめて言った。
「……あなたが、もう私と口をきかないと言うからです」
 ぎし、とベッドが沈む。一織が腰掛けたせいだ。
 一織は座ったまま、上半身を起こした陸の頬にそっと手を伸ばした。
「いお……」
 一織の手のひらが陸の頬を包む。それはいつも、彼が陸にキスをするときの動きだった。
「お願いです。もうあんなことは言わないで下さい」
 切ない表情で見つめられて、どくんと鼓動が跳ねた。
 どうしよう……一織がかわいい。
「……っ、言わない……! もう言わないよ」
 頭で考えるよりも先に返事をしていた。
「ごめん一織、オレ、一織がオレのこと心配して言ってくれてるのわかってたのに……」
「いいんです」
 陸の声を遮って一織が言う。
「あなたは何も悪くありません。あんな言い方しかできない私がいけないんです」
「一織……」
 こんなに素直な一織は滅多に見られたものじゃない。
 お前、どうしちゃったの?
 訊ねるように見つめると、一織はふ、と笑った。大人びたその笑顔に、どきんと鼓動が跳ねる。
 それはまるで、ステージの上でファンの子に見せるような、優しい微笑みだった。
 ドキドキと鼓動が跳ねて、今にも口から飛び出しそうだ。何か言いたいのに言えないでいると、一織は陸の頬をそっと撫で顔を近付けてきた。
「あ……、っ」
 唇が優しく重なる。陸が一番好きな、啄むようなキスをされて肩が震えた。ぎゅっと瞼を閉じて唇を開くと一織の舌が入ってくる。
「七瀬さん……好きです」
 キスの合間に囁かれて、またひとつ鼓動が跳ねる。
 僅かに離れた唇に瞼を開ければ、一織は柔らかく笑んでもう一度「好きです」と言った。
「オレも……好き、大好き……ん、っ」
 再び唇を塞がれる。今度はさっきよりも深く。と同時に一織の手が、パジャマの裾から入り込んできた。
 ……あったかい。気持ちいい。大好き。
 陸はもう何も考えられなくなって、一織の背に腕を絡めた。



「……さん。七瀬さん」
「ん…………」
「そろそろ起きてください。朝ですよ」
 薄く開いた瞼の先、一織の顔を見つけて陸は「あ」と声を漏らした。
 そうか、昨夜は一織が部屋に来て……そのまま一緒に寝たんだっけ……?
 ぼんやりした頭でそう考えながら、陸はむくりと体を起こした。いつの間に起きたのか、ベッド横に立つ一織は既に身支度を整えている。
「おはようございます」
「おはよう……」
「もうすぐ朝食ができますよ。皆さん起きていますから、あなたも準備してください」
「うん……」
 ふぁあと欠伸をしながらベッドを出る。洗面所に向かおうとすると「七瀬さん」と呼び止められた。
「なに?」
 振り返ると、一織は言いにくそうな顔で小さく口を開いた。
「あの……、昨夜はすみませんでした」
「昨夜?」
「間違ったことを言ったとは思いませんが、少し……言い方がきつかったかもしれません」
「それならもう──」
 謝ってくれただろ?と言いかけて陸ははっとした。
(ま、待って!! あれって……)
 間違いない──あれは夢だ。
「久しぶりの私たちのライブ前なのに、あなたがいつものようにTRIGGERのライブ映像なんて見ているから面白くなかったんです。どうせ見るなら私たちのライブでいいじゃないですか」
 どこから? 一織が部屋に来たところから。多分全部。
「う……」
「七瀬さん?」
「わーーーー!!」
 陸は思わず叫んでその場に蹲った。あんな夢を見たなんて恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
「な、なんですか突然……!」
「なんでもない! なんでもないから!」
 顔が燃えるように熱い。
 考えてみれば、一織があんなふうに謝るなんて変だ。あんなに格好いいのも、あんなに好きって言ってくれるのもありえない。あのキスも、それから先のことも。
(あれ全部、オレの夢だったんだ……!)
 恥ずかしくて一織の顔が見られない。蹲ったまま両手で顔を覆っていると、ふいに目の前に影が落ちた。
「何なんですか、あなたは……」
 呆れた声がすぐ傍から聞こえる。
 え?と思って顔を上げると、同じようにしゃがみこんだ一織の顔が目の前にあった。
「まだ怒っているんですか?」
「……別に、怒ってない」
 小さく言うと、一織の頬がはほっとしたように緩む。陸が目を瞠ると同時、一織はすっと立ち上がった。
「まあ、当然ですね。どちらが悪いかと言えば七瀬さんの方ですから」
 さっきまでの殊勝な態度はどこへやら、いつもの調子でそんなことを言う一織にかちんときた。陸は立ち上がって一織を睨んだ。
「だからそういう言い方……!」
 反論しかけて口を噤んだ。
 腹は立つけれど、これが一織だと思った。
 素直じゃないし可愛くないけど、こういう一織を自分は好きになったのだ。
(昨夜みたいな一織は、まだいいや)
 思わずふっと笑うと、一織は怪訝な顔で陸を見た。
「なんですか?」
「ううん。……ね、仲直りしよう!」
 つまらない喧嘩はもうおしまいにしよう。
 笑顔で見つめると、呆れたような笑顔が返ってきた。それだけで、心はふわふわと舞い上がるから。
「一織」
 腕を掴んで引っ張ると、一織の顔が僅かに近付く。
 陸はそっと顔を寄せて、彼の頬に触れるだけのキスをした。


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