春夜喜雨 一織&百

 

 
 3部本編沿いのお話です。

 雨が降っていることに気付いたのは、外に出たときだった。
 湿り気を帯びた空気に冷たさはなく、夏が近付いていることを知らせている。こうしている間にも、時間は確実に流れているのだ。
 マンションのベランダで一人、一織は一人ゆるゆるとため息を吐いた。
 ここは居候させてもらっている百のマンションだ。陸との電話が終わって、もう十分が過ぎていた。けれど一織は未だ、その場所から動けずにいる。
 ……また、つまらない喧嘩をしてしまった。
 陸との喧嘩はいつものことだ。
 けれど今は、今だけは、あんな言い争いはしたくなかったのに。
 こちらから電話をして謝ろうか――いや、また喧嘩になってしまうかも。
 ならラビチャで一言だけでも……でも悪いのは、話をすげ替えて文句を言い始めたあの人なのだ。何故こちらが頭を下げねばならないのか。
 さっきからずっと、そんなことをぐるぐると考え続けている。またひとつため息が落ちたその時、背後のテラス戸が開いた。
「いおりー、いつまでそこにいるつもり? もうすぐ三月の特製焼きそば出来上がるよ!」
 明るく声をかけてきたのはこの部屋の主だ。一織ははっとして、見つめていたスマホをジャケットのポケットに押し込んだ。
「あ……いえ。すみません、手伝います」
「ちょい待ち!」
 部屋の中に戻ろうとした一織の腕を掴んで、百は自分も外に出てくる。一織はきょとんとして彼を見つめた。
「百さん?」
「さっきの電話、陸からだったんでしょ? どうした? 喧嘩でもしちゃった?」
 鋭い指摘にぎくりとする。すると百は「あ、図星だ」と笑った。
 この人は本当に勘がいい。
 一織は一瞬言葉に詰まったが、少しの間を置いて口を開いた。
「……七瀬さんが分からずやなんです」
 思わず拗ねた言い方をしてしまう。
 一織はバツが悪くなり視線を逸らしたが、百はそんな一織をからかうことなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「陸はまっすぐで素直な性格だからね。感情優先で喋るから、理論派の一織とはぶつかっちゃうのかな」
 まさしくその通りだ。まるで会話を聞いていたかのような百の分析に驚いていると、彼は一織を見てふふっと笑った。
「オレもどっちかっていったら陸タイプだから、わかるんだよ。で、ユキは一織タイプ。オレたちもしょっちゅう喧嘩してるよ」
「お二人がですか?」
 いつも仲良く息がぴったりなRe:valeが、しょっちゅう喧嘩をしているなんてにわかには信じ難い。思わず疑いの目を向けると、百はあははと笑った。
「してるしてる! って言っても、長くは続かないんだけどね。オレ、ユキに弱いから。ムカつくことがあっても一回パーッと発散したら気が済むっていうか、怒りが持続しないんだよねえ」
「はあ……」
 なるほど確かに、百は陸と似ているかもしれない。
 陸も怒る時は意固地になって怒るが、一晩たったら何もなかったかのようにケロッとしている。毎回言いすぎたかと悩む自分が馬鹿らしくなるくらいだ。
 今回の喧嘩も、それと同じならいいのだけれど。
「どうしたら……」
「うん?」
「あ……いえ!」
 ほとんど無意識に言葉が出たので、百に聞き返されてどきりとした。口を噤むと、百はにっと笑う。
「どうしたら、喧嘩しないですむか?」
 またしても図星を突かれて、一織はびくりとした。
 百はまっすぐこちらを見つめ、優しく告げる。
「喧嘩はさ、していいんだよ」
「は……」
「ほら、よく言うでしょ。喧嘩するほど仲がいいって。あとあれ、『雨降って地固まる』! あれって真理だと思うんだよね。真正面からぶつかり合ってこそ、お互いのことを理解できるっていうかさ。ちなみにこれ、経験からくる大人の話だから高校生の一織くんは真剣に聞くように」
「それは……。でも喧嘩なんて、出来ればしたくないです」
 陸と喧嘩する度、きつい物言いしか出来ない自分に嫌気が差す。もっとおおらかに、余裕をもって彼の話を聞いてやれたらどんなに――。
 俯くと、ふいに百の腕が一織の肩に伸びた。びくっとして顔を上げれば、肩を組んだ百に頭をわしゃわしゃと撫でられる。
「なっ……、なんですか……!?」
「一織、かっわいいー!」
「は!?」
 いきなり何なんだと眉を寄せて隣を観ると、視線を合わせた先輩はふわりと微笑んだ。
「一織はさ、陸のことが大好きなんだね」
「な……っ」
「大好きだから、喧嘩しちゃって自己嫌悪してるんでしょ?」
「っ……、私は別に……!」
 思わず反論してしまったのは、気恥ずかしかったからだ。頬が赤らむのを感じ顔を背けると、百はふふっと笑った。
「大丈夫! 陸も一織のこと、ちゃんと大好きだから。電話してきたのも、だからだと思うよ。一織が三月に付いてっちゃって寂しかったんじゃないかな」
「……そうでしょうか」
 喧嘩の直後だけに素直に聞き入れられない。
 またも拗ねた物言いをすると、百は短く息を吐いた。
「もー、一織がそんなんじゃダメだよ! もっと自信もって!」
 百はそう言うと、一織の顔をまっすぐ覗き込んだ。
「一織と陸のことは、オレが100%保証する!なんなら保証書つけてもいい! モモちゃんの安心安全十年保証、こんなお得な商品、なかなかないよ!」
「十年だけですか?」
「さらに今なら無料サポートもお付けします! 二十四時間完全サポートだよ!」
 明るい言葉に思わずふっと笑うと、百もにっこり笑った。見る人の気持ちまで明るくするような、とびきりの笑顔だった。
「明日陸に会ったら、一織から声かけてやってよ。陸もきっと喧嘩したこと後悔してるし、寂しがってるはずだからさ」
「……はい」
 頷くと、「よし!」と明るい声が返ってくる。と同時に部屋の中から「焼きそば出来ましたよー!」と三月の声が聞こえてきた。
「おっ、いい匂い! 中戻ろう!」
「はい」
 部屋に戻る百の背中を見つめ、一織はジャケットのポケットに手を入れた。
 食事の前に、陸に一言ラビチャを送ろう。
 ――さっきは言いすぎました、ごめんなさいと。
「ほら一織、早くおいで」
 百が振り返ってこちらを見る。
 重く沈んでいた心が少しだけ軽くなったことに気付いて、一織はふわっと微笑んだ。


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