ホットミルク

 

 
 3部本編沿いのお話です。前作と繋がっています。

 コンコン、と部屋の扉をノックする音に一織は顔をあげた。
「どうぞ」
 返事をすると、そうっとドアが開く。次いでマグカップが二つ並んだトレイを抱えた陸が、「こんばんは」と顔を覗かせた。
「入っていい?」
 いつもならこちらの返事も聞かずずかずかと入ってくるくせに、今日の彼はやけに礼儀正しい――というより、どこか他人行儀だ。「いいですよ」と答えると、陸は嬉しそうに破顔し部屋に入ってきた。
「ホットミルク作ったんだ。一緒に飲もうと思って!」
「そうですか……。ありがとうございます」
 夜一緒にホットミルクを飲むのは2人の習慣になっていたが、陸が作るのは珍しい。いつもは一織の担当だったが、今夜は久しぶりに寮に帰ってきたこともあり、そこまで気が回らなかった。
 カップを受け取り、並んでソファに腰掛ける。湯気のたつカップにゆっくり口をつけると、即座に横から「美味しい?」と声がかかった。
「ええ、……いつもより甘みが強い気もしますが、まあ、美味しいです」
「良かったあー! はちみつ入れる時、瓶を傾けすぎちゃってさ、思ったより入っちゃったからどうかなって心配だったんだ」
 えへへと照れ笑いする陸を前に眉間に皺がよる。
 せっかく作ってくれたので控えめな感想を述べたのだが、今夜のホットミルクは正直かなり甘かった。
「あなた、根っからのドジっ子のくせに瓶から直接蜂蜜を入れたんですか? そんなことをしたらどんな結果になるか、目に見えていたでしょう」
「そこまでドジじゃないよ! 今日はちょっと、失敗しちゃったけど……」
 自覚がないのだから困った人である。
 彼に自覚が生まれない原因のひとつは自分にもあるとは露にも思わず、一織は短く息を吐いた。
「甘くなっちゃったぶん、牛乳足して薄めたんだよ。おかげでいっぱいできたから、みんなにも配ってきたんだ。みんな喜んでくれたから、失敗してよかったかも!」
 笑顔で告げる陸につられて、ふっと笑みが零れる。
 この人はいつだって前向きだ。
「仕方の無い人ですね。明日からは、私が作りますよ」
 何気なく言うと、陸は少しだけ驚いた顔をして、それからふわっと笑った。
「うん!」
 寮を離れていたのはそう長い時間じゃない。
 けれど陸と二人、こうして以前のように過ごしていると、何だかとても久しぶりのような、懐かしい気持ちに包まれるのが不思議だった。
「百さんち、楽しかった?」
「楽しめる状況ではありませんでしたが、とても良くして頂きましたよ」
「そっか、良かったな。……百さんも千さんも、すごく優しいよね」
「……ええ。本当に、そう思います」
 どうしてそこまでと思うくらい、Re:valeの二人は親身になってくれた。
 自分に後輩が出来た時、彼らと同じことが出来るだろうか?
 そんなことを考えると、一織は心の底から頭が下がる思いだった。アイドルとしてはもちろん、人としても尊敬できる先輩が身近にいる。それはとても恵まれたことなのだろう。
「一織はさ……」
 陸はそう言うと、ふいに黙り込む。不思議に思って隣を見ると、陸はソファの上で膝を抱え込み、両手で持ったカップの中身をじっと見つめていた。
「七瀬さん?」
「寮を出て、寂しくなかった?」
 え?と目を見張ると、陸はそっと顔を上げる。絡む視線にどきんと鼓動が跳ねた。
「三月がいたから、平気だった? ここに帰りたいって、少しも思わなかった?」
 真っ直ぐな眼差しと、真っ直ぐな言葉。
 一織はすぐには答えられなかったが、やがて小さく、口を開いた。
「……そんなわけないでしょう」
 それだけ言うのがやっとだった。
 けれど陸には十分だったようだ。彼は「そっか」と微笑んだ。
「一織たちがいない間、ご飯とか大変だったんだよ。オレも環もナギも、決まったメニューしか作れないしさ。壮五さんの料理は……ほら」
「おおよそ想像がつきます。さぞ真っ赤に彩られた食卓だったでしょうね」
 言葉を濁した陸にそう言うと、彼は声を上げて笑う。  
 まったく、よく笑う人だ。
 そんなことはずっと前から知っているけれど、一織は何故か、今改めてそう思った。
「帰ってきてくれて、嬉しい」
 ひとしきり笑い終えたあと、陸がはにかみながら言った。その表情にまた一つ鼓動が跳ねるのを感じながら、一織は平静を装いすまし顔で答えた。
「皆さん、兄さんに胃袋を掴まれていますからね。明日はご馳走だと張り切っていましたよ、期待していいんじゃないですか」
「違うよ、一織」
「え?」
 何が違うのか分からない。
 隣を見ると、大きなどんぐりのような瞳がきらりと揺らめいた。
「オレは、一織が……」
 ……え、と声にならない声が零れる。
 けれど陸は、そこで話をやめてしまった。一織は続きが気になったが、それを問うことは出来なかった。
 視線を外し、ホットミルクを飲む。

 ――やっぱり、甘い。甘すぎるくらいに。

「一織」
 少しの沈黙を割って、陸が口を開いた。
 視線を返すと、照れくさそうな顔がそこにある。
 絡む視線の先で、陸が笑った。
「おかえり!」
 今このタイミングで言うことだろうか。
 一織はそう思ったが、それを口にすることは出来なかった。目の前の笑顔につられるように、自然と頬が緩む。
「……はい」
 素直に頷いたら、陸は太陽のような笑顔をくれた。

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