なんでもない日 一織視点
『一織くん、お疲れ様。逢坂です。
これから三月さん、大和さんと収録に向かうところです。
陸くんがリビングのソファで眠っていますが、起こすのも忍びないのでこのまま寝かせておきます。一織くんが帰る頃には起きているかもしれないけど、部屋は十分あたたかくして、加湿器も近くに置いたので心配しないで。
ただ、今日は少し体調がよくないようです。
本人は何も言わないけど、いつもより食欲もないようなので、気を付けてあげてください。僕たちは帰りが遅くなると思います。よろしくお願いします。』
放課後スマホを確認すると、逢坂さんからそんなラビチャが届いていた。
送信された時刻は三十分前。私は急いで通学鞄を掴み、教室を飛び出した。
――11月の終わり。
感覚としてはまだ秋のつもりだったが、昨日は突然、積もるほどの雪が降った。都心で11月に積雪するのは、54年ぶりの出来事らしい。
昼過ぎには雨に代わり、積もった雪も消えてなくなってしまったけれど、もう冬なのだと実感する。
頭をよぎるのは、七瀬さんの体のことだった。
寒さと乾燥した空気は、彼の病気にとって天敵だ。
十分気を付けていたにも関わらず、体調を崩してセンターを交代せざるをえなくなったのは去年の冬のこと。
あれから一年。また、冬がやって来た。
この国に四季があることを、うらめしく思ったのは初めてだった。
最寄り駅を出たところで、コートのポケットに入れていたスマホが震えた。人波から外れ急いで画面を見ると、ラビチャの通知が届いている。
『一織、学校終わった? 何時頃帰る?』
送り主は七瀬さんだ。どうやら目が覚めたらしい。
『お疲れ様です。あと十分ほどで帰寮します。』
手早く返事を打つと、すぐに嬉しそうなきなこのスタンプが返ってくる。
用件はそれだけらしい。ひとりで寂しかったのだろうか。
……まったく、かわいい人だな。
私は思わず緩んだ顔を慌てて引き締め、スマホをポケットに戻した。
少しでも早く帰ろう。そう思うと、自然と足が速くなる。
そうして帰路を急ぐ中、駅から寮までの中間にあるコンビニの前を通り過ぎようとしたところで、私はふと足が止まった。窓に貼られたポスターに目がいったからだ。
期間限定で発売された、キャラクターものの中華まんの告知ポスター。
思い出すのはしばらく前、これを食べたいと騒いでいた七瀬さんの姿だった。
『いつ行っても売ってないんだよ。もう完売しちゃったのかなあ』
残念そうに言っていたのは、もう一か月は前のことだ。
既に食べているかもしれないし、興味も失くしているかもしれない。そもそもまだ売っているのか?
そう思ったけれど、『食欲がない』という逢坂さんの伝言も頭をよぎり、私は踵を返し店に入った。
「いらっしゃいませ」
レジにいる中年男性の店員がにこやかに声をかけてくる。
並んだ什器を確認すると、一番上の段に目的のそれがふたつ並んでいた。
個体差があるのだろう、ポスターの写真と比べ少し不格好だが、贅沢を言ってはいられない。私は店員に、それをふたつ注文した。
ふたつ頼んだのは、ひとつだけ注文するのが気が引けたからだ。別に自分も食べてみたいとか、そう思ったわけではない。決して。
「ありがとうございました」
こちらの正体を知っているのかいないのか、店員は別段好奇の目を投げるでもなく普通の対応をしてくれたので、少しほっとした。
中華まんの入った紙袋は、手に持つとあたたかい。これを渡したときの七瀬さんの顔を想像したら、胸が弾んだ。
あたたかい店内との差も激しく、日が落ちた外はやはり11月とは思えない寒さだ。私はマフラーに顔を埋めた。
早く帰ろう。
……もう一度、そう思う。
子供のころからずっと、学校から帰ると家はがらんとしていた。両親も兄も、店のほうにかかりきりだったから、営業が終わるまで、一人で過ごすこともしょっちゅうで。
商売をしているのだから仕方ないと理解していたが、やはり寂しかった。
でも今は、毎日ではないにしろ「おかえり」と出迎えてくれる人がいる。それが嬉しい。
急ぎ足で帰り着いた寮の前で、私は息が切れていることに気が付いた。
あの人のことだ。「一織、走って帰ってきたの? そんなにオレに会いたかった?」などと言い出す可能性がないとも言い切れない。自分の想像に眉が寄る。
私は二、三度大きく深呼吸をし、呼吸を整えてから玄関の鍵を開けた。
「――おかえり一織!」
中に入るとすぐ、キッチンから七瀬さんが飛び出してきた。
満面の笑顔でブランケットを肩にかけた彼は、まるでヒーローの物まねをする小さな子どものようだ。それに本人は気付いていないのだろうが、さっきまで寝ていたのを証明するかのように前髪がぴょんとはねている。
「ただいま戻りました」
そう言いながら思わず笑ってしまうと、「どうかした?」と不思議そうな顔が返ってきた。
「いえ。羽織られているものがマントのように見えたので」
意地が悪いかもしれないが、前髪がはねているのはあえて教えなかった。
「あ、これ?」
七瀬さんはそう言うと、まるでステージ衣装を身に着けているかのように、くるりと一回転してみせる。ブランケットの裾がひらりときれいに翻った。
「へへ、格好いい?」
得意げな顔で聞かないでほしい。再び顔が緩みそうになるのを堪え、私は冷静に返した。
「ああ、はい。そうですね、格好いいです」
む、と小さく膨れる顔も小さな子どものようだ。
けれど不機嫌そうに見えたのは一瞬で、七瀬さんはすぐに表情を変え、もう一歩こちらに歩み寄ってくる。
……いつも思うが、この人はパーソナルスペースが人より狭い。
必要以上に近付かれることに、最初は戸惑っていたが、一年以上一緒にいると嫌でも慣れてしまった。今ではむしろ、この距離感を当たり前のようにも思うのだから、ずいぶんと感化されてしまったものだ。
「外、寒かった?」
「それほどでもありませんよ。まだ11月ですし」
これくらいで寒がっていては、冬本番に身が持たなくなる。
そう思っていると、七瀬さんは何も言わずじっとこちらを見つめてきた。
まるで美しい宝石のように真っ赤な瞳と視線が交わり、どきりと鼓動が跳ねる。それを誤魔化すように「なんですか」と訊ねると、七瀬さんはさらに一歩こちらに近寄った。
目の前に迫る彼の顔に息を呑むのと、彼の両手が突然伸びて私の耳朶をぎゅっと掴んだのはほぼ同時だった。
体中の感覚がそこに集中したかのよう。びくっと体が跳ね、私は咄嗟に後ろへ飛びのいた。突然のことに変な声をあげてしまった気もしたが、それがどんな声か自覚する余裕もない。
「なっ……、いきなりなにするんですか!」
「やっぱ寒かったんじゃん。赤くなってるし、冷たいよ」
「あなたの手が熱いだけでしょう!」
「え、そう?」
そうです!七瀬さんの指が触れたのは、ほんの一秒程度のことだったけれど、燃えるように熱かった……気がする。
まったく、動物みたいな人だ。次に何をするのか行動が読めない。
私の言葉を受けて、七瀬さんは自分の頬を両手で包みこむ。
それはクラスの女子が、写真を撮るときによくしているポーズだった。
今までなんとも思わなかったが、目の前で彼にされるとあまりに可愛らしく言葉が出なくなる。
……なんなんですか、それは!
「一織、顔赤くない? もしかして風邪?」
両手を顔に当てたままそんなことを言われ、ますます顔が赤くなるのが自分でもわかった。照れると赤くなってしまう体質が情けない。
「違います!」
「違うの?」
「誰のせいですか!」
こちらの気も知らず、首を傾げる姿も妙に可愛らしい。
私は一瞬言葉に詰まり、手に提げていた紙袋を彼に差し出した。
「なに?」
七瀬さんは受け取りながら、不思議そうな顔で私を見る。気恥ずかしくなりながら、私は小さく告げた。
「……あなた前に、食べてみたいと仰っていたでしょう」
「えっ」
私の言葉にいそいそと紙袋を開けた七瀬さんは、中身を見るとわあっと声をあげた。本当にびっくりした顔だ。
「ありがとう一織!」
嬉しそうな表情と言葉に、心がふわっと浮き上がる。「どういたしまして」と答えると、七瀬さんは再び袋の中を覗いてふふ、と笑った。
「思ったよりかわいくないね。へんなかお」
「コンビニのクオリティですからね」
せっかく買ってきたのに失礼な人だな。
でもこの正直さが彼の愛らしさでもあるから、嫌な気はしなかった。
つられて中を見ると、袋の中で時間が経ってしまったせいか、中華まんはさっきより微妙な顔になっていて、私は思わず眉を寄せた。これは確かに可愛くない。
「レジで見たときは、もう少しましな顔でしたけど」
私は残念に思ったが、七瀬さんはさほど気にしないようだった。
かわらず嬉しそうな顔でこちらを見て、声を弾ませる。
「一織、一緒に食べようよ。オレね、一織にココア作って……あっ!」
言いかけてすぐ、彼の顔色が変わった。
どうかしましたかと訊ねるより先に、七瀬さんは慌てて身を翻す。ブランケットがばさりと床に落ちたが、それにも気付かないようだった。
「ちょっと……! なんですかいきなり……」
私はブランケットを拾い、七瀬さんに続いてキッチンに入った。その瞬間、周囲に漂う異臭に気付く。
これは……。
七瀬さんは、コンロの前に呆然と立ちすくんでいた。背中を向けているから顔は見えないが、彼は固まっている。
「七瀬さんあなた……」
声をかけながら、私はさっき彼が言いかけた言葉を思い返した。
『一織にココア作って……』
その言葉と、この焦げ付いた匂い。答えは正解を見ずとも明らかだ。
私は持っていたブランケットを椅子の背にかけ、七瀬さんの横に立った。
「どいてください」
「一織……」
七瀬さんの口から出たのは、今にも泣き出しそうな声。
鍋を覗くと、中のココアは完全に焦げ付いてひどい有様だった。中身も残ってはいるが、ここまで焦げてしまっているのでは飲めたものではないだろう。
「勿体ないですが、これは作り直すしかないですね」
そう告げると、七瀬さんはますますしゅんとうなだれた。
「ご……ごめん……! 強火にしたの忘れてた……。牛乳もそれで使い切っちゃったから、もう作れない……」
はあ!?あなたは私がホットミルクを作るのを、いったい何度見ていたんですか。牛乳を強火にかけてはいけないことくらい知っているでしょう!あなたはこれだから……そんな言葉が喉元まで出かかったが、私はそれらを呑みこんだ。
七瀬さんは、私のためにココアを作ろうとしてくれたのだ。
それがわかるから、小言は声にならなかった。
まったく、この人は……。
「七瀬さん」
名前を呼ぶと、七瀬さんの肩が小さく跳ねる。
それでもゆっくりと顔をあげた彼と視線を重ね、私は言った。
「でしたら、紅茶を入れていただけますか」
「え……」
「その中身、チョコクリームだそうですよ。甘い飲み物より、すっきりした飲み物のほうが合っているでしょう」
言いながら、換気扇のスイッチを入れ、焦げ付いた鍋の中身を捨てて水にさらした。随分焦げ付いてしまっているが、重曹を入れて沸騰させれば落ちるはずだ。
七瀬さんは何も言わない。
今の言葉では駄目だったかと顔を見ると、視線が絡んだ瞬間、彼ははっとしたような表情で口を開いた。
「あ……、わ、わかった! 世界一おいしい紅茶いれるな!」
彼の返事に、自然と笑みが溢れる。すると七瀬さんも、えへへと笑った。
……世界一おいしい、なんてまた随分大きく出る人だ。
そう思ったけれど、それもあながち嘘ではないのかもしれない。
私のためにあなたが淹れてくださる紅茶は、きっと世界一おいしいはずですから。
「そう思うのは、私だけでしょうけれど」
「うん? なに?」
ぽつりと零した独り言に、七瀬さんがこちらを振り返る。
さっきまでしょげていたくせに、もう明るい顔だ。
あまりの現金さに少しだけ呆れるけれど、それ以上にあたたかい気持ちが胸が満たしていくのを感じ、私は短く息を吐いた。
くるくると変わる表情も、ドジで抜けているところも、どんなときだって、周りを明るくさせるところも、あなたのそういうところが私は――。
「一織?」
どうしたのというように私の名前を呼ぶ七瀬さん。
私はまだぴょんとはねたままの前髪を見つめ、「いいえ、なんでも」と返した。