memo

スターフィッシュイーターvsシップフォックス 2

前の話


 塒にしている神社へ全速力で戻った僕は、社に入ると大きく息を吐いて床に座り込んだ。
 僕は、どうかしている。
 先ほど港であった出来事を思い出しては、焦燥感と共に全身の毛が逆立つようだった。
確かに、ヒトデ喰いの親子と出会い、そして魚を貰いに船へ通うようになって幾日か経った。そのために彼らに慣れてきた節はあったし、ヒトデ喰いの子供が可愛く思えた場面も、最近はあった。あったんだけど、だからって。
 だからってヒトデ喰いの手を舐めてしまうなんて……!
 僕の舌先が触れた瞬間、あの大きな手が跳ねたのを思い出しては頭を抱えたくなる。あれは流石に軽率だった。久しぶりに触れてきたから、ついついこちらも、なんて無意識の流れだったけど、相手が悪すぎた。
 あの様子なら神経を逆撫でしてしまったに違いない。
「明日から、大丈夫かな」
 やはり睨まれるかな、それとも吠えられるかな。折角仲良くなってきたというのに……いや、僕が一方的に通っていて、親子は情けで僕を迎えてくれているだけで仲が良いとは違う。
「でもなあ、……」
 一方的な関わりだと、知っている。しかし明日からのことを考えると憂鬱で僕は天を仰ぐ。
 一人立ちしてしばらく経ち、一人きりの生活には慣れてきた。と僕は思っていた。しかしそれでも一人きりが全く苦にならないかといえば、そんなことはなかった。やはり時折親が恋しくなることがあり、寂しく過ごす夜もあった。
 そんなところに現れたのが、ヒトデ喰いの親子だった。
 見目恐ろしくも子を見つめる目には慈しみを宿すヒトデ喰いと、そんな彼の愛情を一身に受けるヒトデ喰いの子供を見てはかつての幼い自分と重ねてしまった。
 重ねて、そして今の自分を再確認して、更に寂しく思う日もあった。それでも僕がもう過ごすことのない親子のひとときを傍で眺めたい自分もいて、僕はあの親子が羨ましいのだと感じるのだ。
「?」
 ふと、前触れもなく何かの気配を感じて僕は耳を立てる。ここは人も滅多なことでは来ないような小さな小さな稲荷神社だ。それこそ僕がここに住まうようになってから人一人見たこともない。人間に限った話ではない、お供えさえないようなこの神社に僕以外の小動物が来ることもこれまでなかった。
 耳を立てたまま姿勢を低くする。幸いにも僕は狐の中でも毛色が濃い部類だ、薄暗い社の中で体を小さくすればそう目立たない。
 人間か、小動物か……熊や鹿は、今の冬の時期にこんな場所には来ない筈だ。身を隠しつつ匂いを確認して、僕は聴覚と視覚を集中させた。
 鼻先についたのは、鼠の臭い。多分に本格的な冬を迎えたためにここへ訪れたのか。食糧面ではあまり恵まれた環境ではないがここは雪風をしっかり防いでくれる上、人工物故に天敵からの来襲がほとんどない利点がある。だから僕もここを住まいに選んだのだけど、まさか鼠が来るとは…これは格好の獲物としか言い様がない。
 姿は見えない。しかし耳には鼠の尻尾が地に擦る音がしっかり聞こえてきて、その近さに僕は息を殺す。距離はそう離れていないので視界に入った時が勝負だ。
 音が聞こえる方へ神経を集中させて待っていると、社の扉の隙間から小さな影が見えた。
 あれだ。影を視界に捉えた瞬間、僕は後ろ足で床を蹴りあげて飛びかかった。爪を剥き出して前肢を踏みしめると悲痛な鳴き声と共に足の裏に歪な柔らかさを感じる。
 こいつは仕留めたな。前肢に力を込めたまま確認すると目下には白目を剥いて痙攣する鼠がいた。冬を越そうと訪れただろうに狐がいて災難だったね、しかし僕だって生き延びたいだけなんだ。恨むならここへ導いた神様でも恨んでくれ。
 首を噛み潰して止めをさすと、その鼠をくわえて僕は社を出る。社の前には二匹のお稲荷さまの石像が鎮座しており、僕はくわえた鼠をお稲荷さまの前に置く。神様といえば忘れるところだった。
「今日は魚がないので、こちらを代わりにお納めください」
 ヒトデ喰いから食べきれないくらいの魚を貰うようになってから、残った魚をお稲荷さまへお供えするようになった。それは今日一日の食糧を得られた恵みを感謝しての行為から始まったが、いつの間にか習慣になっていた。いつもヒトデ喰いがくれる魚と比べると鼠とは貧相だけど、今日はこれしかない。明日は魚を持ってきますから、と思っては港での出来事がまた浮かんで、もしかしたら明日からはないのかもしれないと思った。
「どうにか、ならないかな」
 できることならもう一度くらいあの親子に会いたい。魚はもらえなくていいから、ヒトデ喰いの子供に頭を撫でてもらって、そして子供と共に僕を見つめるヒトデ喰いの姿を記憶に焼き付けたかった。
 短い間とはいえ、あの親子のお陰で僕は心身共に生き生きと過ごせたから。記憶に焼き付けておけば、きっとこれからの孤独は軽減される、ような気がした。
 でもやはり……。
「会いに行って追い返されたら、立ち直れないかも」
「何かお悩みかい?」
 突然、降ってきた声に反射的に辺りを見回す。しかし何も居なくて、僕はとりあえず耳を立てる。僕と同じ言葉だったから、狐か……? でも姿を見つけられないし、獲物もいないような場所に来るだろうか。
「上だよ上」
 その言葉に顔を上げれば、そこには太陽を背にこちらを見下ろす狐と目が合った。
 それだけならば僕の驚きは一瞬だけだったかもしれない。しかし声を掛けてきた主だろう狐の全貌を見て、僕は文字通り飛び上がった。
「ああっ、襲ったりしないから逃げないでっ」
 慌てて呼び止める狐は乗っていた石台から降りてくる。ふわりと動作に合わせて揺れた体毛は黒々とし、それを纏う体は僕の倍くらい大きい。そしてそんな体の大きさに見合った大きな尻尾は、なんと二房に分かれていた。
「尻尾が、二つ?」
「ああこれは生まれつきだから気にしないで」
 大きな黒狐はその風貌に似合わず、柔和な笑顔と声音でそう言いながら首を傾げた。尻尾は生まれつき、にしても他の狐と明らかに違うそれを気にするなというのは少々難しい。
「おいジョジョ、まず自己紹介済ませたらどうだ。正体がわからず困惑しているぞ」
 背後からまた違う声が聞こえて体が強張る。前方にいる黒狐に気を取られてはいたけど全く気配を感じなかったぞ。
 まさか背後に隙を作ってしまうなんて。未だ体が強張りつつ後ろを窺おうとすると、頭上を何かが飛び越えていった。
 次から次へとなんなんだ。
 思わず強張る体を無理やり屈ませていると黒狐の隣に何かがいるのに気付いて、視線だけ上げる。
「ディオだって彼を困らせているじゃあないか」
「まさか。おい子狐、顔を上げろ」
 そう言ったのは金色に輝く体毛を持ったこれまた大きな狐だった。あまりの輝きにたじろぎそうになるが、声からして先ほど背後から声を掛けてきたのはこの金狐だと知れる。
 黒狐に金狐、今まで見たことない毛色の二匹に警戒しつつ、とりあえず言われた通りに顔を上げる。
「我が名はディオ。そして隣の礼儀知らずはジョナサン」
「自己紹介するタイミングを見失っただけだよ……初めましてではあるんだけど、僕らはお世話になってます、にもなるのかな。」
「……どこかで、会いましたか?」
「うん、毎日会ってるかな。いつもお魚を分けてくれてありがとう」
 こんな二匹に会えば忘れることはまずないのに僕は全く覚えていない。しかも毎日だって? 彼は何を言ってるんだ。
「自己紹介をしっかり済ませてからにしろと言ったんだが全く……俺とこのジョジョはここ、稲荷神社を守る稲荷狐だ」
「稲荷狐、ですか?」
「ああ。証拠に通常の狐にはあり得ない、尾がふたつあるだろう」
 言いながら金狐……ディオは脇から大きな尻尾をふわりと二本見せてきた。ジョナサンと呼ばれた黒狐も尻尾が二本あった。尻尾が二本ある、すなわち稲荷狐だと決定づけていいのやら。しかしいつもお稲荷さまの石像が乗っている石台を見れば、そこにあるはずのお稲荷さまがいなくて僕は目の前の二匹をまじまじと見た。意識すると確かにどこか神々しい気がしてくる。
 なるほど、この神社のお稲荷さまなら僕は毎日会っているし、魚もわけている。
 でもたとえお稲荷さまだとして、何故いきなり僕の前に現れたんだ?
「あの……僕が何かしましたか?」
 罰当たりなことはしてないはずだけど。いや、今まで僕はここの社を許可なく使っていた。御神体や賽銭だけは弄ってはいけないと過去に母から教えてもらっていたからそれは守っていたんだけど、それでも駄目だったか。
 注意や警告だけならばいいけど、神様のお供であるお稲荷さまは容赦ある者だろうか。
「いや特には。でも、今日はとても悩ましげに見えてね。これはいい機会だと話しかけてみたんだ」
「いい機会?」
「ああ、言葉足らずな上にちょっと不適切だったかな。この一月ほど、君は僕ら稲荷狐にお供えを続けてくれた。僕たちはそのお礼をしたく機会をうかがっていたんだ」
「あの……僕はお供えだけですから、そう大層なことはしていませんよ」
「それがね、大層なことなんだよ。僕ら稲荷狐に限らず神様や神獣は信仰心によって存在できるんだ」
「はあ、」
 神様の話はよくわからない。神というものは何に対しても存在する、なんて言うので神様とは身近にいるのかもしれないけど彼らの事情に狐は無縁である。
 お供えが大層な信仰心になって、お稲荷さまが存在できるねえ……
「結論を言えば、君のお供えが僕らを生かし、元気付けてくれたんだよ」
「お供えしただけで、ですか」
「ここ二十年、地主さんが数ヶ月に一度様子を窺いにくる程度で人っこ一人来なかったからね。そんなところに君のお供えは神の恵みのようだった」
 貴方がたは限りなく神様だろうに、なんて言葉が浮かんだが隣のディオが呆れた様子でジョナサンを見ていたのでその言葉は飲み込む。しかし二十年か、そう思うと大層にもなるのか。
「だから僕は君にお礼がしたくて。悩み事があるなら僕らの力で解決してあげるよ」
「ちから、ですか?」
「うん。僕とディオは稲荷狐、神様ほど有能じゃあないけど能力を活かせば君のお役に立てることもあるかもしれない」
「このディオはあまり乗り気じゃあないがね」
「ディオ!」
「だが子狐に借りを作るのも癪だ、今回だけは力を貸そう。これでイーブンだ……貴様は何に悩み、それに対して何を望む?」
 悩みと望み。ディオの言葉と視線にヒトデ喰いの親子の姿を思い出して、僕は口を開きかける。
 もう一度彼らに会うためには僕はどうすればいいのか。このまま僕が会いに行けば追い返される可能性があるから、僕は悩んでいるのだ。僕が姿を現したら、きっと……だから僕ではない僕が会いに行けば、また彼らと対面できるんじゃあないか?
「僕を、人間にしてくれませんか」
「人間?」
「はい。人間になって、会いたい人がいるんです」
 ヒトデ喰いと同じ人間なら、まず僕だと知られることもない上に警戒されにくく話も通じる。咄嗟に思いついたけど、なかなかいい案だと思う。
 だがしかし、いくらお稲荷さまとはいえそんな容易く他の生き物にできるのだろうか。
「人間か、それなら大丈夫だよ」
 僕が抱いた心配を余所にジョナサンはあっさりそう返してきたのでほっと小さく息を吐く。すごいんだなお稲荷さまって、こんな子狐を人間にできるんだから。
「その願いはジョジョ、君だけで叶えてやるんだな」
「ええっ!? なんだって僕だけなんだい?」
「人間なんて低俗な生き物にしてやるなんて俺は願い下げなのでね」
「そんな……困ったな」
「困ったって、大丈夫だったのでは?」
 先ほどあんなにあっさりと大丈夫だと言っていたのに、ディオが協力しないと言った途端にジョナサンは難色を示した。
「その、僕だけでは君を人間にする力はないんだ」
「そんな……あのディオ、人間になるのはどうしても駄目ですか?」
「駄目だね。それに、手段さえ選ばなければ、俺の手を借りなくともできるんじゃあないかねジョジョ?」
「それは、そうだけど、」
「それはなんですかジョナサン」
 人間に、別の生き物になるのだ。手段を選べないのは仕方ないと思うし、その結果何かしら代償があっても僕は文句はない。皮肉にも僕に何かあっても心配するような身内はいない。
 顔を近付けてジョナサンに詰め寄ると彼は耳を垂らしながら視線を逸らした。
「ジョナサン?」
「人間になる方法は、確かにある。でもそれには条件があるんだ」
「条件?」
「それは僕の血を受けて、稲荷狐にならなければいけない」
「僕が稲荷狐に?」
「そう。僕だけの力では生き物を他の生き物に化かすことは無理なんだ。でも君が稲荷狐になれば変化の術が使える。もちろん、人間にも化けられる」
 お稲荷さまとは人間に化けられるんだ。なるほど、そういうことか。しかしジョナサンが渋い顔をしているところを見ると、稲荷狐になるのは難しいようだ。
「稲荷狐になるにはどうすれば?」
「それは僕の血を君が一滴でも舐めればなれるよ」
「そんなに簡単なんですか」
「これでも一応神獣だから血液一滴でも効果絶大なんだ。しかし稲荷狐になってからが問題なんだ」
 むう、と小さく唸るジョナサンを無視するようにディオが石台へ戻って行く。彼は先ほどの発言の通りに僕を人間にするという願いだけは聞かないようだ。
「僕ら稲荷狐は信仰心だけではなく主がいないと存在できないんだ。ちなみに僕とディオが仕える主はここの神社の神様。主がいることで僕らは主を守る役目ができ、存在する理由ができる」
「それは、つまりどういう?」
「稲荷狐になったら早く仕える主を見つけなけないと徐々に力が衰えて、最終的に消滅してしまうんだ」
 有能なお稲荷さまになるのはとても簡単で、変化の術も使えるのに何故渋い顔をしていたと思ったらやはりそれなりの代償があるのか。
「稲荷狐に限った話ではないけど、神様というのは誰かに認知されてその存在を維持でき、力も発揮できる。だから君のお供えは僕らにとって大事になった。逆にいえば誰からも必要とされず認知もされなければ消滅となる、ということ。力が衰えるのはゆっくりだし、仕える主を見つけるのはすぐじゃなくてもいい。でもいずれ見つけ出さないと消滅してしまうリスクがある。それでもいいなら、君は人間になれる」
 どうする? 窺うジョナサンの瞳は若草色をしていて、似た色を持つヒトデ喰いを彷彿させる。ああ、でもヒトデ喰いは同じ緑でも何か違ったような……もっと水のような深さがあった気がする。あの眼差しは最初こそただただ恐ろしかったけど、何度か会う内にその深さには慈愛の念があると知った。
 それは控えめながら僕を惹き付けて、不思議な高揚を覚えたものだ。あの高揚は一体何なのかわからない。でも決して悪いものではなく、僕はその時の心情を思い出しては小さく息をついた。
「僕は、人間になりたいです」
「手段はひとつだけ、だよ?」
「承知してます」
「稲荷狐になるんだね」
「……はい」
 僕がどうなっても悲しむ者はいないし、僕もいつ何がある身かわからない。命あってのなんとやとよく思ったが、ただどうなるか分からない未来に向けて生き長らえるのもどうかと思えた。
 それならば望むままに生きてみてもいいんじゃあないか?
「君は幼いけれど、考えあって行動できる子だと思ってる。だからどのような結末になろうとも受け入れる覚悟もあると思っている」
 ジョナサンは言いながら突然自身の前肢に噛みついた。途端に噛みついたところから血が滲んでくる。
「ジョナサンっ」
「一滴でいい、僕の血を舐めるんだ」
 そうか、血を受けることで僕は稲荷狐になれるのか。
 慌てて血の滲む脚を舐めると、当たり前ながらその味が口内に広がって……
「……っ、…?」
 急に脚が震え、力が入らずに地に伏す。力が出ないことに疑問を抱く間もなく喉が焼けるように熱くなり、火花が散ったように目がちかちかする。そんな僕に傍にいたジョナサンが何か言っていたけど、荒くなってきた自身の息遣いで聞き取れない。
 一滴で効果があると言っていたけど、これは大丈夫なのか? そんな不安を覚える体の異常に歯を食いしばって耐えた。
「……落ち着いてきたかい?」
 暫くして苦痛が軽減してきた頃、ようやくジョナサンの声を聞き取ることができた。
「はい」
「時間が経てば体の辛さもなくなる、もう少し辛抱してね」
 ジョナサンの大きな尻尾が僕の背中を撫でてくれて、幾分か気分が楽になったような気がする。その動きに合わせて深呼吸を繰り返していると彼の言った通りに体の熱が引いて震えも収まってきた。
 体を起こせば苦しかったことなどなかったかのように身が軽くて、思わずジョナサンを見上げると彼はにこりと笑って僕の尻尾に触れた。自然と触れられた尻尾に視線が移り、そこにあったものに声をあげてしまった。
「尻尾が、ひとつ増えてる」
「これが稲荷狐の証。君は無事に稲荷狐になれたよ」
 尻尾を意識してみれば二本あるそれはふわりと揺れる。それでも俄に信じられなくて鼻先で触れてみると、尻尾に僕の鼻が触れる感覚があった。これ、僕の体の一部なのか。
「これで人間になれるんですか?」
「うん。なりたいものを頭の中に意識して、自分はこれになるんだと強く念じていれば変化できるよ」
 変化するとはそんな簡単なのか。とりあえず僕は言われた通りに人間の輪郭を想像しつつ、願掛けするように目を瞑って念じる。すると急に肌寒くなり、寒さと違和感に僕は目を開けると僕を見上げるジョナサンと目が合った。
「ジョナサン、小さくなってませんか?」
「君が大きくなったんだよ! ちゃんと人間に変化できてる、初めてなのにすごいじゃあないか!」
「人間に?」
 前肢を確認しようとすると人間の手が視界に飛び込んでくる。意識してみるとその手は思うままに動いて、僕はついに自身の頬に触れた。
 触れている触れられている感触があるのに、いつも体に纏っている体毛の感触はない。顔に毛がない。いや、顔だけではない。自分の体を確認すれば頭部と陰部を除いた全身に毛がなかった。
「人間になれたんですね!」
「ああ。人間になった感想はどうだい?」
「かなり、寒いです」
 寒さのあまり剥き出しの肌が鳥肌立つ。なるほど、人間は体毛が極端に少ないから衣服を着るんだな。しかし寒い。どうしたものか。
 寒いのを誤魔化すよう自身の体を抱き締めるようにして腕を擦っていると、どこからともなく大きな布が投げられた。
「これは……」
「人間に化けるならば洋服込みではないと変人扱いされるぞ」
 先ほど離れていったディオが再びジョナサンの隣に現れる。
「そいつは松の葉でこさえた『学生服』というやつだ。人間にするのは御免だが、全く借りを返さないままも気分が悪いのでね。そいつをやろう」
「やっぱりディオは優しいね」
「優しいんじゃあない。俺は律儀なのだよジョジョ」
 ジョナサンに唸るディオと相変わらずにこにこと笑っているジョナサンを傍目に、濃い松の葉色をした学生服という衣服に袖を通す。厚手の生地は冷たい空気を遮断し、これならば冷えかけた体もすぐに暖かくなりそうだ。
 二匹に聞きながら学生服を着込めば、人間の僕にあつらえたように大きさがぴったりだった。
「ありがとうございます。ジョナサン、ディオ」
「ふん。そういえば子狐、お前には名前はないのか」
「そうそう名前!名前がないと不便だし、それは人間になるならなおさら必要を覚えるよ」
「名前は、ありません」
 基本、単独で生活する僕ら狐には名前の必要性がない。僕には兄弟はなく、母しかいなかったから尚更だけど、僕に限らず個を区別する名前を持つ狐はいなかったように思う。
「困ったな」
「そんなに重要なんですか?」
「うん。人間は産まれて間もなく名前を授かる。だから名乗る名前がないと人間に怪しまれてしまうよ」
「そんな……でも名前なんてすぐに思いつかないし……」
 名前の必要性を感じなかっただけに思いつく名前が全くない。だが名前というものは個を表すもの、あまり変なものでは良くないはず。
 でも、いい名前、とは?
「カキョーイン・テンメイ」
「か?」
「カキョーイン・テンメイという名前はどうだ子狐」
 どうにか捻り出そうと考えていたところ、ディオがある名前を口にした。カキョーイン、テンメイ? なんだか長くて大層な名前に思うけど、ディオの趣味なんだろうか。
「花京院典明って先々代の地主さんの名前じゃあないか」
「ああ。俺が敬意を払う数少ない人間でもある。奴の名前ならば験担ぎにもなるだろう」
「彼はこの神社を修復してくれたりといい人間だったからねえ……僕もいい名前だと思うんだけど、どうかな?」
 二匹に薦められて、そして人間の名前の良し悪しがわからない僕がその「カキョーイン・テンメイ」という名前を拒否する理由はない。それにいい人間だったと言われる人物の名前をいただけるのだ。
「僕もいい名前だと思います」
 どう良いのかと言われたら名前に込められた意味はわからないけど、僕がそう返せば二匹の顔に好気の色を感じた。
 そうして名前が決定した後、学生服を着ているなら鞄や革靴があればいいとディオが松の皮で学生鞄、先ほどお供えした鼠の皮で靴を作ってくれた。器用だなディオって。僕も練習したら作れるようになるのだろうか。
「僕からも……はい、これ」
「ほう。ジョジョにしては考えたな」
 ジョナサンは肉厚な椿の葉で作った小さな紙をくれた。それは紙にしては容易に折れ曲がりにくい固さがあって、紙面には文字と人間の顔が描かれていた
「この人間は誰ですか?」
「ああ、鏡がないからまだ見てないのか……これは人間の君だよ花京院」
「これ、僕なんですか」
 紙面の人間をまじまじと見つめる。その人間は元の僕と同じ朱色の頭髪を持ち、つり目気味の瞳は雀の体毛のような柔らかな茶をしていた。口は大きめで、我ながらなかなかの男前に化けたものだ。
「この厚紙は『身分証明書』というものでね。人間に正体を怪しまれたらこれを見せれば、花京院の身分を保証してくれる」
「そんなものがあるんですね。この文字はなんて書いてるんですか?」
「『ぶどうヶ丘高校普通科 花京院典明』と書いているよ。ぶどうヶ丘高校とはこの神社の最寄りの学校。君が化けた姿が高校生っぽいから勝手につくってしまったけど……どうだい?」
 どうだい?と問われたけどコーコーセーもよくわからない僕としては、この紙面には書かれているものが僕らしいとジョナサンが思うのならそれがいいと思う。人間についての知識が乏しい僕が人間としての設定を考えろ、と言われたって名前同様にぱっと思いつかないだけに助かるくらいだ。
 それで……ええと……?
「僕は、その、どこの誰、でしたっけ」
「やれやれ……子狐、貴様はこれからぶどうヶ丘高校に通っているカキョーイン・テンメイという人間になるのだ。しっかり覚えてないと墓穴を掘るぞ」
「は、はい」
 上手く答えられなくてヒトデ喰いに警戒されるのは嫌だから、それは気を付けないと。ぶどうヶ丘高校のカキョーイン・テンメイ…僕の名前は花京院、典明……。


「今回は本当にありがとうございました。このご恩はどう返せば良いか……」
「いいよいいよっ お供えのお礼として僕らからしたことなんだから」
「だが、どうしても恩を返したいと言うなら、これからも変わらず魚を献上しても良いのだぞ花京院」
「全くディオは…そういうのは気持ちだけで十分だから気にしないでね」
 それはすなわち、魚をお供えすれば喜ばれるに違いない。これからも変わらずお供えしておこう。
 そうなるとこれからは頑張って狩りを行わないと……今までの魚はヒトデ喰いからもらっていたけど、これから会えたとしても魚は貰えない。しかし魚は僕だけでは厳しいから鳥でもいいかな。神社の下にある公園でならば鳩がいるし、こちらの技量さえあれば捕まえられる。
「最後に花京院、片手を出せ」
「手、ですか」
 脈絡なくなんだろうと思いながら言われた通りに手を出すとディオが尻尾から何かを取り出した。あれは、先の尖った石だろうか?いや、石というより、刃物にも似ているような……?
 何なのか窺っているとディオはその尖った先を僕に向けて突っ込んできた。反射的に手を前に出して顔を防御すると、手のひらに痛みが走る。
「痛っ!いきなり何をするんですかっ」
「衣服だけでは物足りないと思ってな。どうか導きがあるように、花京院」
 そう言い残すとディオはひらりとひとっ飛びして石台へ乗ると、元のお稲荷さまの石像になってしまった。
 傷つけられることで導きがある? お稲荷さまのおまじないだろうか。
「大丈夫かい花京院」
「大して痛くないし、かすった程度のようなんで大丈夫で……、」
 言いながら手を差し出してみると、負傷したと思っていた手には傷ひとつなくて反対の手も見てみる。しかし両手ともつるりとした毛も怪我もなくて僕は疑問に首を傾げた。
 僕と同様に一連の流れを見ていたジョナサンは僕の両手を確認した後、口を開いた。
「……もしかしたら近い日に、見知らぬ存在が君の傍に現れる」
「僕の、傍にですか?」
「驚くだろうけどそれは悪い存在じゃあない。でももし、それが現れて困ったことがあったらもう一度、僕かディオに声を掛けるんだよ」
 いいね?
 ジョナサンの言う存在が少し恐ろしくあったけど、僕を見上げる彼の瞳は優しくて。僕は不安を口にはできずにひとつ頷いた。


   ◆◆◆

「きょう、きつねくるかな」
 調査用のヒトデと一緒にかかった魚を見つめながら、ぽつりと徐倫が呟いた。その言葉は昨日に俺が触りすぎて狐が逃げてしまったことからくるとわかるだけに、徐倫の呟きに返す言葉がない。野生種ならもう来ない可能性が高いができることなら今日も変わらず来てほしくもあり、俺は横目で陸を眺めた。
 しかし、そこには小さな朱色の毛玉はいない。
 今日はいい魚が紛れてるんだ。来なければ損するぞ、早く来なければ海へ放るかカモメにやるぞ。
 ヒトデと魚を分別しながら、白く丸い腹を持つ一匹の魚をバケツに放る。あの腹ならば脂がのってうまそうだ。もし狐が来たならばこいつをやろう。
 不意に、船上に集まっていたカモメが一斉に空高く飛んで行く。この光景はあの狐が来ると必ず見る。やれやれ、どうやら俺の杞憂であったか。
 俺が視線を上げると同時に徐倫が船の端まで走ってゆき、そこでぴたりと止まってしまった。
「徐倫?」
 いつもならば躊躇なく船から飛び降りる彼女に不思議に思いながらその小さな背中に向かって行くと、その向こうに見えた者に俺の歩みも止まってしまった。
 てっきりいつもの朱色の狐かと思っていたが、陸にいたのは一人の青年だった。明るい朱色に近い赤毛の髪は前髪が一房だけ長い少々変わった髪形をしており、毛色に対比するような濃い緑色の学生服を纏っていた。見た感想としてはどこかの高校生のようだが今は平日の午前中、何の用でこんなこんな場所に来たのだろうか。
 それとも不審者か?
「こんにちは、魚を獲ってるんですか?」
 そんな俺の警戒の念に気付いてないのか、学生は微笑を浮かべながらそう声をかけてきた。
「そうだが、何か用かな。見知らぬ顔だ」
「あ、その、特に用はないんですが、珍しいと思って」
 学生の言葉に、そういえば確かにそうかもしれないと思う。漁をするにはあまりに明るい時間で、船に乗っているのは俺と徐倫の二人しかいない。父子だからクルージング、と解釈するにもこの港は観光要素は一切ない静かな場所だけに学生の目を惹いてしまったのかもしれない。
「私はここで海洋生物の調査をしている」
「かいよう……魚のことですか?」
「ああ。そして厳密に言うと私は魚ではなくヒトデを捕獲し、研究材料としている」
「はあ、」
 学生はいまいち話がわからないという顔をしつつ、それでも自分は理解していると示すように首を傾げた。今時の高校生には海洋生物調査と説明してもよくわからないのだろうか。俺も高校時は海洋学など知りもしなかったから、もしかしたらそうなのかもしれない。
「あの、あの、ちょうさ、頑張ってください!」
 わからないなら少し説明してやった方がいいのか。なんて考えていると学生はそう言いながら手を大きく振って踵を返す。そしてこちらに振り返ることなく、あっという間に貨物船倉庫の方へ走り去ってしまった。
「あのおにいちゃん、ダディのしってるひと?」
「いや、知らないが……」
 気になったから声を掛けてきて、調査をしているとわかったから激励の言葉を述べて去っていった。別にそうおかしい流れではない。あの学生は見覚えもなく初対面だから、尚更であるだろう。
 しかし走る足取りに合わせて靡いたあの長い前髪はどこかで見たようなデジャヴを覚えて、俺は言葉尻を濁して黙ってしまった。
「あれ、」
 俺と同様に黙っていた徐倫が陸を見下ろして、そして船から降りて行く。
「どうしたんだ」
「なんかおちてる」
 彼女が降りた場所のすぐ近くに、日を反射してきらりと輝くものが見えた。それはカードのようだが、こちらからではそれに何が書いてるのかよくわからない。徐倫はそれを拾い上げて、こちらに掲げて見せてくれた。
「さっきのおにいちゃんのおとしものみたい」
 カードには先ほどここにいた学生の顔写真が貼られており、船から降りて近くで確認すればそれはぶどうヶ丘高校の学生証だと知れた。
 ぶどうヶ丘高校普通科二年、花京院典明……仗助と同じ高校の生徒か。
「なんてかいてるの?」
「ぶどうがおかこうこうにねん、かきょういん、のりあき。だな」
「ぶどうのこうこうってじょうすけとおんなじだ! もしかしてじょうすけのおともだちだからここにきたのかな?」
 そいつは考えにくい。第一に仗助と先程の花京院という奴は学年が違う上に、普段仗助は他学年の話を滅多にしない。するとしたらスタンド使い関連くらいだ。ならば逆も然りで、他学年の者には俺の話をした可能性はかなり低いだろう。それに加え、あの学生、花京院の様子だ。もし仗助経由で俺たちの事を知ったなら、仗助の名前を出せばこちらへ話しかけやすいだろうにそれをしなかった。
 何があったわけではないがなんとなく引っかかる学生だな。
「ねえダディ、これなくしたらこまるかな」
「多少は、困るだろうな」
 免許証や保健証ではないだけそこまで悪用されないだろうが、学生は学生なりに身分を証明しなければならない時はあるはずだ。だが幸いにもぶどうヶ丘高校ならば仗助という知り合いがいる。こいつを仗助に託せばすぐに花京院という学生の手に戻るだろう。
 ならば、昼の調査が終わったら東方家に寄るか。そう計画を立てていると、学生証を持っていた徐倫が貨物船倉庫に向けて走り出した。
「じょりーん、そのカキョーインっておにいちゃんにこれ、とどけてくる!」
「待つんだ、それは俺が後で、」
 仗助のところへ持っていくから。と言ってる間にも徐倫の足は止まらず、小さな体は倉庫の間へするりと入ってゆくので俺は慌ててその背中を追う事にした。

   ◆◆◆

 ああ、どうしよう! 変に思われてるかもしれない。
 貨物船倉庫の奥に走り込んだ僕は膝を抱えるようにしゃがみこむ。そしてつい先ほど会ったヒトデ喰いの親子の様子を思い出しては大きな溜息が出てしまった。
 狐ではない僕なら彼らに会える。それだけが先行してきっかけなど考えずに船の近くまで行ってしまったけど、いくら同じ人間だからといって初対面で脈絡なく声をかけたら警戒される可能性がある。狐同士だって、初対面でいきなり近付いてきたら驚くんだ、流石に人間だって同じだろう。そしてあの親子は船から降りようともしなかった。ちょっと変な奴認識くらいだったらいいけど、要注意人物と判断されていたらどうしよう。それだと次は猫にでも化けないといけないのかな。折角ディオには衣服を、ジョナサンには身分証明書を作ってもらったというのに早々にお役がなくなってしまったのか。
 再び大きな溜息が出て、僕は膝に顔を埋めた。こんなことなら一日計画を練ってから彼らに会うべきだった。僕はヒトデ喰いを知ってるけど、彼らは人間の僕を知らないのだ。知らないからこそ再び対面できるのだが、知らないからこそ関わるきっかけが必要になるっていうのに。
「はああ……」
 溜息が絶えない。後悔先立たず、それは昨日のヒトデ喰いとの触れ合いで痛感したはずなのに全く学習してなかった自身を恨みたくなる。明日こそはちゃんとしないと。それには今から計画を立てないと。一応今日は不審気味ながらも挨拶はできたから、そこから話を繋げるか。いや、それとも全く別の話をしてみようかな。そういえばヒトデ喰いの言う『ちょうさ』とは何だろう? それを問うのもいいかもしれないな。
「……ん?」
 小さな音が聞こえたような気がして、顔を上げて耳を澄ませる。人間の耳は立てられない分、狐の耳に比べると音の収集が良くないが、それでも微かに聞こえる音はどうやら何かの足音らしい。倉庫だし……住み着いてる鼠や猫か? それにしては小動物にしては少し重い足音のようだし、なんだか地面を蹴る足音の少なさに違和感を覚える。これは何か、違うな。でも何の足音だ?
 全く正体の見当がつかない足音は少しずつこちらへ近付いてくる。足音の様子だと小動物より重いけど、かといって鹿ほどの大きさでもなさそうだな。
用心して立ち上がると、僕は出入り口の傍に素早く移動して外を確認する。人間は体は大きくて力もあるけど、二足歩行なため瞬発力が良くないのがネックだ。足音の主の匂いがわかれば動きやすいんだけど、倉庫の中は色んな匂いが混じっていてよくわからない。
 いっそのこと一時的に狐に戻って、さっさと退散してしまおうか。未だ不慣れな人間の姿で悪戦苦闘する羽目になるよりずっといい。
 そうとなれば早速戻ろう。変化を解こうと意識しようとして、視界の端に見えたものに意識が引き寄せられる。その見えたものをようく見れば、それはなんとヒトデ喰いの子供だった。
 なんでまたこんな場所に来たんだ? 不思議に思っていると、その小さな手には僕が持っていたはずの身分証明書があった。あれは確か、ズボンのポケットに入れたはずなのに。しかし探ってみてもポケットからは身分証明書は出てこなかった。もしかして先ほど港で落としてしまったのか? 初日にしてそんな失態までやってしまったのか、これは計画性以前の問題だな。
 反省の連続に項垂れていると、ヒトデ喰いの子供の足音が止まった。隠れているつもりはなかったからこちらに気付いたかな。
 しかし顔を上げて子供を窺えば、僕の方とは全く別の方向を向いており、疑問に僕も子供が見つめる先へ視線を向けた。
「あっ」
 その先にいた存在に、つい声を上げてしまう。それは僕の声に小さな耳を動かしながらも子供をじっと見つめた。
 あれは、狸にとても似ているけど違うな。狸にしては明るい毛色をしているし、薄暗い倉庫の中でもわかるほどの鋭い爪を持つ奴は狸なんかじゃあない。あれは狸によく似ている『あらいぐま』という外からきた動物だ。僕は実物を見るのは初めてだけど、母親からは何度か話を聞いた。あらいぐまは高い順応性により、数年でその数を一気に増やした種族だという。そして狸に見目似ているが、狸とは比べられないくらい気性が荒く、あらいぐまに出会ってしまったら関わることなく逃げるようにと言われたくらいだ。
 そんなあらいぐまがヒトデ喰いの子供の傍へ寄っていく。子供は子供であらいぐまの危険性を知らないのか、近付いてくるのをじっと見つめるばかりで逃げようとしない。熊のような歩き方をする脚先には変わらず剥き出しの爪が見えて、きっとあんな爪に引っ掻かれたら人間であろうともひとたまりもないと知れた。きっと、あの子供の柔らかそうな皮膚なんて、簡単に裂けてしまう。
 その光景を想像してしまう前に、僕の足は子供とあらいぐまへと歩んでしまった。向けられる二対の瞳に、思わず唾を飲み込む。ここで僕に注視してる間に子供が逃げればいい。
 すると途端にあらいぐまの移動速度が速くなり、僕などいないが如く子供に飛び掛かっていった。
「危ない!」
 咄嗟に僕も子供に向かって飛び掛かる。体が大きい分踏み込みも大きくて、手を伸ばせばすぐに子供は僕の腕の中に収まった。飛び掛かった勢いで子供を抱えながら床へ転がる。
「おにいちゃん?」
「君、あらいぐまは危ないんだぞ!」
「あれたぬきさんじゃあないの?」
「違うよ!」
「えーっ」
 緊張感がない声に思わず溜め息をついた。
 人間の子供は警戒心がなさすぎるし、知識も乏しすぎる。狸だって、あらいぐまに比べたら穏やかだし子供に対しても優しい傾向があるけど、全く手出ししてこないわけじゃあないのに。
 あらいぐまの方を見れば、一匹しかいないと思っていた奴が奥からまた何匹も出てきた。鼻が利かないだけに数がわからない……しかも、こちらを襲う気満々だ。僕と子供だけなら勝てると判断したのか? 相手の数が六匹か、あの数なら勝率の方が高いかもしれない。
 全く舐められたものだけど……逃げ切れるか自信はない。人間は狐に比べて体がでかいだけに小回りが利かない。今いる倉庫では不利な要素ばかりだ。
 でもなんで敢えて狙うんだ? あらいぐまは雑食だけど流石に人間は食べないだろうに。考えている間にもあらいぐまは距離を詰めてくる。小回りが利かないのもあるが、子供を抱えている状況はなおのこと不利にさせる。様子を窺いながら後退りし、倉庫の出入り口へと向かう。襲ってこないよう、出来るだけ刺激しないようにしないと。
狭い倉庫の出入り口はそう距離もなく、すぐに近くまで行くことができた。あと数歩下がって、片足が出ればどうにか逃げられるはずだ。
「何してるんだ」
「っ!」
 あらいぐまに集中していたところに背後から声をかけられて驚きに歩みが止まる。それはこれまでこちらににじり寄ってきたあらいぐまも同様だったのか、あっという間に奥へ引っ込んで行った。
「ダディ!」
「だでぃ?」
 腕の中の子供が背後へ手を伸ばしたので釣られて振り返れば、そこにはあのヒトデ喰いが僕を見下ろしていた。更なる驚きに固まっていると子供がするりと地へ降りて行き、ヒトデ喰いの元へ駆け寄って行った。
「ダディくるのおそいよ」
「すまない。いくつも倉庫があるんだ、特定するのに時間がかかったんだ」
「じょりーんはばっちりみっけたよ?」
 そして子供が僕を指差し、ヒトデ喰いも僕を見つめてくるので自然と背筋が伸びてしまった。
「……どうも」
「先ほど振りだな。徐倫、彼に学生証を渡したか」
「まだだった! おにいちゃん、わすれものあったんだよ」
 再び僕の傍へ来ると子供は手に持っていた僕の身分証明書を渡してきた。
「もしかして、届けに来てくれたのかい?」
「だってこれってだいじなんでしょ? ないとこまっちゃうじゃん!」
 一向に受け取らない僕の手を取って、子供は身分証明書を押し付ける。撫でられている時も思ったことがあったけど、毛もないのに柔らかい手だな。あらいぐまなんかに引っ掻かれたらどうなっていたことやら。
「ありがとう……その、」
「じょりーんはね、くーじょじょりーんっていうの!」
「じょりーん…ありがとう、徐倫。僕は花京院、」
 ……あれ…花京院、なんだったかな。覚えるようにと言われたけどジョナサンやディオは専ら僕を『花京院』と呼んでいたから。ええと、なんだっけ。
「かきょーいんのりあきでしょ? ダディにおしえてもらったよ」
「そうそう。僕は花京院典明というんだ」
 良かった。僕とは違い、ヒトデ喰いはちゃんとした人間だから身分証明書に書かれている僕の情報が読めるのか。僕の名前はかきょーいん、のりあき。今度こそ覚えておかないと。
「用は済んだ、戻るぞ」
「はあい。かきょーいんのおにいちゃん、こんどおとしてもじょりーんみつけられないかもだからおとさないようしないとダメだよ!」
「ああ、気をつけるよ」
 出入り口に立つヒトデ喰いの隣に子供……徐倫が並べば、彼女の小ささが際立つ。きっとその小ささに見合った力しかないだろうに、先ほどの場面で一人きりだったらどうなっただろう。
「……あの、戻る前にいいですか」
「なんだ」
「先ほど、アライグマが徐倫に近付いてました。アライグマは小動物を襲う危険な奴なのに、襲われたらどうするつもりだったんですか」
 思い出せば今回に限らずカモメの一件だってそうだ。あれだってヒトデ喰いほど大きな人間が傍にいれば小さな徐倫を襲うこともなかったはずだ。ちょうさ、というものをしているようだが小さな我が子を守るのが親の役目。そしていつも徐倫を慈しみ込めて見つめるくらいだから、もしも彼女が傷付けばヒトデ喰いも嫌だろうに。
「その……身分証明書を届けてもらって助かりましたが、ひとりで行動させない方がいいですよ」
 ひとりで行動させた結果として徐倫に何かあったなら親として無責任だ。そんな気持ちを込めて睨み付ければ、ヒトデ喰いの眉毛が小さく跳ねた。怒ったかな。でも徐倫を想うような眼差しを向ける彼に好気を覚える僕は許せなかった。
「肝に銘じておこう」
「僕が言いたいのはそれだけです」
 許せないとはいえ、大それたことをしてしまった。言った直後に後悔の念が押し寄せてきて、居たたまれなくなった僕は出入り口へ向かう。
帰ったら今度は猫に化ける練習をしよう。こんな口を利いた手前、もう人間としても会えない。
 ならば早く去ろう。と歩みを早めヒトデ喰いの横をすり抜けようとすると、腕を掴まれてしまった。それはがっしりしたヒトデ喰いの手で、少し引いたところでびくともしなかった。
「なんですか」
 そこまで怒らせたか? でも親として怒られたって仕方ない、と思ってくれ。
「先ほど徐倫を抱えていたが、君が徐倫をアライグマから守ってくれたのだろうか」
「まあ。僕はあの、近くにいましたから」
「そうか」
 目の前で襲われそうになっているのを見てるだけなんて気分悪いだけだし成り行きだ。まさかそれすらも気に食わなかっただろうか。
「それが何か?」
「ありがとう、私に代わって娘を守ってくれて」
 そう一言。腕を解放した大きな手は僕の頭を撫でた。くしゃっと乱れる髪など全く気になれなくてヒトデ喰いの顔を見上げれば、彼は目を細めてこちらを見下ろしていた。それはほんの少しだけ徐倫を見つめているあの視線に似ているように思えてしまい、僕は毛が逆立つような錯覚を覚えた。
「どう、いたしまして……」
 それでも、そんな感覚は嫌悪からくるものには思えなくて僕は大人しく頭を撫でられるしかなかった。
 それから僕はぎこちないながらヒトデ喰いの父娘と会話を交えて別れた。その会話で僕は狐ではまず知り得なかったことをいくつか教えてもらった。
 たとえば、ヒトデ喰いはヒトデを食するためにヒトデを獲っているのではなく、ヒトデを調べるために捕獲していたとか。この地域には調査するために訪れているだけで、本当の住まいはずっと遠くにあるだとか。小さい徐倫は実は僕よりずっと年上の六歳だったとか。ヒトデ喰いの名前は『空条承太郎』だということ。
 これまでヒトデ喰いと呼んでいたのはあくまでも僕や母が使っていた通称であり、人間だから本来の名前もあるのは当たり前だけど不思議な感覚だなあ。くうじょう、じょうたろう。承太郎か。
「花京院は、」
「?」
「花京院は何か用で港に訪れたのか?」
 承太郎の船に戻る途中、ヒトデ喰いもとい承太郎がそう訊ねてきた。ぎくり、と気まずさに一瞬だけ歩みが止まったのを承太郎や徐倫に気づかれてはいないでほしい。
 まさか二人に会いに来ました、なんて言えるわけないじゃあないか。
「普段からあまり人を見かけなくて、珍しく思ってな」
「そうなんですか……」
 確かに僕もほとんど見かけたことなかったし、ごもっともな質問なのかもしれない。しかしそんな質問なんてされるとは考えてなかった僕は勿論答えなんて考えてなかった。だからといって素直にあなたたちに会いに来ましたなんて言えるわけないし、どうするか…ここに来た、理由とは。
「……その…魚を探しに来たんです。」
「魚?」
「はい。あの…僕の恩人が魚を贈るとひどく喜んでくれて、その、また贈りたくて」
 港に来れば魚が貰えて、それをジョナサンとディオにお供えすればお礼をされるほど喜ばれた。だから変わらずお供えを続けようと思っていた。本来の理由ではなかったがそれは嘘ではない。
「魚は魚屋に行った方がいいものがあると思うんだが」
「さかなや?」
「まあいい。魚は希望の種類はあるか?」
「特には。ただ、立派なものならなんでも喜びます」
「それなら……ちょっと待ってろ」
 承太郎は船へ小走りに掛けてゆく。そして船上からバケツを取り出し、こちらへすぐに戻ってきた。あれは、狐の僕が訪れた時に必ず持っているバケツだ。そしていつもそこから魚を取り出して、それを僕にくれるのだ。
 もし記憶した通り、あのバケツがいつものバケツなら魚が入ってるはずだ。
「魚が要るならこいつをやろう。二匹で十分か?」
 言いながら承太郎がバケツの中を見せてくれ、そこには大きめの魚が二匹。しかも何の種類かわからないが、結構上等な魚だと知れた。
「これは?」
「ヒトデに紛れていたやつだ。良ければやろう」
「いいんですか?」
「どうせ逃がすか廃棄だ。何か魚を入れるものはあるか」
「この鞄なら」
「学生鞄に魚をそのまま入れるつもりか?」
「……?」
 俄かに驚きの表情を見せた承太郎に思わず首を傾げる。鞄って物を収納して持ち運ぶものなんだろうに、それともこの薄い鞄では入りきらないかな。
「まあいい、別に袋をやるからそれに入れて持っていけ」
「ありがとうございます」
「徐倫、操縦席の下に何枚かビニール袋がある。その中で大きめのものを持ってきてくれないか」
「でも、ダディそれって……」
「あいつの分はこれから収集する分から寄せる」
「じゃあだいじょぶだね、わかった!」
 ぴょんと身軽に船へ乗り込む背中を見送りながら、やりとりに引っかかる点があるのに気付く。
「あの『あいつ』とは? 先約があるならそちらを優先してください」
「先約も何も私が勝手に用意しているものだ。約束があって寄せているものではないし、君さえそれでいいなら構いはしないんだが」
「良いも悪いも、貰えるだけで十分です」
 こうして二人に会えるのはジョナサンとディオのお陰だから、これからのお供えはどうしようか考えていただけに助かる。人間だから魚は貰えないと覚悟をしていたけど、これはこれでいただけるなら遠慮はしない。
「はい、ふくろもってきたよダディ!」
「ありがとう徐倫。寄せてからそう時間は経ってないが、生ものだからできるだけ早く渡すように。」
「はい、ありがとうございます」
 これが人間の僕とヒトデ喰いの親子改め承太郎、徐倫親子の初対面となった。

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2023.12.11 06:40