memo

スターフィッシュイーターvsシップフォックス 1

※こちらは過去に出した承花同人誌の再録になります。
メインキャラとなる花京院始め一部のキャラが狐であったり、その他原作とは設定がところどころ違うパラレルです。




 僕ら狐というものは産まれて一年は母親と共に生活する。そうして生後半年ほど迎えてから一人立ちに向けて、狩りについて教わる。僕も他の狐と同様、二月前の秋口から母に狩りを教わっていた。
 しかしそれから一月後、すなわち今から一月前に母は怪我を悪化させて他界してしまった。しかし僕は泣くに泣けなかった。それは母と死に別れる形で一人立ちすることになったからだ。ちなみに僕ら狐の父親は子が乳離れするまでしか子育てを手伝ってくれず、幾分か子供が大きくなった頃には離れていってしまうために父はいないのと同然だった。
 そうして強制的に一人立ちした僕は狩りの腕はまだまだ未熟で、それでもなんとか食い繋いでいるところに訪れたのは『冬』の季節だった。
 これには参った。木の実も秋の残りしかないし、雪が降れば小動物も極力巣から出てこないために僕は木の皮を剥がして食べている日が続いていた。
そんな中、僕は母が話してくれたある人間の話を思い出していた。

「冬場、食べるものに困ったら真っ白な服を着た人間『ヒトデ喰い』を探しなさい」

 今年の秋口に怪我を悪化させて亡くなった母は狩りを教えられない代わりに、これからの生活に役立つだろう話を教えてくれた。その中の一つに『ヒトデ喰い』と呼ばれる人間の話があった。そのヒトデ喰いという人間は毎年冬になるとこの近郊の海岸へヒトデを獲りに現れ、そいつに会えばたんまりと大きな魚を貰えるという。しかし漁師とは違い、海へ出る時間は定まっていない上に日に何度も船を出すこともあれば数日海岸すら近付かないこともあって出会うのが難しいらしい。
「でも、冬の魚かあ……」
 木の皮を食みながら呟けば、その味気なさに耳がへたりと下がる。食べ物が少なくなる冬の時期、脂の乗った魚を想像するだけで涎が垂れそうだ。
 だが母の話ではそのヒトデ喰いとは熊のような大きな体で、この世の生き物ではないような色の瞳を持つという。そう話を聞かされてしまうと、やはり少々恐ろしくあってなかなか探す気が起きない。
 その人間が『ヒトデ喰い』と呼ばれている理由は、魚は捨てるか逃がすかして一切口をつけず、ヒトデばかり巣に持ち帰るかららしい。ヒトデは硬いけど、そんなものを好んで食べるからには、その…狐も食べるんじゃあないだろうか、なんて思えて、尚のこと探したくないのだ。
 魚は食べたいけど、なんでも命あっての楽しみがあるものだ。無理に探すことはない。
いざとなれば山の展望台までの道のりで待機すればいい。あそこは競争率が高いけど展望台を利用する人間が食べ物をくれる場合がある。それにまだ雪深くなってないから獲物も全く獲れないわけじゃないし……。
 なんて、要は兎に角ヒトデ喰いに出会うような状況になりたくないだけだ。臆病者だって言われたって構わない、一時の欲求を満たすために危険を侵したくないからね。
 僕は木の皮を平らげると、口元をぺろりと舐める。味気無いし活力が出そうでもないけど腹だけは満たされる。
 そう、腹だけ。空腹は満たされた。
 しかし空腹以外は満たされてないに等しく、僕は再度口の回りを舐めた。鼠を食べれば脂がこびりつき、果実を食べれば酸味ある果汁で湿る口元すら味気無い。
 ……食べるなら、旨いものがいい。
 そう思えるくらいには最近の食事は味気無いもののオンパレードで、僕は港へと足を向ける。言っておくが先ほどのヒトデ喰いを探しに行くわけではない。海藻を探しに行くのだ。
時折港には高波で打ち上げられたり漁師が捨てた海藻が落ちている。正直美味しいものとはいえないけど、木の皮と違って仄かに塩気があって幾分か好ましい。
こういう時、自分が雑食であって良かったと思う。草食が海藻を食べたら塩気が強くて腹を壊すというし、肉食は内臓が海藻を上手く処理できなくてこれまた腹を壊すという。雑食であるからこそ僕は海藻である程度の欲が満たせるのだ、と前向きに考えながら鼻を動かす。うーん……海は美味しいものの宝庫だけど潮風のせいで匂いがよくわからない。それはネックなんだよなあ。
 そんなことを思っている内に港へと辿り着き、まずは朝方に漁船が停まっている辺りを確認する。運が良ければ海藻に紛れて小魚が絡まっていることもあるようだけど…それは高望みか。
 鼻を動かし潮風に紛れてるだろう海藻の匂いを探る。あれは青臭いのと違うけど、魚臭いわけでもなく、なんていうんだろうあの匂いは…。
 すんすんと匂いを探っていると微かにカモメの鳴き声が聴こえた。それは小さいながら複数のようで、僕の頭にある考えが過った。
 複数のカモメがいるなら、カモメの餌になるような魚があるんじゃあないか?
カモメがいるところには必ずと言っていいほど魚がある。亡くなった母もカモメが群がる漁船は大漁船だから、見かけたら行ってみなさいと言われたくらいだ。これは、漁船が出てるには遅い時間だけど大漁船が来てるかもしれない。
 そうなればカモメのいる場所へ急ごう。鼻に集中させていた意識を耳へ移し、音をよく拾おうと耳と上半身を立たせた。成る程、小さいと思ったけどあまり距離は離れてない、方向はここから南側か。
 目標はすぐさま定まり僕は地面を蹴りあげる。最近の侘しい食事のお陰で皮肉にも体は軽く、これならばカモメの下まですぐに着けるだろう。そう思うと足取りまで軽くなりそうだった。
「……あれは……」
 間もなく見えたカモメの大群。そして近付いていけば、その大群の下には一人の人間がいた。漁師、ではないな。僕が見てもあれは子供だとわかる小さな人間が何か容器を抱えて走っていた。
 なんでまたそんな子供にカモメが群がっているんだ、と疑問を抱きながら様子を窺うよう鼻を動かせば、潮風とは違う魚特有の匂いが子供から匂った。
人間が持ってる容器に魚が入ってるのか。そしてそれをカモメが狙っているということか。何故カモメが群がっているのかはわかったけど、人間とはいえ子供相手に多勢なんてどうかしてる。
 僕は子供を襲ってまで魚は欲しいとは思えずその場を退散しようと来た道を戻ろうとしたら、鳥とは違う悲鳴が上がった。振り返れば先ほどの子供が容器を下敷きに転んでおり、魚もその小さな体の下になっていた。
 あれ、やばいんじゃあないか? 先ほどまで走っていた対象物が止まったことでカモメの狙いは定まり、子供の下敷きになっている魚目掛けて鋭い嘴や爪を向けるだろう。一羽ならまだしもそれが一斉に襲ってきたら……と思うと僕の脚はカモメの大群へ駆けていった。
「きゃううんっ!」
 鳥はけたたましい声が苦手だって母が言っていた。だから出せる限りの大きく高い声を上げながら大群へ飛び掛かる。すると何羽かは怯んで空高く飛び立って行った。しかし驚きはしても離れないカモメが多く、僕は唸りながら毛を逆立てた。
 それでも鳥には狐の威嚇というものがいまいち通用しないのか全く引く様子はなくて、僕は近寄ってきたカモメを片っ端に引っ掻く。
 この野郎、これで仕留めたら食糧にしてやるからな!
 多勢のあまり自棄になりつつ、子供に向かっていこうとするカモメに爪を向ける。僕はまだ成熟してないが、爪も牙もしっかりしてるから当たったら痛いんだぞ。早く逃げないとその細い首を千切ってやる!
「ううううう」
 一羽の首に噛みついて骨ごと噛み砕いてやる。体の重さのためにぼたりと地に落ちた胴体に後ろにいた子供が小さく悲鳴をあげるのがわかった。そういえば人間の子供は一切狩りをしないと聞いた、怖がられたかな。
 まあいい。僕は幼い存在を多勢で攻めるのが気に入らなかっただけなんだから。
他のカモメに見せつけるように首を宙に放る。流石にこれにはカモメも危険を感じたのか、飛んだカモメの首が海へと落ちる頃には全てのカモメが去っていた。
「はあ、」
 同類が噛み殺されても向かってくるような無謀さがなくて良かった。ほっとしながら地に腰を落ち着けて、口元についていたカモメの血をぺろりと舐める。魚ばかり食べているせいか、山にいる小動物に比べると生臭くてぎとぎとしている。腹持ちは良さそうな反面、食べ続けたら腹が下りそうだな。
 とりあえず口元を綺麗にしたら先ほどの胴を持ち帰るか。経緯がいただけないが久々の肉は助かるしなにより嬉しい。
「痛っ……、?」
 前足で口回りを綺麗にしようとすると、痛みを覚えて足先が落ちる。どうしたんだと確認すれば、左の前足に大きな怪我を負っていた。見た目通りそれなりのものなのか、爪先から血が滴り落ちて小さな血溜まりができている。先ほどのカモメにやられてできたんだろうけど興奮して気付かなかった。
 怪我を意識すると急に痛みが増したようで、脚が熱を持って動かなくなる……痛くて触れたくはないが、早く止血しないと。血でより黒ずむ脚を舐めると最初に思ったよりは傷が浅いようで、新たな流血は殆どない。それに少し安心する反面、亡くなった母のことを思い出すと油断は出来ない。母が負った傷も大怪我ではなかったが、そこから徐々に膿んできて怪我を悪化させてしまったのだ。
 早く処置しないと。流血した怪我にはヨモギがいいというけど、この時期に見つけ出すのは容易ではない。
 どうしたものか。考えていると、急に辺りが暗くなった。
「……」
 雲が出て来たろうか。確かめるよう空を仰ぐと、目の前にひとりの人間が立っていて僕は驚きに毛を逆立てた。
 いつから居たんだ……全く気付かなかった。それにも驚いたが、僕を見下すその人間の大きいこと、まるで熊や大木のような人間ではない別のものにすら見える。
「娘に何をした」
 何か言われて、とりあえず同じ人間である、僕の背後にいた子供の方へ振り返ると子供は僕と同様に大きな人間を見上げていた。しかし僕とは違い、見上げるその表情はとても穏やかで二人の関係がわかってしまった。
 子供とこの大きな人間は親子か。そして子供を探しに来たところにいたのは、血を滴らせる僕という狐。人間の道理はよくわからないけど、良くない誤解をされる状況なのはわかってしまう。
 じゃり、と大きな人間が僕へと脚を向ける。いつもの僕なら近付いた瞬間に飛び退いて逃げているが、不幸にも前足を負傷している。こんな状態で逃げられる自信はない。悪いことが続く日もあるとはいうが、まさか天命を全うした日になるとは。
 人間は牙も爪も鋭くはないが、正直目の前にいる大きな人間にはそんなことは関係なく思えて、僕は運命を覚悟して目を固く瞑った。

   ◆◆◆

 日本列島の東北域で冬場のヒトデの生態調査を始めたのは何年前だったか。確か始めた最初の年には娘の徐倫がたどたどしく歩いたことで爺が盛り上がっていたので、きっと五年ほど前か。
 その五年の間に俺は博士号を取り、そして妻と離婚した。離婚の原因は海洋学の研究に没頭するあまり、家庭を省みなかったからだ。これは俺の見解ではなく妻の言い分であり、俺としては家庭を大事にしていた、つもりだった。しかし、それも俺主体の話であり、妻はそう思わなかったようだ。
 離婚調停もそこそこに、爺さんがつけてくれた異常に優秀な弁護士のせいで俺が徐倫の親権をもらうことになってしまった。
 別に、徐倫と一緒が嫌なわけではない。寧ろ喜ばしいことだが、子育ては援助があるなら女親の方が何かといいと思っていただけに、未だこれで良かったのかと頭の端に引っ掛かってる。そんなこと洩らしては爺がうるさくなるから、余程のことがない限りは言うつもりはないが。
 そんな悩みを奥底に抱きながらも今冬は六歳になる徐倫を引き連れて日本へ訪れた。これまで徐倫を連れて調査に出向いたことはなかったが、祖母から「徐倫が学校へ通うようになれば互いが共有できる時間がより少なくなってしまうわ」という助言と共に調査へ同行させるよう提案されたのだ。この調査には長期に渡る海上生活がなく、近くには頼れる親戚もいるためかもしれない。これが南半球の海を何ヵ月も航海する調査なら流石の祖母も提案しなかったはずだし、俺もいくら祖母の提案であっても反対した。
 そうして徐倫を引き連れて日本で調査を行って一月弱、辿々しくも日本語も使えるようになった彼女は日々を満喫しているようだった。共にいる時間が以前よりずっと多くなったが、そう親らしいことをしてない自覚があるだけに自身の錯覚でなければいいのだが……。
 ああ、いけない。捕獲したヒトデの分別をしている最中だというのに考え事をしていた。
「……徐倫?」
 ふと、辺りが異様に静かなのに違和感を覚えて顔を上げ、そして屈んでいた腰を上げて船上を見回した。先ほどまで傍で徐倫がバケツに入れていた小魚を観察していたはずだが、その姿がない。
「徐倫?どこだ」
 操縦席を確認して、その奥の仮眠室を覗いてみたが、小さな存在はない。ならば港に降りただろうか? 船上を再確認しながら陸へ降りて辺りを見回すが……やはり姿は見えない。
 ……もしかして海へ、落ちてしまったか?
 徐倫には海に落ちると危ないからとよくよく注意はしていたため、本人も十分注意はしていた、はずだ。それこそ、彼女には海上調査の話と共に海でのあらゆる事故について語ったので、幼いながらその恐ろしさもわかっていると俺は思っている。
 それを踏まえて海には落ちていないだろうと再び辺りを見回していると、少し離れた場所にカモメが群がるのが見えた。今の時刻は十一時を少し回ったところ、漁船が陸に魚介を上げている時間ではないはすだが。そんな疑問を抱いていると、ふと徐倫が小魚が入ったバケツを持っていたことを思い出す。
 明らかに力の弱そうな幼子一人が食糧を抱えて歩いていたら、鳥頭だろうとこれほどの獲物はないと狙ってくる可能性は高い。もしかしたらあそこに徐倫がいるかもしれない。
「やれやれ」
 海に落ちていたより良いが、危ないことには変わりはなくて俺はカモメの下へ走る。予想通りに徐倫がいることを願いつつ、万が一怪我をしていたらただではおかない。全力疾走で向かっていると悲鳴のような叫びが聞こえてきた。
 やはり徐倫か? いや、違う声だな……人間の声とはまた違う、喧嘩している猫があげるような悲鳴だった。カモメの大群へと近付くにつれてカモメが疎らに高く飛び立つのを不思議に思いながら、ついに地面に座り込んでいる徐倫を見つけ。
 彼女の傍に蹲る赤毛の塊に視線がいった。
「くうぅ……」
 赤毛はところどころ褐色に汚れていたが、ぱたりと揺れる大きな耳と尾にそれは狐だというのがわかった。そしてそんな狐の足元には首のないカモメの胴。穏やかではないそれに徐倫の様子を窺うが呆けたようにこちらを見上げているだけで恐怖している様子はない。
 そんな徐倫に安心していると耳を垂らした狐がこちらを見上げてきて、猫の目に似たそれを見開いて固まった。
「娘に何をした」
 カモメの来襲と同様、徐倫の持っていた魚を狙いに来てカモメと乱闘し、今に至るところだろう。そして口から胸元、左足にかけて赤褐色に汚れているのは血液か。
 その赤褐色は果たして徐倫のものは混ざってないか。一歩足を踏み出すと狐は小さく震えながら体を丸めた。野生種のようだが逃げることはしないのか。それとも逃げられないのか?
 動かないことをいいことにまずは徐倫を抱き上げる。
「ダディ……」
 恐い思いをしたのだろう、泣きはしてないが瞳を潤ませて俺のジャケットを握り締めてきた。彼女の頭を撫でつつ体を確認すると、どうやら外傷はないようで思わず息をついた。
「黙ってひとりで行動するんじゃあない。探したんだぞ」
「……ごめんなさい」
「次は声をかけてから行くんだぞ。今回は怪我がなくて良かったものを……カモメや狐に噛まれたりしてないか?」
「だいじょうぶ! あのねっ、あの…カモメがばーっとじょりーんのことおいかけてきたとき、そのきつねじょりーんのことたすけてくれたの」
 狐が? 俄に信じられないが狐を見つめる徐倫は恐がる様子はなく、少なくとも狐が徐倫を襲ってはいないようだ。
 狐についてはあかるくないが、カモメを捕まえにきたのか……徐倫が言うように助けてくれた、というのは家畜でない限り考えにくい。
 まあ、どうであれ徐倫が無事なら構わない。
 船に戻ろうとすると、抱えていた徐倫が腕の間をすり抜けて降りてゆく。
「徐倫、船に戻ろう」
「きつね、けがしてる」
 徐倫が触れそうなくらい傍まで寄ったが、狐は小さく唸るばかりで攻撃はしてこない。いや、これは……攻撃できないくらい弱っているみたいだ。毛を逆立てて体を大きく見せようとしている最中だというのに前足が震えている。その様に少しばかり哀れみの念を覚えていると、徐倫がジャケットの端を引っ張ってきた。
「ダディ、きつね、じょうすけのところつれてったら、だめ?」
 仗助とは俺の叔父にあたる高校生で、ここから近い杜王町に住んでいる。そいつは怪我や破損したものを治せるスタンド能力を持っている。すなわち徐倫は仗助にこの狐の傷を治してもらおうとしているのか。
 あの上っ面だけの優しさだけではない仗助ならば狐の傷を治すくらい容易に受けてくれそうだが、偶然徐倫を助けた形になった狐をわざわざ治すなんて。
 野生種と人間は極力関わってはいけない。どうにか幼い徐倫に説明しようと脳内で言葉を噛み砕いていると再びジャケットを引かれた。
「ダディ、おねがい」
 じっと見つめながら、俺の了解を得ようとしている。それはおもちゃをねだるようなものではなく、本気でこの狐の傷を治してやりたい気持ちが露見する視線で俺は短く息を吐いた。
「やれやれ」
 娘が生き物の命を大事にしたい気持ちを持ってくれたなら、生物学者である手前喜ばしい限りだ。そして偶然とはいえ、恩義を受けたと思うなら返そうとする思いは親として尊重したい。
 だから、今回は仕方ない。たまには例外というものもある。誰ともなくそう言い訳しながら、未だ威嚇するよう毛を逆立てる狐の首根っこを掴んだ。
「っ、きゃうううぅぅ!」
「ダディ! きつねいたがってるよ!」
「驚いただけだ。痛くはない」
 現に俺が掴んでいるのはふにゃりと柔らかく伸びる皮の部分だ。猫なんかもこうなっているから首を掴まれてもそう痛くないらしい。
 それにしても見た目よりも随分軽いな。
 ぎゃあぎゃあと叫びながら脚をばたつかせる狐の軽いこと、俺が着ているジャケットより軽いように思える。狐なんて野生種も家畜もあまり見たことはなかったが、こいつはまだ子供なのかもしれない。
「うるさくすると海に投げるぞ」
 子供ならば脅せば大人しくなるだろうか。がう、と犬の真似事のように狐に向けて唸ってみると耳と脚をぴん、と伸ばして固まってしまった。
 到底似ているとは思えなかったが効果覿面らしい。
「きつねいじめちゃだめダディ!」
「暴れるから少し叱っただけだ」
「けがにんなんだからやさしくしなきゃだよ」
 頬を膨らまして怒る徐倫に思わず笑いそうになる。怪我人じゃあなく怪我狐だ。それにこれからただで傷を治しに行くのだからせめて静かにしてほしいものである、怪我人だろうが怪我狐だろうが大人しくしてもらう。
 大人しくなったのを確認したので、尻を下から支えるよう抱え治すと狐は小さく鳴くだけで腕の中で丸くなった。子供のようだが物分かりが良くて助かる。
まずは船へ戻って軽く整頓してこなければ。徐倫がいないと全て中途半端に放り出してしまったからな。

   ◆◆◆

 よりによって、よりによって。
 僕は今、ある人間の腕の中に収まっている。羆や大木のように大きな体、それに見合ったように大きく角張った手、僕なんかぺちゃんこに踏み潰してしまいそうな逞しい脚を持ちながら、その瞳は深緑に星をまぶしたような色をしていた。それはとても綺麗であったけど、そんな未知の瞳を持つ大きな人間が白い衣服を着ていることに僕は感動ではなく一生涯の最期を感じた。
 こいつ……ヒトデ喰いだ。
 よりによって、一番出会いたくなかった人間に会ってしまい、あろうことか捕まえられるなんて。
 少しだけ身動ぎしてみる。しかし大きな腕はびくともしなくて、頭をぐりぐりとこねくりまわされた。なんだ、何するんだ。お前なんていつでも好きにできるんだぞ、という警告か?
 恐ろしい。恐ろしくてその手に噛みついてやりたいが、そうしたら何をされるか。このまま抱き潰されてしまうか、もしくは頭からばりむしゃと食べられてしまうか。それか、僕が想像できないくらい酷いことを……これならば大人しくしていて、静かに逃げられるチャンスを待つしかあるまい。
 震える体をどうにか落ち着けようと深呼吸していると、ヒトデ喰いの足元から先ほどの子供が覗いているのが見えた。目が合うと子供はにこり、と笑い首を傾げる。まさかこの子がヒトデ喰いの子供だったなんて。しかしようく見てみれば笑みに細めた瞳の色はヒトデ喰いと同じ色をしていて、そのあまりの綺麗さに憎らしさを覚えた。
 そんなきらきらと綺麗に輝く瞳を持ちながら、これから僕を食べてしまうに違いない。この子だって魚を抱え持っていたのは食糧のため、子供だからまだ硬いヒトデではなく魚を食べているんだきっと。
 ほんの僅かだけど情けのようなもので助けるんじゃなかった。なんでも、そう、命あってのものなのだ。カモメに立ち向かった結果が怪我をした挙げ句に食糧にされようとしてるなんてあんまりだ。
 そ、そりゃあ母親と死別してからお稲荷さまのお社を塒に使ったり、罰当たりなことはしていたかもしれないけど……これはあんまりだ神様。いや、神様はいないんだ、だってお稲荷さまも狐の形をしたただの石ころだもの。あれはみてくれだけで神様じゃないんだ。
 石ころだろう神様に恨みを覚え始めている辺り、やけくそになっているのは否めないが仕方ないじゃあないか。
 身動きはせず黙って腕の中にいると再び首の後ろを掴まれて、次の瞬間に大きな布に包まれた。
「な、何するんだっ!」
 大人しくしていたのにあんまりだ! 通じないのを覚悟で抗議すると布に包まれたままどこかに押し込まれた。少し窮屈だが、これは、埋められた? これまで埋められた経験はないし、布の中では辺りを窺えず怖くなって叫ぶ。食べられるのも嫌だが、埋められてしまうのもごめんだ。
 何度か叫んでいると不意に布越しに軽く叩かれた。
「きつね、おしずかしてないとだめ」
 ヒトデ喰いではなく、子供の方の声。それが聞こえるということは少なくとも生き埋め状態ではないようだ。その事実にほっとして叫ぶのを止めると今度は地震が来た時のように辺りが揺れ始めた。
 今度はなんだ。相変わらず周囲の様子が分からなくて再度叫ぶとまたぽんぽんと叩かれた。
「おしずかに!」
 子供が何か言ってる。話しかけてくるくらいならこの布を取り去ってくれないか。辺りがわからないのはとても恐ろしいんだ。
 そうして僕が叫んでは子供が気にかけるように話しかけるを繰り返している内に、揺れが収まった。
 それに安堵したのも束の間、布越しでもわかるヒトデ喰いの大きな手が僕を再び抱えた。これではいくら肝があっても足りないくらいだ……。
 どうにかこうにか聴覚嗅覚で周囲の様子を探っていると、突然布が捲られて解放される。しかしそれと同時に目の前に現れた人間に、僕は休みなく叫んだ。
「うわっ」
「うるさいぞ、狐」
「てっきり猫かと思ったら狐っスかあ。初めてこんな間近で見たな」
 目の前の人間はヒトデ喰いに劣らないくらい大きな人間だった。それでもヒトデ喰いとは少し異なる種なのか、陽を透かしたサンシキスミレのような赤紫色の瞳に真っ黒な服で身を包んでいる。しかし違う種なのかもしれないが、大きいところは変わらないために恐ろしいのも変わりない。それにどうやらヒトデ喰いと目の前の人間は仲間のようだし、もしかしたら僕の体を裂いて分けて食べるつもりかもしれない。
 ……こんな恐ろしい思いをし続けるくらいなら、一思いに食べてくれたらいいのに。
逃げる意思などこの大きな人間二人に囲まれてしまえば薄れてしまい、そんな思いが浮かぶ。どうせ僕は狩りも体も未熟なまま一人立ちしたのだから長く生きられなかったんだ。
そう思いながら、恐怖するその時間を耐えるよう目を瞑っていると怪我をしている左足を軽くつつかれ、そして急激に痛みがなくなったことに再び目を開けた。
「?」
 出血が酷くて麻痺し始めたのか。人間二人の視線が気になりつつ疑問に左足を覗くと、そこは汚れながらも跡形もなく傷が消えていた。
 まさかそんなことあるわけ……しかし色んな角度から確認しても、鼻先で触れてみても痛みも無ければ傷が触れることもない。
「……?」
「なんだか驚いてるっスね」
「初見ならばそうだろう。 傷を治してくれて感謝する」
「ありがとうじょうすけっ!」
「どういたしましてっス」
 人間たちが言葉を交わしているが僕には内容はさっぱりわからなくて、そして消えた傷についてもわからなくて視線が泳いでしまう。ヒトデ喰いは相変わらず恐ろしいが、一向に僕を食べることはない。それどころか戸惑いに沈黙していた僕の頭を太い指先で撫でてきた。
「わ……っ」
 驚いたけど……ちょっと気持ち良くて思わず耳が垂れる。その太い指は頭を撫でた後、耳の下から首にかけて撫でてくるものだから、ついに逆立つ毛が落ち着いてきてしまった。
「ようやく大人しくなったっスね」
「怪我をして興奮していたのかもしれない」
 何か言いながら今度は手のひらで僕の下顎を撫でてきた。顔ごと包み込めそうなくらい大きな手なのにふわふわと緩く触れてくる。先ほどの指先といいなんでこんな心地好い触れ方をするんだ。こんな風に触れられたら首を伸ばしてしまいそうになるだろ。
そう思っている最中にも首を伸ばしかけてしまい、慌てて首を横に振って誤魔化す。この手はヒトデ喰いのものだ、いつ首を捻ってくるかわかったものではない。
「きつねよかったね!」
 子供の小さな手が伸びてきて、がしがしと僕の頭を撫でてきた。親であるらしいヒトデ喰いの触れ方とは違って大分豪快だな……まあ、人間としてはとても幼いようだし、加減がわからないのかな。その証拠に子供の顔を窺えば悪意の無さそうな笑顔だったので、僕は唸ることなく撫でられていた。
 その後、黒い大きな人間と別れると再び布で包まれてしまった。これどうにかならないかな、周囲が見えないとどうしても不安を覚えてしまう。
 どういうからくりかわからないけど脚が治ったようだし、逃げようかな? これまでの様子ならヒトデ喰いは力こそ強いけど、こちらに対しての警戒心はあまりないようだ。
また布ごとどこかに詰められて、がたがたと地面が揺れ始める。黒い大きな人間のことを踏まえて、この揺れはどうやら移動している時に生じるものらしい。移動手段は徒歩のようではないし、猫車のように操縦しなければならないものなら、ヒトデ喰いの手は塞がってる筈だ。
 もしかしたら今がチャンスか。
 体を覆う布を鼻先と前肢で掻き分ける。まずはこの布をどうにかしないと。
「……結構この布、厚くて重いな」
「きつね?」
「!」
 思わず呟いた言葉に返る声があって、動きを止める。
 そうだ、ヒトデ喰いだけではなくヒトデ喰いの子供もいるんだ。ヒトデ喰いの手が塞がっていたとしても、子供の手は空いてる可能性が高い。いくらヒトデ喰いより小さいといってもヒトデ喰いの子供、油断ならない。
警戒に身を固めていると、厚くて身動き取りにくいと感じていた布があっという間に取りさられて子供がこちらを覗き込んできた。
 布がなくなったのは助かったけどすぐ目の前に子供がいるとなると容易に逃げられない。とりあえず辺りを見回すと小屋のように狭い空間、そして小屋に取り付けてある窓から見える景色はまるで走っている時に見るように流れていた。
小屋ごと移動しているのか……いやまさかこれは漁船に乗る人間も利用していた車というやつか?
「きつね、もちょっとしたらうみだからね、まってるんだよー」
 言いながら子供は布ごと僕を抱えあげる。しまった、辺りに気を向けていてすっかり油断していた。
「噛まれるぞ、箱に入れておけ」
「だいじょうぶだよダディ、こんなにおとなしいんだもん」
「警戒してるからだ。もしくは徐倫が恐いから大人しいのかもしれん」
「じょりーんこわくない!」
「そう思うなら箱に戻せ」
「……はあい」
 親子は何かしら会話を交わした後、子供が僕を元の場所へと下ろしてくれた。人の言葉はわからないけど、ヒトデ喰いが何か言ってくれたお陰か。
 そんなヒトデ喰いは前方に座っていて、こちらに背中を向けていた。ヒトデ喰いの視界には僕は写らず、子供さえいなければ楽に逃走できる状態だ。
 ちらりと隣に座っている子供を窺えば、子供は僕を見て笑うばかり。捕食しようとしている動物に向けるには些かおかしい表情に見えて、僕は今だけは逃げるのはやめておこうと思った。
「偶然かもしれないが徐倫を助けてもらった礼だ、こいつをやろう」
 まもなく車が港へ着くとヒトデ喰いは僕を車から降ろすと魚を二匹僕の前に置いた。なんで魚なんか……これは罠か?
 警戒に魚とヒトデ喰いを交互に見つめる。するとヒトデ喰いは置いた魚をこちらへ押し付けてきた。
「くれるの?」
 言葉は通じないので上目で窺えば、察したようにヒトデ喰いはひとつ頷いた。
「食糧が目当てで港へ来たのだろう、遠慮するな」
 一匹を指先で摘まむとそれを僕の鼻先へ近付けてきた。やはりこの魚はくれるらしい。揺れる魚をくわえるとヒトデ喰いは踵を返した。
 車に乗り込む背中は遠目でも大きくて、それは再び僕の方に現れることなく車は発進してしまった。
「これは……?」
 てっきり食べられるのではないか、と怯えていたのに結果は怪我を治してもらって魚を貰っただけで、僕は首を捻る。しかしヒトデ喰いと同行していた子供を思い出して、終始僕へ笑顔を向けていたことにまた首を捻る。
 狐に人間の道徳はどうしたってわからないが、これは情けをかけられたわけだろうか。しかし同じ人間ならばまだしも狐である僕がどうして?
 また首を捻って、捻って、頭を捻ってもどうしてそんなことをしてくれたのかわからなくて僕はその場に座り込んだ。
 この後僕は疑問を抱えながらも貰った魚を一匹平らげると残ったもう一匹を神社へと持ち帰った。ヒトデ喰いがくれた魚は二匹とも上等なもので僕は一匹食べただけで腹が苦しくなってしまい食べられなかったのだ。あんな魚、母親が健在だった時も食べたことない。流石ヒトデ喰い、といったところなのか、こんなものを無償でくれるとは理解できない。
 わかるのは、少なくとも僕みたいな狐を食糧にはしないということくらいだった。
硬いのが好きなんだろうか。
 ヒトデなんて食べるところなさそうだけど、行動が理解できないなら食物の好みも理解できないかもしれない。
 しかしヒトデ喰いを理解できなくとも、今回の僕はとても恵まれているのはよくわかった。そんな事実にこんな僕にも恵みをもたらす神はいるのかもしれない、と思えてきて僕はお稲荷さまの石像の前で止まった。
「お世話になります、お納めください」
 言いながら魚を石像の前に置く。
 僕には信仰心なんてない。でも今日のことを踏まえると何かに感謝の意を伝えなければならないような気になってしまったのだ。
 ヒトデ喰いから貰った、僕の残り物だが良ければ貰ってください。
 お稲荷さまの石像は動くことなく佇んでいる。それはそうだ、神様と崇めたってこれは石像でしかないんだから。そうは思いつつもお供えして満足してしまった僕は置くにある社へと入っていった。

   ◆◆◆
 
ヒトデ喰いと出会った翌日、僕は港へ足を向けた。昨日の今日で港へ来るなんて魚目当てかと言われたら正直に答えれば首を横には振れないけど、そればかりが目的ではなかった。
 くん、と鼻先を宙に仰いで匂いを探れば、潮風に紛れてふたつの匂いが微かにした。ひとつはヒトデ喰い、ふたつ目はその子供の匂い。昨日同様に揃って港へ来ているようだ。
匂いを手繰りつつ見晴らしの良さそうな小屋の屋根に登って辺りを見回す。防風林すらない港は見晴らしがよく、一隻の小型船が港の端に停まっているのを発見した。
 あれか。
 屋根から飛び降りて小型船へ駆けてゆく。船上をカモメが飛び交っているけど、今日は子供を追いかけ回すなんてことはしてないよな。多勢で子供を狙うなんて光景、二度と見たくないし、僕も何度も怪我をしたくはない。
 そう広くはない港の端へはあっという間で、僕が到着すると煩く鳴いていたカモメが一斉に飛び去って行く。どうやら鳥頭でも昨日の出来事を覚えていたらしい。
 そんなカモメを見届けていると船上からヒトデ喰いの子供が顔を出した。
「きつね!」
 声をあげた子供は船から飛び降りると、驚くほどの早さで僕の傍に駆け寄ってくる。思わず飛び退いて少し距離を置く。昨日は襲われなかったけど今日はわからないし、子供を追いかけるようにこちらへ向けられたヒトデ喰いの視線を感じてしまったのだ。あまり密な接触をしてヒトデ喰いに首根っこを絞められたら僕なんかお陀仏だ。
 耳と尾を下げて敵意はないアピールをする。昨日のことを踏まえると、こちらが危害を加えることがなければヒトデ喰いも手を出さない筈だ。
 すると子供は一気に距離を詰めて僕の耳を鷲掴みした。
「きゃん!」
「わああ、きつねのおみみふわふわあ!」
 何か言いながら子供は僕の耳を容赦なく握る。親のヒトデ喰いに比べたら大分小さなその手は力強くて、僕は痛みに耐える。もげない内に離してくれよ……。
「徐倫、離してやれ。痛がってるぞ。」
「えー? うそぉ?」
「折角来たのにそんなことをしたら逃げてしまうぞ」
「やだー!」
 ヒトデ喰いが何かを言えば子供は僕の耳を解放してくれて、僕はころりと尻餅をついて倒れた。
「うう……」
「いたい? いたかったの?」
「……なに?」
「いたいいたいのね、ダディにあげるから。いたくないよ?」
「なんで私なんだ」
 僕らの傍にヒトデ喰いが降り立つ。昨日見た通りに奴はとてつもなく大きくて、自然と体を小さくしてしまう。
「だってダディつよいからちょっといたいのくらい、だいじょうぶでしょ?」
「やれやれ」
 ふと、鼻先を魚の匂いが掠めたものだから鼻を動かしていると、ヒトデ喰いはどこからか魚を取り出して僕の頭上へぶら下げた。
「魚目当てだったろうに災難だな、こいつをやるから早く帰らないとまた徐倫に襲われるぞ」
「じょりーんそんなことしない!」
「なら、もう少し離れて声を掛けろ。狐が警戒するぞ」
「はあい」
 自由奔放にも見えるが子供にとってやはり親は絶対なのか、ヒトデ喰いの言葉と共に少し距離を置いてくれた。ヒトデ喰い、大きいけどこちらが驚きそうなことをあまりしないのは助かる。
 それを見届けるとヒトデ喰いは僕の前に魚を三匹置いた。思わず目線で窺えば、ヒトデ喰いも何か言いたげに首を傾げた。
 あちらから置いたし、もらっていいのか?
 匂いを嗅いで特に問題ないと確認すると僕は魚を食べ始める。
「おいしい?」
「食事に集中しているようだから、食べてる時は邪魔しないようにな」
「えーっ、つまんないの」
「人とは勝手が違う。野生の生き物なら尚更、余計に関与しない方が良い」
 またヒトデ喰い親子が会話をしている。彼らが会話を交えている最中なら僕に何もしてこない。昨日と今日の流れでそう判断した僕は急いで魚一匹平らげる。昨日同様にヒトデ喰いがくれた魚は上等なもので、一匹だけで満腹を覚えて顔を上げる。すると傍にいた親子はいつの間にか船上に戻っていて、子供だけがこちらを覗いていた。
 耳を掴まれたのは痛かったけど、それも一時的なもので魚をくれるだけなんて変な奴らだ。しかしもしかしたら魚が貰えるかも、なんて少しだけ期待していた僕は疑問はあっても遠慮することなく残りの魚をくわえて住まいにしている神社へ戻っていった。

   ◆◆◆

 ここ一ヶ月、港で作業していると顔を出すようになった狐がいる。
 そいつが来る時間はまちまちだが、昼前には顔を出しにやってくる。どうやら一度魚を与えたことで味をしめてしまったらしい。まだ成熟していないのか、警戒こそしてもなかなか逃げることがない様子に幼さを覚える。
 ヒトデに紛れて獲れた魚を狙いに船上を飛んでいたカモメが散り散りに飛び去ると、今まで遊んでいた徐倫が船から飛び降りた。
 カモメが飛び去るのは例の狐が来た合図。徐倫の背中を追い掛けるよう陸地を見れば、そこには朱色の狐が行儀良く座っていた。
「きつねーっ、こんにちは!」
 徐倫は狐の隣にしゃがむと、そっと狐の頭を撫でる。狐も特に威嚇や警戒する様子は見せずに大人しく頭を撫でられている。こうして徐倫が触れても驚かなくなったのはいつだったか、そんな狐は徐倫のお気に入りになっている。
 その様子を見ながら俺は傍に用意していたバケツを片手に船を降りた。
「今日は竹麦魚がかかったぞ。形は変わってるが特別うまいやつだ」
 バケツにはヒトデと一緒に獲れた竹麦魚と、もう一匹オボコを添えて狐へ渡した。全長は小型犬より少し大きめだが、冬場特有の厚い毛に覆われたその体は細い。時期的に餌がないためだろうが、気にかけたくなるほどの細さのあまり毎回魚は二、三匹渡すようにしている。
 魚を渡された狐は匂いを確認するとまずは竹麦魚へと口を寄せた。そちらから食べるとは匂いで旨味というものがわかるのか。がつがつといい喰いっぷりを見せてくれる狐を眺める。
 傍にしゃがんでいる徐倫も狐に触れることも騒ぐこともなく、じっと見つめるだけ。この狐に関しては俺の言いつけをしっかり守ってくれる。折角出会って自分のもとへ通うようになってくれた狐に嫌われたくないのだろう。
 間も無く魚を食べ終えた狐は舌と前肢で口回りを綺麗にすると、徐倫は声を掛けながら手を伸ばしてその頭を撫でる。狐は目を細めると徐倫が撫でやすいように体を屈ませた。
徐倫の笑みが深まり、その頬は赤みを増す。俺に突発的な触れ合いは良くないと釘をさされているだけに、触れ合いを促すような狐の仕草が嬉しいのだろう。そんな姿に俺はつい徐倫の頭を撫でれば、彼女は照れ臭そうに笑ってくれた。
 離婚してから暫く経ち、徐倫と過ごす時間が増えた。それでも時折徐倫は母親を恋しがる場面があり、俺がどんなに彼女を想っていても補えきれないと思ってはいた。
そんな、解決できない悩みを抱えていた俺の前に現れたのはこの朱色の狐だった。
「よしよしうれし?」
 徐倫の言葉に狐は片耳をぴくりと動かす。意味が通じての仕草ではないだろうが、言葉に対して反応が返ることに彼女は小さく声をあげて笑った。
 俺と二人きりでは滅多に聞くことのないその声は喜ばしくて、同じくらい辛くなる。俺だけでは見られない彼女の姿を、目の前の狐がいることで見られるのは複雑だった。こんな小さな存在のお陰で、俺が聞くことのできない笑い声を聞けたのだから。
「ダディ。ダディ!」
「どうした」
「きつねふわふわしてあったかいよ、ダディもなでなでしなよ」
 言われるがままに小さな頭を撫でると、狐は驚いたようにぴくりと体を震わせながらも逃げることはなかった。彼女の言うように体毛はふわりと柔らかくて外気の冷たさに反して温かだ。こうしてこの狐に触れるのはいつ振りか、出会って以来かもしれない。
 頭を撫でて耳の後ろを指先で軽く撫でてみる。小さい小さいと思っていたが触れてみるとその小ささは際立ち、顔なんて俺の手の中に収まりそうだ。指先で撫でながらそれを顎の下へ滑り込ませると狐がこちらへ視線を向けた。
 流石に少し触りすぎたか。徐倫にあれやこれや言った手前そんなことをしてしまうとは、この柔らかさに俺も触れ合いが過ぎてしまったらしい。これ以上驚かせてしまい逃げられてしまうのは避けたくて、様子を窺いながらゆっくり手を離す。
 すると狐は離した俺の手を追い掛けて鼻先を寄せて匂いを確かめると、ぺろりと指先を舐めた。
 予想外の行動と生暖かく濡れたその感触がこそばゆくて指先が跳ねてしまう。それを何か勘違いしたのか、狐も驚いたように顔を引いたかと思うと跳ね飛ぶように逃げてしまった。
「あっ」
 徐倫の声が上がり、俺も思わず逃げて行く狐へ手を伸ばす。しかしそれは狐の尾にすら触れることはできず指先が宙を掻く。あっという間に狐の姿は小さくなり、貨物船倉庫の間へ姿を消してしまった。
「きつね、おさかなわすれてっちゃったね」
「すまん」
「ダディくちばっかりできつねさんとぜんぜんあそばないんだもん、しかたないよ」
 それは暗に慣れない触れ合いをしたお陰で逃げられたのだと言っているようで、俺は返す言葉も見つからず立ち尽くしてしまった。

次の話
2023.12.11 05:52