a lady on the dish

 紫の瞳はネオンの揺らめきを朧気に見つめていた。都心の夜は眠ることを知らない。すらりと長い足で小石を蹴るようにしてぶらぶらと歩く。スマートフォンで呼び出したのは一人の女の名前。あと何コールも待たされるようならと、ポケットの中の煙草を手で探る。
「……っ、も、もしもし」
「出んの時間かかったじゃん。寝てた?」
「そういうわけではないですけど……」
 待たされはしたものの会話の相手ができたことで、口寂しさは一旦引っ込む。理由はわからないが、電話の向こうの相手は言葉を濁した。女の都合を無視して話を進める。
「今日の接待」
「はい、お疲れ様でした」
「クソつまんなかったわけ」
「クソですか……」
 事務員である彼女に見送られ、今夜は数名の幹部が接待に出かけた。美味しい物が食べられるから良いじゃないですか、と呑気な彼女を代わりに送り込みたいくらいだった。招集された目的が、梵天に媚を売りたい弱小組織の接待でなければ。
「蘭さん、まだ家じゃないですよね?」
「そう。こっから“社宅”、近いからさぁ」
 梵天では事務所から数駅先に構成員用のマンションを借りていた。皆はそのマンションを表向き“社宅”と呼ぶ。都内一等地に事務所を構えていることもあり、部屋の間取りも家賃も例に漏れなくヒラの構成員にとっては贅沢すぎるほどだった。もちろん誰でも住めるのではなく、入居する権限は、無いようでいて、実は私的に行使されているのだろう。現に電話相手の女に“社宅”に引っ越してはどうかと勧めたのは蘭だった。入居者だった幹部が一人、“不慮の事故”で亡くなった後のこと。家賃補助という名の甘い蜜で女を釣ったのだ。
「今から行っていい?」
 尋ねる形をとっていても、蘭の中でそれは決定事項だった。
「ま、待ってください……! 今はちょっと……」
「あと十分で着くから」
 相手が言い淀んでいる様子を無視して通話を切った。どうせいきなりすぎるとか、どうしてうちにとか言い訳を並べられるだけだと思ったのだ。連れ込む男がいないのは先日リサーチ済みだ。この数日のあいだにまかり間違って邪魔な虫がついたとして、その場で駆除すれば良いだけの話。上司命令に弱い女は、家まで行けば屈服するだろう。ならば意思の確認など無駄な手間。
 夜中に顔が見たいなんて、どう考えても不純な下心。





 インターホンを押してから、彼女の声がするまでややしばらく時間がかかった。オートロックのエントランスを通され、エレベーターで上階にのぼる。部屋の前まで来てインターホンを押すときでさえ、中からぱたぱたとスリッパの音が近づいてくるまでにはタイムラグがあった。肌触りのよさそうな部屋着に包まれた手が、ようやく玄関のドアを開ける。
「何してたんだよ? やっぱ寝てたんじゃねぇの」
「起きてますよ! もう、寝るどころじゃありません。せっかく来てくださったなら、連れて帰ってください」
「は?」
 彼女の発言の意図をはかりかねて蘭が首を傾げる。発言だけでなく彼女のむすっとした表情も腑に落ちない。しかし夜分に訪ねた自分に怒っているわけでもないようだ。女というのは難しい。視線を落とした蘭の目に、玄関に上がったまま脱ぎ捨てられていた革靴が目に入った。“社宅”とは別の、本当の自宅に帰ってきたのかと錯覚する。蘭が帰宅したとき、同じ靴がすでに玄関にあるときもあれば、翌日出るときまで隣に並ばないこともある。
「え、なんで竜胆いんの」
 都内一人暮らしにしては随分贅沢なリビングに入り、蘭は先客の姿に声をあげた。女は蘭の疑問を無視して、「竜胆さん、お迎えがきましたよ」と肩を叩いている。お迎えなどではない。ソファには、先ほどまで彼女が座っていただろう位置を空けて、寂しそうに寝転がる弟の姿があった。ローテーブルの上に水の入ったペットボトルが置いてある。眠気と酔いとで、とろりと溶けそうな瞳が兄を捉えた。シラフなら飛び上がって驚きそうなものだが、どうやら本当に酔いに身体を侵されているらしい。
「にーちゃんこそ、なんで」
「なんでって。さっき電話したじゃん」
「部屋から慌てて出てったから聞こえなかった。つかそういうこと聞いてんじゃねーし」
「飲み屋から近かったし、泊めてもらおっかなって」
「……なんでこーゆーときに限ってにーちゃんと考えること一緒なんだよ……」
「ふぅん。そういうことな」
「二人だけで納得しないでください!」
 竜胆が悔しそうに、仰向けのまま腕で目元を覆う姿が可笑しかった。声に驚きというより諦めの色が滲む。そういえば接待が終わっても、「兄ちゃん帰ろう」と声をかけられなかったことを思い出した。ゴマすり組織が呼んだタクシーに一人でさっさと乗り込んで、“社宅”に向かったからだろう。何かと「兄貴」が注目されやすいことを気にしてか、弟は手段を選ばないところがある。
「なんで竜胆来てるって言わなかったんだよ? 何か後ろめたいことでもしてた?」
「蘭さんが電話切らなかったら説明してましたよ……!」
「さっきの電話、にーちゃんからだったの」
「う……すみませんでした」
「電話も出られねぇようなコトしてたら良かったのに。残念だったなぁ」
 女は無言で二人のやりとりを見守る。まるで獲物の取り合いで、真ん中で縮こまる可哀想な小動物のようだった。竜胆がペットボトルの中身を煽ったのを見て、蘭も次は自分と言わんばかりに手を伸ばした。当たり前のようにペットボトルが弟から兄へ手渡され、共有される。
「竜胆が寝てたんなら、次はオレが膝貸してもらおっかなぁ」
「え……」
 蘭の悪ふざけに反応したのは、膝を貸し出す本人より、竜胆の方が先だった。兄が来たこともあり直接的には甘えてこないだろうと思っていたのだが、どうやら予想は外れたようだ。余裕を失った顔で「オマエはこっち」と蘭が来るまで座っていた定位置に座らせようと手を引く。女がぽすんとソファに腰を下ろすと、腰に腕を巻きつけて膝や腹に顔を埋めた。
「竜胆さん、来てからずっとべったりなんですけど……家でもこうなんですか」
「そーそー。甘えたで困っちゃうよなぁ」
「違ぇよ……いーじゃん。仕事じゃねェんだし」
「あーあ、とられちゃった」
 蘭はさほど残念そうでもなく、竜胆の爪先から脹脛を持ち上げ、三人掛けのソファに座るスペースをつくって腰を落ち着けた。少し無茶だが家族の団らんに見えなくもない。お酒の失敗として、後日頭を抱えることにならないのだろうか……と女は余計な心配をする。ふと部屋の中を見まわした蘭が、部屋の隅に目をやった。
「そういえばアレ、使い心地どう?」
「あ、めちゃくちゃ楽です。その節はありがとうございました」
「いーよ。代わりにオレの部屋に最新のやつ買えたし」
 兄が来た途端、独り占めしていた彼女は自分だけのものではなくなる。頭上でお互いを知り合ったような、自分より少し先に進んだ話をしているような二人の雰囲気を感じて、竜胆がぎゅっと腰に巻いた腕を締める。力強さに独占欲が表われる。
「……にーちゃん、最近ここ来たの」
 にーちゃん、と甘える響きを聞いた二人は可愛さに肩を震わせる。意外なところで二人が共感していることは、不貞腐れた弟の目には入ってこない。
「そこの全自動掃除機、こないだオレのお下がりやったんだよ。捨てんのめんどくせぇし」
「蘭さんが珍しく家まで持ってってやるって言うから、お言葉に甘えたんです」
「オンナノコに重いもん持たせらんねーじゃん?」
「普段書類もめんどくさいって忘れていきそうになるのに……」
「……」
 確かに先日、蘭がこの部屋を訪れた。しかし他意はないとフォローしたつもりが、さらに仲間はずれを助長してしまったようだ。柔らかな腹に当たって、ご機嫌ななめな声がくぐもる。
「オレの知らないとこで。しかも普段、重いモン持てねぇ〜とか言ってオレにやらせるくせに」
「ごめんて。でも抜け駆けしてたのは竜胆じゃん」
「……抜け駆けくらいしないと、にーちゃんにとられると思ったから」
「竜胆ととり合いするつもりねーよ」
 蘭はきっぱりと「とり合うつもりはない」と言いきる。その真意は彼のみぞ知る。多くを語らないことで、その台詞が竜胆に安心をもたらすこともなかった。竜胆が身動ぎ、女の腹に頭頂部をぐりぐり擦りつけて甘える。少し頭を持ち上げれば、腹から胸の膨らみがはじまる部分。意図してか、無意識か。少しだけ乳房の感触を確かめられているような気がしなくもない。
「……あの。竜胆さん、ちょっと遊んでません?」
「……もー遊ぶ元気ねェもん」
「嘘つくなよ竜胆、ヤる気ならすぐ出んじゃん」
「にーちゃん、一言余計……マジで今日は無理」
「えー」
 毒づいてみせても竜胆の口角は少しばかり上がっていて、元気が出せないとは説得力がない。業務時間内であればセクハラだと訴えられるだろうかと蘭は考えたが、そもそも反社にハラスメント相談窓口はない。
 彼女のように、愛だの色欲だのと言わず、程よい距離感を保って働けるのは結構なことだ。だが、距離を保たれ続けると、どうにかして詰めて近寄ってやりたくなる。きっとこれからも自分から彼らの手に収まろうとはしないだろうから。
 甘えん坊を極めた弟はうとうとと眠りに落ちそうになっている。「スーツのまま寝ていいんですかね……」と渋い顔をしながらも、やさしい手つきで髪を梳く女を見る。羨ましいわけではない。自分も同じようにされたいのでもない。ただ、弟を愛でる女の指先なら、いつまで見ていても飽きない気がした。





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