甘言を弄して君を縛る鎖となれ


「話って何?」
 急いで来たのだろう。いつも綺麗に整えられている髪は乱れ、冷たい風にあてられて頬は赤く高揚し息も乱れている。息を整えながら、髪を耳にかけた彼女の問いかけに対して今から自分はとても残酷な言葉を吐くことになる。その覚悟が、彼女を前にしたらやはり大きく揺らぐのを感じた。それでも今日、今直ぐにでも彼女に伝えなければならない。こんな真夜中に女一人で夜のネオンが輝く危ない街まで来させておいて、やっぱり何でもないなどとは口が裂けたって言えやしないのだ。
「蘭……? どうかした?」
 そっと伸ばされた手が自分の頬に触れる。冷たくなってしまっている彼女の手は、最後の最後で抗おうとしている自分の心を静めてくれるようだった。
 そっと彼女の手に自分の手を重ね、すりっと頬ずりする。
「冷てぇなぁ」
「あ、ごめん」
 すっとひっこめようとした小さな手を掴んで引き留め、彼女の掌にそっと口づけを落とす。びくりと驚いたように肩を跳ね上げた彼女はぱちくりと瞬いたあと、訝しんだように顔を顰めて覗き込んできた。
「蘭……?」
 相変わらず、勘の鋭い女である。
 ふっと自嘲気味に笑うと、彼女には決して向けなかった鋭く冷たい視線で彼女を射貫いた。
「ら、ん……」
「今日でサヨナラだ。お前とは終わり」
 今日までそれなりに楽しめたわ、とひらりと手を振って、俯いた彼女の表情を視界に入れないようにして背を向けた。こんなクズで身勝手な男なんてさっさと忘れちまえ、と言ってやれなかったのは、勘の鋭い彼女が心の優しい彼女が自分への気持ちを残してしまうのではないかとそう思ったからだ。
 雪の降った寒い夜、愛しい女に別れを告げた。









 ◆

 現代、同じ場所で見上げた空はあの頃と何も変わらないのに、心の中にぽっかり空いてしまった穴は未だ埋まってくれることはなく、それでも今自分の傍にいてくれる男と幸せになりたいと心の底から願っている彼女の前に再び現れたのは、自分の心に大きな風穴を作った張本人だった。
「蘭……?」
「……よぉ。久しぶりだなぁ」
 最初驚いた顔を見せた蘭だったが、直ぐに状況を悟り、顔を取り繕って感情のない笑顔を向けた。竜胆がどうしても仕事が片付かねぇし、彼女心配だから迎えに行ってくれ、と蘭にお願いしており、手出したらごめんなぁとけたけた笑って引き受けていた蘭だったが、手出したらぶっ殺す、と言っている弟の女に手を出す気はさらさらなかった。
 蘭にとっての特別は今も昔も変わらず唯一人だけであったのだから、今更どんな女にすり寄られようと心を揺り動かされる事などないと、そう思っていた。
 けれど、待ち合わせ場所で待っていたのは、まさかの彼女である。数年前、心を殺して別れを告げ、突き放した愛しい女が今目の前にいる。今は弟の大切な女として――。
「私、待ち合わせしてるから」
 ガードレールに寄りかかるようにして煙草に火をつけ銜えた蘭を見て、ここに居座るつもりだなと直感した彼女は、直ぐに踵を返して逃げ出そうとする。そんな彼女の手首をパシッと掴んで引き留めた蘭に見上げられてどきりと心臓の鼓動が鳴った。
「久しぶりに再会したっつーのに、そりゃねぇだろ?」
 掴んだ彼女の手首は相変わらず細くて、彼女の指に自分のそれを絡めてぎゅっと握ってやれば、相変わらずとても冷たかった。過去の彼女であれば、手を握れば頬を染めて照れくさそうに自分から視線を逸らしては忙しなく視線を彷徨わせていた。
「……私の彼氏、嫉妬深いの。アンタみたいな男といるところ見られたら、変な誤解与えちゃうでしょ」
 それなのに、今はどうだろうか。随分と冷たい瞳をするようになってしまった。あの頃とは違って鋭く睨み上げてくる瞳の奥に小さな動揺と不安が揺れ動いて見える。
「ふはっ。まあ、確かに、アイツは嫉妬深ぇな」
「……どういう意味?」
 兄弟揃って同じ女に恋をするなんて、どこのべたな恋愛ドラマだと自嘲しながら、自分の弟にあの時彼女を紹介していなかった事にほんの少しだけ後悔をした。
「お前の待ち人から頼まれて来てやったんだよ」
「は……?」
 何わけわかんない事言ってんの、と手を振り払おうとした彼女の手を強く握って自分に引き寄せた瞬間だった。
「兄貴〜!」
「え……兄……え?」
 ふっと悲し気に笑う蘭に動揺する彼女がやってきた恋人の顔を見て複雑そうに顔を歪める。似ているかと聞かれれば確かに少しだけ似ているかもしれない。蘭を忘れられなかった自分が竜胆に蘭の面影を求めて傍にいることを望んでしまったのかもしれない。そんな事を一瞬でも頭に過ってしまえば、何も知らない今の恋人の顔など直視できるはずもなかった。
 俯いた彼女に視線を落とし、離してやるものかと握りしめていた手をあっさりと解放してやった蘭は、駆け寄って来た竜胆を笑顔で迎えていた。
「まさか、手ェ出してねぇよな」
「さぁ?」
 おい、と額に青筋を立てて怒りをあらわにした後、慌てて俯いてしまっている彼女の肩に手を置き、そっと顔を覗き込んだ竜胆は、固く唇を噛み締めて震えている彼女の表情を見て尚更焦りを覚えた。
「兄貴に何かされた? 大丈夫か?」
「……ねぇ、どういうこと?」
「え?」
 恐怖に怯えて震えているのかと思った彼女は、どうやらそれとは反対に怒りに身を震わせていたらしかった。何故、彼女が、何に対して怒っているのか見当もつかない竜胆は、眉間に皺を寄せるしかない。
「蘭が、竜胆の言ってたお兄ちゃんなの?」
「兄貴のこと知ってたのか……」
 何とも言えぬ顔で自分を見つめ、苦しそうに眉根を寄せ、何も言えずにいる彼女のただ事ではなさそうな表情を見てちらりと後ろにいる蘭を振り返った。竜胆の視線に気づいて煙草の煙を空に向かって吐き出した蘭は、感情の読めない表情で彼女の代わりに答えをくれた。
「ソイツ昔の女だからなぁ」
「え、マジ!?」
「マジ〜」
「マジかよ」
 彼女がぴくりと反応を示したところをみると、兄の言い分は恐らく間違いではないのだろう。これは非常に面倒くさい状況である。一度兄と関係を持っている彼女が兄と再会を果たしてしまった。今この瞬間から、自分たちの関係は大きく変わる事を意味する。蘭が一度捨てた女と復縁することはまずないだろうが、竜胆的にもあまり気持ちのいいものではないし、何より彼女自身が今この状況をよく思っていない事がひしひしと伝わってくるのだ。いつものように兄にちょっかいを出されて女を掻っ攫われる状況よりも深刻かもしれない。
 そんな事で頭の中をぐるぐるさせていた竜胆は、蘭の様子がいつもと違う事に気づいてやれなかった。
 ここで気づけばよかったのだ。自分の兄が、たかが昔付き合っていただけの女の顔をこんなにもはっきりと覚えている事がまずイレギュラーなのだという事を。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -