ざくざく

 初めに話しておこう。これは、私の愚かな転落の話である。

 まず、私には、私という人間が積み重ねてきた二〇数年の生の中で、ひとつだけ消し去りたい過去というものがあった。
 ──かつて、私には幼馴染がいたのだ。金色の髪をした悪辣の兄弟が。

 それはまさしく、少年の風貌をした悪魔だった。
 子供は残酷な生き物であるという。幼いが故に物事の善悪の判断を付けられず、純粋なまでの好奇心でものを傷付けるのだ。例えばそれは、虫の手足を引きちぎったり、動物を痛め付けたり、蟻の巣穴に水を流したり、狭い籠の中に数多の虫を放り込んで、彼らの共食いを笑って眺めたり。それらの行為に深い意味はなく、ただ些細な興味と娯楽的な発想から行われる邪悪であった。無邪気さの中に潜む残酷ほど恐ろしいものはない。何故ならそれに悪意はないからだ。どこまでもまっすぐな純真から、どこまでも歪んだ残虐は生まれる。子供が残酷な生き物である所以は、そうした善悪が存在しないからなのだ。
 しかし、その残酷も大人になるにつれて薄れていくものである。正しい常識と社会性を身につける中で、善悪の区別を付けられるようになるからだ。動物を虐めない。人を傷付けるようなことはしない。正しさから外れるような行為もしない。それがきっと、普通の人間≠ネのだろう。
 けれど、彼らは悪魔であったから。純粋なまでの悪意を秘めた恐ろしい人間であったから。
  私の幼馴染。金色の髪をした兄弟。幼稚であったからと一言では片付けられないほどの極悪を着々と育てていった彼らは、その手でとうとう超えてはならない一線を超えてしまった。
 ──ぽつんと空いた教室の空席。誇張されて広まる噂話と、遠巻きに見つめてくる人々の視線。犯人の名前は匿名で報道されたニュースの殺人事件と、幼馴染であったが故に伝わった真実に、私は強く決意したのだ。
 ああはなるまい。私は決して道を違えることも、悪意に手を染めることもなく、真っ当に生きていこう、と。残酷を、冷酷を、そのどちらに触れることもなく、正しく生きていこうと、そう心に強く決めた。
 のに。
「……たしじゃない、わ、わたしの、わたしのせいじゃない、わたしの、わたしのせい、じゃ……」
 がたがたと頭を抱えて震える私の下には、ぴくりとも動かない男が倒れている。じわりじわりと頭の下を流れる暗い赤は、冷たい円を作りながら地に染み込んでいく。遠い階下の光景は夜闇の中でもはっきりと黙認できるほどに鮮烈な現実だった。
 ──ぽつんと空いた教室の空席。誇張されて広まる噂話と、遠巻きに見つめてくる人々の視線。犯人の名前は匿名で報道されたニュースの殺人事件と、幼馴染であったが故に伝わった真実。そうして思い出される、あの兄弟の末路。喧嘩の果てに人を殺した彼らは少年院へ連れていかれ、そうして音信不通になった。
「あーあ。人、殺しちゃったね。お前」
「犯罪者≠カゃん。可哀想に、これじゃもう二度と真っ当には生きていけないね」
 くすくすと笑う声。立たされた足場の、その不安定さといったら。
 ああ、どうして。どうして今更になって彼らのことを思い出したのだろう──ああはなりたくなかった。決して、ああはなるまいと、そう思っていたのに。

 

 恋人がいた。けれど浮気をされていた。
 察しのいい人は、きっとこの二文だけで事の次第は大方想像がつくことだと思う。数分前まで、私と恋人は言い争いをしていた。とはいえ特段取り立てるようなこともないありふれた話だ。きっと同じような話は世の中に吐き捨てるほどある事だと思う。小説や映画の台本にするにはあまりにありきたりで、見ていて思わずあくびも出てしまいそうなほどに退屈な話は、しかし私の心をぐちゃぐちゃにするには十分だった。
 安定した地盤を崩されたような喪失感と、何もかもを裏切られたような絶望感は、私の視界を真っ暗にした。自分がどこに立っているのか、そもそも地に足がついているのかも分からない。胃から迫り上がる嘔吐感を抑えながら、後ろから口汚く罵る恋人を無視してふらふらと帰路を辿る。それはありふれた話だ。使い古された筋書きの悲劇。けれども、確かにその人は結婚を考えていた人だったのだ。私にとっての最愛の人であった。──今となっては、もう過去の話となってしまったが。
『殺すつもりはなかった。事故だった』──ドラマでよく見聞きしたその言葉を、自分が本当に使うことになるとは、昨日までの私なら考えもしなかったことだろう。そもそもこんなことになるなんて思ってもいなかった。信頼も関係も、今まで築いてきた何もかもが壊れた後にこんな結末が訪れることも、また。
 ──事故だった。私の肩を荒々しく掴んだ恋人の、その腕を振り払ったその瞬間、まさか恋人が体勢を崩すとは思わなかったのだ。不幸なことに、争っていた場所が階段上であったから。衝撃に足を踏み外した恋人は、ぐらりと身体を倒してそのままごろごろと階段を転がっていった。がつん、と強く頭を強打する音が聞こえて、そうして私を罵っていた口は沈黙した。しん、と静まり返った夜に広がるのは、赤い血溜まりと私を責める木々のざわめきだけ。
「わたしじゃない、わたしじゃ、……ちがう、あいつが勝手に、だから、わたしは……」
 言い聞かせるような震えた声がぽつぽつと溢れ落ちる。動揺と焦燥感が冷えていく感覚の上を這いずって、私に現実を突きつけた。このぴくりとも動かない恋人は、死んでしまったのだろうか。それとも、ただ気絶しているだけなのだろうか。後者であればいい。後者であれば、この話はただの痴情のもつれで話が終わる。けれど、そうならなかった場合は。
 ……そうならなかった場合は、私は殺人を起こした犯罪者になってしまうのだろうか?
 湧き上がったのは恐怖だった。手にじとりとした汗が滲んで、私の中の焦燥感を掻き立てていく。ぽつんと空いた教室の空席。誇張されて広まる噂話と、遠巻きに見つめてくる人々の視線。今まで思い出すこともなかった記憶がフラッシュバックして、私を追い詰めていく。
 あの日、私は軽蔑の念を幼馴染たちに覚えた。踏み外してはいけない道を外れた幼馴染たちを恥ずかしく思った。同じにされたくないと思ったのだ。私だけは違う。私だけは真っ当に生きているのだ、と。だからこそ私は今まで清く正しく、何を間違えることもないまま生きてきたはずだったのに。
「よお、久しぶり」
 そうして、私の転落はここから始まる。





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