Jack | ナノ


Natalia


薔薇の園から鼻歌がきこえてきます。
唄も音程も何もかもがあやふや。陽光に包まれた花々の間をぬって、穏やかな風がふいてきました。
真白い石畳の上を踊るように少女がかけていきます。はずむ髪毛に慌てて蜜蜂が道をあけました。靴を園庭のどこかに脱ぎ捨ててきたのでしょうか。彼女は素足でした。


うら若き乙女は思いついたように薔薇の花びらに顔を寄せて、息を深く吸い込みました。その頬は仄かに赤く染まって、つやつやとしています。きらやかな瞳の青だけがどこまでも鮮明で、ミントグリーンのドレスによく映えています。豊かな髪は櫛でよく整えられ、留められたところからふわふわと広がり、その華やかな顔立ちと相まって、まるでお姫様のようでした。うっとりと目を潤ませた乙女は軽やかな足取りで薔薇道を進んでいきます。


「つかまえた!」


ほっそりとした足がふわっと宙に浮くと同時にきゃっと高い声があがりました。背の高い男が後ろから包むようにして彼女を抱き上げています。男は、真っ直ぐの長い髪を一つにまとめた、壮年といえるほどの立派な紳士でした。


「イヴァン!下ろして頂戴!サーシャに見つかってしまうでしょう」

「そうはいかないよ、ナターシャ。今日は弟の味方をすると約束したんだ」


男が戯れに彼女の首筋に顔を埋めて、その場でくるくると回転してみせました。二人分の笑い声が庭園に広がっていきます。


庭の方が何やら騒がしいぞと一人の青年が顔をのぞかせました。


「ここにいた!ナターシャ、見つけたぞ!」

「ほら、サーシャが来ちゃったじゃない。イヴァンのせいよ」


サーシャと呼ばれた青年は、少女よりも二つ三つ年嵩(としかさ)が上と見えました。未だ少年のような顔立ちをして、淡い色の髪が陽の光を照らし返してきらきらとしています。目元は兄のイヴァンとよく似ているけれど、鼻や唇はすっとしていて、顎も細いのです。麗しいサーシャはナターシャの一番のお気に入りでした。


「サーシャ、このお転婆を捕まえたのは私だよ」

「また僕のことを裏切って、彼女をどこかへ隠してしまうの?」

「いつお前を裏切ったって?」

「兄さんはナターシャに特別扱いしすぎているよ。弟の僕よりも可愛がっているじゃないか」


ナターシャはイヴァンに抱えられたまま不満そうにしてしました。


「あのねえ、わたしは淑女(レディー)なのよ。ものじゃなあないの」

「あのねえ、淑女は裸足で駆け回らないよ」


サーシャはぬいぐるみのように抱えられたままのナターシャの頬をちょんちょんと指で小突きました。得意そうな顔を目の前に、ナターシャは顔を紅潮させて、恨めしそうにしています。


「サーシャは私をからかって。イヴァンみたいに優しくしてくれないといや!」


ナターシャは爪先でサーシャの脇腹に軽く蹴りをいれます。しかし、かすりもしません。まんまと避けられてしまいます。


「こんなことをするナターシャは淑女どころか女の子ですらないよ」

「なんですって!」


サーシャを捕まえてやろうと、ナターリアは勢いイヴァンの腕をすり抜けました。笑い声がいつまでも絶えず聞こえていました。
三人の賑やかな時間。思い出の薔薇の園はいつだって、彼らをあたたかく囲んでいました。


ナターリア・ロマノフ。
彼女はロマノフ家の一人娘として生を受けました。ナターシャの愛称で親しまれる彼女は、蝶よ花よと大切に大切に育てられてきました。が、十三歳のときに、当主である父が病に倒れ、亡くなってしまいます。母はやつれて、実家に帰ったきり、二度と戻りませんでした。年若く家督を継いだナターシャは貴族のしきたり通り、婿養子をとることになりました。
夫となったのは当時十七歳の青年、アレキサンドル・イワノフ。サーシャでした。


「私たち、ついに本当の家族になるのね」


ナターシャは、園庭を見つめて言いました。その後ろ姿は、十五の可憐な乙女に過ぎません。サーシャはゆっくりと彼女に歩み寄り、その傍に立ちました。


「僕はね、ナターシャ。君のことを、ずっと僕の、僕だけの人にしたかった。本当は、ずっと、僕だけの天使にしておきたかったんだよ」


ロマノフとイワノフの両家は先代から親交が深く、この結婚も父親に決められていたものでした。


「だいすきなサーシャ、お誓いするわ。あなたも、私だけの人でいてね。私だけの天使でいて」


初夜の二人は静かな薔薇の園を見下ろせる部屋で、いつまでもいつまでも微笑み合っていました。


そうして、間も置かず、二人の間に男の子が産まれました。待望された、ロマノフ家の正統な後継者です。先代の名をとって、ミハイルと名付けられたその男の子は、皆から祝福された子でした。


「さあ、抱かせておくれ。ああ、この子はなんてかわいいんだろう!」


薔薇の園で、ロマノフ家の長男ミハイルは、叔父イヴァン・イワノフに抱かれていました。ミハイルの真白い肌は玉のようで、触れると、きゃっきゃっと愛くるしい笑顔を見せます。


「ミーシャは、まだこんなに小さいのに、僕よりも兄さんに似ているね」


サーシャは兄が息子を抱くのをうっとりと眺めながら妻の手を握りました。


「それなら、きっと優しい子になるわ」

「ああ、きっと……」


ミハイルは、ミーシャの愛称で呼ばれ、誰からも愛されていました。ナターシャは幸せでした。
満ちた気持ちで日々を過ごしました。


数ヶ月後、サーシャが寝室のバルコニーから転落し、薔薇園に沈んでしまうまで、確かに家族は幸福に包まれていたのです。



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