Zerbino
夕焼けた空は群青に色を移ろいゆく。溶けるようにヴァイオリンの音は止んだ。
「このようなところに護衛もなしに現れるなんて、あまりに軽率ではありませんか。ゼルヴィーノ社長」
「そう言うな。このささやかな外出も数少ない楽しみの一つだ」
「アンチゼルヴィーノ派に殺されても知りませんよ」
ニケは呆れ顔を隠しもせず、冷めた紅茶を啜った。色と香りがついただけの温い水に、ひどく顔をしかめた。ゼルヴィーノは入れたての香ばしい珈琲を片手ににやにやしている。
「何ですか」
「ククク……。いや、すまない。それで?どうだった?ジャックの方は」
「……その御様子だと、彼女のこと、ご存知だったのでしょう?」
「はて、なんのことやら」
ゼルヴィーノはとぼけた顔をして肩を竦めてみせた。その瞳は楽しげにきらりとしている。
「一体、何を企んでいるのです?」
ニケは眼鏡の奥の黒いかげをさっと彼へと投げた。
「あのティーとかいう少女は…」
「ほう、あの子はティーというのか」
ゼルヴィーノは僅かに顔を綻ばせた。和らいだ目元に穏やかな皺ができる。
「ジャックはどうだった?」
「あなたの思惑通り、とてもお気に召したようですよ」
「こらこら、あまり勘繰るな。悪い癖だぞ」
ニケは昔からこの男が苦手だった。こちらの挑発には決して乗ってこない。乗せるつもりが、気づけば自分が乗せられている。ニケにしてみれば、いずれも屈辱的だった。社長の秘書を任命された時は己の出世をよろこぶ以上にゼルヴィーノのそばで仕事をせねばならぬ苦痛を思って顔を歪ませた程だ。
「いつまでも子ども扱いしないでください」
「ああ、すまんすまん。これは私の悪い癖だな」
ゼルヴィーノは屈託なく笑う。
「疑い深いお前に隠し通せるとは思っていないさ。それでも、今はまだ秘密にしておきたい。これ以上は、きくなよ。詮索もするな」
ゼルヴィーノは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。しかし、その言葉に冗談の響きはない。真剣そのものだった。
「……そろそろ行きましょう。私一人ではあなたを護ることはできませんし」
「お前にも私を護る気があったのか」
「職務放棄は契約違反ですから」
二人の男は席を立った。群青の空に一等星だけが強く輝いている。
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