「次の休み、どこかに出かけようか」
青地の革のソファに散る長い髪が、ふわっと起きあがる。
「どこがいい?」
目の前に仁王立ちしている男の膝の頭をそっと支えにして、少女は身体を起こした。重たげな瞼をあげて、そっと微笑する。
「ジャックの行きたいところ」
「俺の?」
「そこがいい」
「……そうか」
男は内心大いに照れて、それ以上は何も言えなかった。彼は響きの良い誘い文句を思いつくような器用な男ではない。口のうまい男ならば「パスタが美味しいと噂の店がある」だとか良い口実を用意して、滞りなく約束を取り付けられるのだろう。
確かに、装飾の華やかな店の前を通れば、少女もここへ連れて来たいと思った。ワインボトルの中に電球を入れて、天井から吊り下げただけのランプ。ぼんやり灯る濃紫、深緑が薄暗い空間によく映えている。光を帯びた酒瓶はロマンチックに揺らいで、少女を非日常の世界に誘うことだろう。そして、男も人魚姫とのディナーを楽しむ。深い海の闇を宿した瞳が歌いかけてくる。引き寄せられたらもう陸へ戻ることはできない…………。
写真機があったなら、目に付いたものを片っ端から撮っていっただろうし、現像したなら真っ先に見せたいと思った。街に出ると同じものを一緒に触れて、味わい、見て回りたくなる。細い路地から見上げる夕焼け。緋色に染まる街景色に二人。煉瓦(レンガ)の道を少女の靴が音を鳴らして歩く。そんな風に、心が動くものはすべて、共有したかった。二人だけのものにしてしまいたかった。
なんだって良かったのだ。ただ、たくさんの「はじめて」が欲しかった。二人だけの思い出が積もっていってくれたなら嬉しかった。
そんな恥ずかしいことを言えやしないけれど。
子どものような欲求を隠して、男は少女を外へと連れ出す。手を引いて、行ったことのない地へ赴き、あるいは馴染みの地すら、少女と過ごした場所として上書きしてしまう。それは男を夢中にさせるほどに鮮やかな幸福だったけれど、時折気が滅入るほど男を不安にさせた。
幸せの後をついてまわる悲しみを拭いきれなかった。
少女がいなくなったら。
優しさに溢れた記憶は地獄の責め苦に一変する。思い出の日々は妄執となり、男を苦しめる続けるだろう。その恐るべき二面性を既に身を持って経験していた。そうやって脅かされながらも、それでも男は少女を光の産物であるかのように想っていた。危ういほどにもたれかかっていた。少女が行ってしまえば、彼の心は粉々に砕け散ってしまうにもかかわらずである。
「たのしみだね」
少女のうきうきした顔を見れば吹き飛んでしまうくらいに、今は小さな苦悩であるのだが。
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