「お前…血、吸っただけか」
園村の目に浮かぶ恐怖の色が、濃さを増した。
「熱い」
「っ、」
ほんの一瞬、たったの数センチ、彼に触れられたそこが…信じられないほど敏感になっている。“興奮”しているみたいに、内側から何かが蠢いて滲み出てくるような…息苦しさにネクタイを緩めると、園村の目が俺の首筋を凝視した。そしてすぐに、あからさまに目をそらした。
「愛嬌くんには、今後…関わらないようにする…から、このこと、忘れて……」
「……そんなに、飢えてたのか」
意識を朦朧とさせるほど。
息を荒くして顔色を悪くするほど。
理性を失うほど。
それを今になって後悔するほど。
常に何か隠そうとし、それを誰にも悟られないように振る舞っていたくせに、こんなに簡単に隙を見せるなんて。それも、今まで一言も口など聞いたことのない一クラスメイトに。
「…ごめん……」
「なあ、答えろよ」
「……」
今にも泣き出しそうな顔だ。俺を見ようとしない目は、涙の膜を拵えている。
「そのむ─」
「そういう、生き物……なんだ」
聞き逃してしまいそうな声が、俺の声を遮った。それも、衝撃的な言葉で、だ。
「…そうか」
「っ、気持ち、悪いでしょ……だから、もう…」
「もう、何?」
濡れた長い睫毛が目元に影を落とし、琥珀色に光る瞳を隠した。窓から吹き込む生ぬるい風は、湿気臭いにおいを纏いながら、俺たちの間を通り抜けていった。
「もう……近づかない、で…」
声が消えたその瞬間、透明の液体がついに頬を伝った。
「このこと、は…バラしてくれてもいい。僕は、本来…こんなところに居ちゃいけない生き物、 だから」
ゾッとした。目から零れた涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる、その美しさに。そして、その真実を聞いて、園村に触れようとした自分に。
「それ、俺みたいな奴に、言って良かったのか」
「それはっ…愛嬌、くんが…」
「ああ、わかってる。わかってるけど…」
「もう、近づかないで…愛嬌くんみいな人が、こんなに近くにいたら…ダメになる」
「…は」
「僕は…もう、こんなこと…しないって決めたのに」
一粒落ちてしまえば、もうどうでも良くなるのか、園村の目からは数えきれないほどの涙が溢れていた。濡れた頬を拭いながら、言葉は紡がれていく。
「お願い、だから…もう」
「─もし、あのままだったら、お前はどうなるんだ」
「っ…わからない……消えるなら、消えてしまいたかった。誰かを、傷つけたり…怖がらせたりするくらいなら、僕は…」
ああ、そういうことだったのか。この男が、必要以上に人と関わらなかったのは。柔らかく微笑むことができるくせに、誰とでも距離を置いていたのは。存在を消して大人しくしていたのは。全部、全部彼の…園村蓮の、唯一出来る“人間らしい”ことだったのだ。欲望のままに、こんなことをしない為に。
「消えた方が、良いと思ったんだ…日の光を浴びて、君たちと同じものを食べ、同じように生活して…そのまま、消えたかった…」
「泣くほど、この行為をしたくなかったのか」
「…っ……」
「泣くほど、消えたいのか」
俺は…園村蓮を、どうしたいんだろう。
確かなのは…この綺麗な、美しすぎる存在が、自ら消えたいと嘆いた事への僅かな怒りと、それに対する驚きがあるということ。
「どれだけ、我慢したらああなるんだ」
「…三ヶ月……」
「三ヶ月?」
「っ、それの代わりになるサプリ、や…僕らの生活で…流通してる、誰のものかわからない、缶に詰められた…もの、全部、断ち切ってから」
三ヶ月何も食べていない状態…ということなのだろうか。人間ならばとっくに死んでいるだろう。
「光は、あまり…得意じゃない、けれど…君たちと同じように浴びられる。でも…ここ何日かは、太陽が、怖くて…」
触れたいと思いながら触れられずにいた手。熱くて、熱くて…どくどくと血液の流れを感じる事が出来るそれを、やっと彼の手首に伸ばした。
「っ…ね、も……」
「どういう意味だった、さっきの」
「え…」
「“愛嬌くんみたいな人”って」
「あ、それ…は」
愛嬌くんみたいな人。俺みたいな人間が、“嫌”、“嫌い”、“怖い”、“不安になる”、一体、なんだ。何でも良いだろ、と頭では処理しようとしているのに、なかなか消化されない。おそらく、そうであったとした時、俺がそれに少なからず腹をたてるとわかっているからだ。
「俺みたいな人間が、一番厄介、か」
「ちがっ…」
熱い…。触れた手の、自分の熱さに目眩がする。けれどそれ以上に園村の手も熱を帯びている。
「……っ、にお、い」
「ニオイ?」
「…味は、みんな…違うんだ……その、匂いも…それぞれ、好みがあって … 君の、それが…」
顔を真っ赤にさせ必死で言葉を繕う園村の頬は涙に濡れて艶めいている。そこから視線を外さないまま手首を引き、自分へとその体を引き寄せれる。
「っ、ダメ…」
「なんで」
「……戻れ、なく……なる」
「何処に」
「それは…」
本能に背き続ければ、いつか変われると思っているのだろうか。理性を保つことができなくなれば、もうその生き物として真っ当するしかないと思っているのだろうか…何にせよ、俺には分からない、理解できないこと。園村は馬鹿じゃないし、自分の事だって本当は分かっているはずだ。
「……今なら、まだ…我慢していられる…だからそのうちに…」
「消えるなんて、許さない」
「え、あっ…」
泣いた所為で濡れた唇。そこを、乾いた自分のそれで塞いだ。
自分からしたくせにそれが“キス”だと気づくのに、時間がかかった。俺は…こうしたかったんだろうか。
「っ、あい…ん、ゃ…」
ここで初めて、彼を見たあの日から、ずっと。あの時受けた衝撃は、俗に言う“一目惚れ”だったんだろうか。
「だ…」
ベッドに座る彼に、顔の位置を合わせようと曲げた腰が悲鳴をあげはじめ、俺はそのままベッドへ倒れ込んだ。園村に、馬乗りになるように。
「愛嬌、く…」
「なあ、どんな匂いすんの」
あの日、眠るこの男を…俺は抱きたいと思ったのかもしれない。連れ込んだ女の子より、遥かに綺麗だった、園村蓮を。あの日からここへ来なかったのは、その思いに気づきたくなかったからかもしれない。それから一年後の、あの体育を抜けた日、なんとなく吸い寄せられるようにここへ来たのは、本当に彼に引き寄せられていたから、なのかもしれない。あの寝顔と園村蓮が繋がってから 、彼を目で追うようになったのは、俺が園村に“恋い焦がれていた”からだったのかもしれない。 すべて、そういうことだったとしたら…
「お前も、相当良い匂いする」
「はなし…」
「突き飛ばせるだろ、さっきの力があるなら」
「っ…なんで……こんな…」
涙は姿を消し、代わりにそこには恐怖と怯え、その奥に、絶望が生まれた気がした。
「なんで…?それは…お前が、綺麗だから…かな」
あっさりと、口から出た言葉。普段の自分なら絶対にこんなこと言わない。言わない前に、思いもしないのだ。なのに…彼に対しては、素直にそう思ってしまう。思わずには、いられない。 それも、口に出してしまうほど、だ。
「からかわ、ないで…面白がってるだけ、なら…僕に構わないで…」
「蓮」
「っ…」
「蓮」
耳元へ口を寄せ、その名前を囁いた。
“蓮”名前まで、綺麗な響きを持っている。
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