虎の目で見る世界は、僕が今まで見ていたものと同じだった。
同じ職場で同じことをして、同じ家に住み、同じ本を読む。普通の生活が戻ってきた様に感じた。ただ、違うのは鏡に映る自分。そして時折フラッシュバックの様に瞼の裏に浮かぶ僕の知らない光景。それが虎のもので、僕が見たいと望んだ彼の見ていた世界であると思った。もちろん、この眼球が昔の映像を再生するなんてありえないのだけれど。それでも僕にはそう思えたし、気の所為なんかじゃないと言い切りたかった。
「あ、蓮さん」
手術を受けたことは誰にも話していない。
槙さんにも、結城先生にも。なんとかやってみるとだけ口にして、スタジオミュージシャンへと戻った。ただ、目が悪くなったということは告げて、サングラスをかけて毎日を過ごした。明らかに僕のものではない瞳を、他人に晒したことはいまだになくて。見せられないわけでも、見られたくないわけでもない。ただ僕が、誰にも見せたくなかったんだ。僕だけのものであってほしかったから。
「今日はもう終わりですよね」
「あ、うん」
きっともう、僕が彼に会うことはない。
この目を貰ってからもうすぐ一年が経つ。出会った季節と同じ、夏が終わり秋の匂いがするのに。虎の手がかりなんて一つもないから。いや、調べれば分かることなのに、出来ないのは虎がこの状況を望んだから。由嶌先生は絶対に彼のことについて口を割らなかった。虎は、もう会わないことを望んだ。僕は自分から、その一線を越えられないまま立ち竦んでいる。
「お茶しませんか」
「ああ、いいね」
建物から一歩外に出ると気持ちのいい気温と湿度、そして心地良い風が肌を撫でた。目が眩むほどの太陽の陽射しに、視界は時折蜃気楼のように揺れる。空も遠い。
「どこ行こうか」
「じゃあ…駅前の…」
もう戻ってこない、あの十日間を、僕は一日だって忘れたことはない。
「蓮さん?」
「うん、?」
「どうかしました?」
「なんでもないよ」
世界の違う彼と出会って、一目で恋に落ち、僕の世界は色を変えた。望んだ世界を与えてもらった。そんな夢物語みたいな話。きっと、どんなお話もここで終わる。読み手は両者のその後を知るのに、当の本人たちは“僕らは空でつながってるから”なんて淡い期待だけを残して締めくくられる。僕らも、同じになってしまうんじゃないだろうか。このまま、綺麗に終わっていく…
そう、これで。
「あ、あんなところに喫茶店あるんですね」
「え?」
「ほら、あっち…奥の道ですかね?喫茶店っぽい看板見えますよ」
「っ、ああ…あそこのクリームあんみつ、すごく美味しいんだよ」
「え、そうなんですか?ていうか、蓮さんあのカフェ知ってたんですか」
物語は、終わりへ。
「行ってみる?」
「はい、行ってみたいです」
向かっていた目的地はすぐそこなのに、僕らは向かう方向を変えた。入院するまで、僕の行きつけの一つだった、本棚に囲まれた喫茶店。そう、虎にも紹介したお店だ。退院してから数えるほどしか足を運んでいないのは、何となく怖かったからなのかもしれない。偶然会えたらいいな、そんな期待を打ち砕かれるのが。もし会えたとしても、気づかないふりをされたらと。
近づくそこ、ドアの前には一匹の黒猫。軒下の陰でぐったりと横になるその猫をひと撫でしてから、懐かしいドアを押した。
「いらっしゃい…おや、蓮くん。久しぶりだね」
「お久しぶりです、マスター」
見慣れた狭い店内、他にいたお客さんは隅のテーブルに座る青年が一人。静かな店内には香ばしいコーヒーの匂いが漂っている。
「蓮くんはいつものでいいかい?お嬢さんは…」
青年の黒い髪が揺れ、視線がそちらに向く。涼しげな切れ長の目、男らしい体つきには不釣り合いな華奢なスプーンを持った彼は、甘いクリームあんみつを頬張っている。僕は、その青年から目が離せなかった。
「じゃあ、クリームあんみつを」
もっとよく見たくて、思わずサングラスを外していた。明るくなった視界で、その青年は僕の視線に気づいたのか、静かにこちらを見た。
漆黒の瞳だ。
まだあどけないと感じたのは、“彼”と比べたからだろうか。
「っ!あんた…」
よく似ている、目つきも、声も。
「その目…」
勢いよく立ちあがった彼は、スプーンを握ったまま僕へと歩み寄ってきた。背丈は彼よりないけれど、それでも僕より大きくい。ぐっと顔を覗き込まれて 、青年の眉間にはシワが寄せられた。その形さえも、よく似ているように思えた。
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