「……っ、」
よく、眠れた。
そう思うより先に、開いたはずの目が、何も捕らえなかったことに声を失った。
真っ白だった。闇じゃない、乳白色。
僕はとうとう、光を失った。
どうやって帰ろう、その前に服も着なければ…そんな、混乱よりも先に気付いてしまった。隣に、何もないことに。やっぱり虎は、いなくなってしまったんだ。自分の居るべき場所へ、戻って行った。そうだ、これで、よかったんだ…
泣いているのかさえ分からなかった。ただ、持ち上がらない体に、全てのことがどうでもよくなってしまった。鉛のように重い体、もういっそ、このまま眠り続けてしまいたい。夢の中でなら、色も光もあるだろうから、もしかしたら、彼にも─
「目が覚めた?」
「っ!」
目を閉じた瞬間だった。聞いたことのない声に、心臓が跳ねた。女将さんだろうか、いや、でもそれにしては若い声だ。
「ちょっと待って」
言葉の後、知らない指先が僕の顔に触れた。何かを解くように、頭が解放されていく感覚。
「調子はどうかしら」
そして、滲んだ世界が、そこにはあった。
見えるはずのない、僕を覗き込む顔。
「わけが分からないって顔ね」
はっきりとは分からない。けれど視界は徐々にクリアになっていく。何とか動いた手を目の目に翳せば、ちゃんと自分の手が現れた。
「まずは初めまして。わたしは由嶌、医者よ」
ショートカットらしい髪が揺れるのが、分かった。それから、医者にしては妙に若く見えるということも分かった。
「園村蓮くん、貴方の目を手術しました」
「……え?」
目を…そうだ、こんなにもしっかりとものが見えるはずなんてない。
「左目だけ、移植させてもらったわ」
「……あの、意味が…」
「そうね、貴方が寝ている間に手術したんだから、分からなくて当然だけど…はあ、本当に無茶苦茶よね。分かりやすいように言えば、貴方の意志は関係なく、眼球の移植手術を施して、貴方の失明していた左の目を復活させたの。この手術の費用は全額支払い済み」
移植…だめだ、考えがついてこない。
「貴方は、視力を取り戻した。辛うじて見えている右目も、近いうちに失明する。せめて、片目だけでもって、自分から眼球差し出した馬鹿に頼まれたの。もう手術はしちゃったし、しかもこれは合法じゃない。私は闇医者だし、そもそもこんな勝手なこと、ただじゃ済まないわ。問題視するのは貴方の自由だけど…」
解放された時より、ずっと澄んだ視界。
こんな風に見えるのはいぶりだろうか…そうだ…
「あ、の…鏡、を」
目を…
「見て、分かるの?」
見れば分かる。見れば…渡された手鏡を覗き込んで、僕はやっと理解できた。
「…なんで…」
自分の右目とは、明らかに色の違う左目。
一寸の濁りもない漆黒の瞳は、僕があの日屋上で出会ったもの。何度も何度もこの瞳越しに自分を見た。最後に見たのだって、この目で…
それは虎のもので、虎は僕を眠らせたままここへ連れてきて、勝手に手術を依頼した。僕がそんなことを望まないと、提案すれば拒むと知っていたから…
「貴方の仕事のことはよくわからないけれど、たぶんなんとかなってるから。あの馬鹿の権力なら、それくらいなんでもないから」
ふわりと微笑んだその人は、どこか虎に似ていた。
「回復するまで、ここにいて。食事は用意する。それに、術後のケアもしなきゃならないから」
心臓がうるさい。今すぐ、虎に会わなきゃ…でも、どうやって?虎はどこに住んでる?連絡先は?
愕然とした。たくさんのことを話したのに、話したはずなのに…僕は虎の居場所を知らない。
「あの、」
「もう少し眠りなさい。まだ目も慣れていないだろうし、しっかり休んで」
どうして…涙が零れた。でも、涙が出たのは右目だけだった。虎の目からは涙なんて出なかった。そうだ、泣きたいのは自分だと言ったくせに、虎は最後まで泣かなかった。僕だけが泣いていた。
苦しい。どうして…
意識はそこで、途切れてしまった。
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