「“天才の息子”そんなレッテルを貼られて、ステージに立ちたくないから。…立つ勇気も、覚悟もないから。…そう決めたのは、もうずっと昔の話。その時から、僕の世界は形を変えることも色を変えることもなくなった」
“僕の父親は、天才ミュージシャン”
持って生まれた音楽の才能、誰もが認めるセンスと、そしてギター。きっと知らない人なんていないくらい の。親の七光りで世に出るなんてなんでもないことかもしれない。批判されたって、それから実力があるんだと思ってもらえればそれでいい。他の人より有利な立場だって、利用したらいい。僕にそれができないのは、父親を越えられないとわかっているから。それでもギターを続けたいから。その葛藤さえ、もうずっと昔に捨てた。捨てて、変わらない世界を見続けていた。
「まあ…戸籍上はもう、親子じゃないんだけどね」
「は?」
勝手に、抜いてしまった戸籍。
僕にはもう家族がいない。もともとタツロウの隠し子のようなもので、血の繋がりだってあるのかないのか分からない。その言い訳を、もうしないように。僕は、苦痛から逃げたくて、一人になった。
「それでも世界は変わらなくて…でも、生活するのは困難だけど、音楽の世界で生きていくのに目なんて見えなくてもいい。この耳が、手があれば、僕には充分。気にするほどのことじゃない」
そう、それでも世界は変わらなかった。
家を出たのは何年も前で、それも勝手に出ていた。タツロウは驚いていたけど怒りはしなかった。それから少しずつ荷物を運び出して、今はもう、タツロウの部屋に僕のものは一つもない。
「じゃあなんで、そんな顔ー」
「…貴方に…出会ってしまったから」
薄暗いそこで、虎はじっと僕を見据えたまま口を噤んだ。揺らぐことのない漆黒の瞳。
「僕に見えていた世界は、ずっと変わらなかったのに…貴方に出会ったあの日、まるで今までの世界が崩れていくみたいに色を変えた。視力を失うと告げられてから、初めて…僕はまだ何かを見ていたいと思った」
「…俺、なんかを?」
「“なんか”じゃない。僕にも理由はわからないけど…一瞬で全部持ってかれちゃったから」
光を纏った、影に。
「あの日…俺はあんたを、待ってた」
「……え、」
「いや、蓮を待ってたわけじゃない。でも、結果的に蓮になった」
「どういう…」
「俺は昔から他とは違うものを背負ってた。運動も勉強もやらされたし、普通に学校にも通った。でも周りは俺が“普通”じゃないことを知ってて、いつも一歩引かれてた。大学出るまでそういう状況にいたけど、それを不満に思うより先に理解した。受け入れるしかなかった」
同い年に見えないと思わせた貫禄は、子供のころから纏っていたのだろうか。
「それはこの先も変わらないし、変わってほしいとさえ思わない。でもあの日、蓮に会った日。護衛もつけないで病室を出て、行く宛てもないのに何故か足は勝手に屋上に向かってた」
「……」
「誰もいないあの静かな空間で、考えてたんだ。もし組の奴が来たらもう二度と屋上へは来ない、関係ない人間が来たら少しでも言葉を交わそう、って。期待はしてなかった。階段を上がってくる音がして…エレベーターを使わずに来たってことは、やっぱり組の奴か、って諦めて空を仰いだ」
そう、あの日は確かに階段で屋上まで行った。運動不足だなって、思ったから。
「でも、違った。居たのは蓮で、ああ、神様か、って思ったんだ。陽を受けて琥珀色に光った瞳に。馬鹿馬鹿しいって思いながらも、この人のおかげで俺はまたここに来れるなって思った」
「…じゃあ、あの次の日…」
「蓮に会う為に行った。それで、本読んでる姿にまた同じことを思った。初めて、誰かに会いたいと思ったし、たぶん俺も、最初の一瞬で全部持ってかれたんだと思う」
まっすぐな言葉に目眩がした。槙さんの揺れる髪を見てする目眩とは、違う。
「……蓮」
「、ん?」
くらくらする。
「キス、していいか」
近づいた虎の顔。僕は目が逸らせなくて、たまらなくなって、頷いた。
「…っ」
僕は虎が好きなんだと思っていた。最初に受けたあの衝撃は、一目惚れからきたんだと。それが、間違いじゃなかったと、重なった唇に悟った。
「へっ、うわ」
唇に残った熱の余韻に浸ろうとした僕は、軽々と虎に担がれてしまった。何だと問う前に、虎は襖を開けた。そこには案の定二人分の布団。時代劇で良く見る様な…それよりは地味だけど、そんな雰囲気の…
「と、虎…」
「抱かせてくれ」
布団へとおろされて、僕はくらくらする頭で精一杯考えた。
“蓮のこと、今日だけもらっていいか”病院を出る前に言われたあの言葉は…やっぱりそういう意味で…
「っ、んぁ…ま」
「待たない」
「でも…だって、こんな」
押し倒され指を絡め取られ枕に縫い付けられて、頬に感じる虎の熱い息。 近すぎる整った顔は、獲物を狩る猛獣の目の様で。揺らぐことのない漆黒の瞳には僕だけが映されている。
「虎と僕は…違う世界のにん─」
「同じだって言ったのは蓮だろ。同じ“裏側”の人間だと」
「それは…」
「違うのは、俺は表には立てない事だけだ。一生、胸張って生きる事なんてできない。でも蓮にはできる。蓮は今すぐにでも表舞台に立てる。蓮を自分のものに出来ないことは分かってる。でも、頼むから今だけは…」
「ふ、ぅ…ん、」
火傷しそうに熱い舌が、唇を割って口内へと侵入してきたと思えば、またすぐにそれは離れ。
「蓮の中に、俺を残したい」
そう呟いて彼が触れたのは、僕の瞼だった。もう光を失ってしまった、左の目を宿す瞼。右だってもいうぼんやりとしか世界は映っていないけれど、今はその僅かな視力で彼の表情を認識できるほど近くに顔がある。
色を失っていく、それを恐怖だと思ったことなどなかったのに。どうして今、こんなにももどかしいのだろう。もっとはっきり、目の前の“愛嬌虎士”を捉えたいのに…
「この目にも、俺が残るように」
出会ったあの日は、空の色も雲の形も虎の目も病衣の色も、はっきり見えていたのに。こんなにはっきり覚えているのに。
「っ、そんな…最後みたいな言い方…」
“みたい”じゃない。最後なんだ。
今日が終わって、明日が来たら。彼の傷は塞がり、退院した。僕はもう入院していてもどうにもならないから、適当に退院して。色を失う時を、一人で迎えるのだ。そうやって繋がりがなくなって、元に戻るだけの話なのだ。その境目が、まさに今なわけで。
僕らがあの病院で出会ったことは褪せていき、曖昧になっていく。忘れていくみたいに、どんどん滲みながら。
今彼の目に映っているのは僕。僕だけなのに、明日になったらそこに僕はいない。僕が彼の瞳に映ることなど、この先二度とない。彼は極道として、僕はスタジオミュージシャンとして、生きていく。
「悪い…俺が、あんたに…」
温かい指が、そっと頬をなぞった。そのまま大きな掌に包み込まれ、視界がさらに滲む。
「蓮に、惚れたから…」
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