虎がここを去る日。
振り返ってみれば、僕が彼と言葉を話したのはほんの数回で。僕は昨日あれから夜中まで町をぶらつき、ここへ戻ってきてそのまま着替えもしないで眠りについた。おかげでシャツはしわくちゃで、けれど病衣で虎を見送るよりはましだろうかと、会える保証もない屋上へ出た。朝食をとってすぐに向かった屋上は、秋の肌寒さをはっきりと伝えている。息も白くなっているのかもしれない。目を凝らしてもそれは分からなくて、残念だった。
清々しい空気を胸一杯に吸い込み、昨日のことを少しだけ考えた。槙さんからの名前で埋め尽くされた着信履歴を見るのが怖くて、やっぱり携帯の電源は落としたまま。立ち去り際に見たタツロウの悲しげな顔。ちくりと胸を刺すような痛みを感じ、目を閉じた。
「蓮」
「、」
聞きなれない足音だった。
けれど僕を呼ぶその声は、風にのせられて漂ったその匂いは。
「……虎」
確かに彼のもの。
そっと目を開ければ、目にするのは二度目のスーツ姿の彼。革靴の硬い足音だったから、聞きなれないと思ったんだろう。
「今日、退院…だよね、おめでとう…?」
「どうして疑問系なんだよ」
「…分からない、から…」
「分からない?」
晴れやかなはずなのに、離れることが寂しいと感じて不安になっている。
「…今日で、さよならなんだって思ったら、素直に喜べなくて」
そう、分からない。どうしたらいいのか。
思わず俯いた僕の、落とした視線に虎の足が映り込む。えっと思う間もなくそっと抱き寄せられ、一瞬息が止まった。状況を理解してしまえば心臓の動きは加速するばかりで。
「…と、とら?」
「じゃあ…」
強く抱き締めながら、耳元で囁かれた低音。僅かな掠れが妙に色っぽく、また心臓がぎゅっと痛んだ。
「蓮のこと、今日だけもらっていいか」
「どういう…意味、」
問わなければ分からないほど、子供ではないけれど。
「そのままの意味。今から、俺と来てくれるか」
「っ…」
抵抗なんて、拒否なんて、できない。いや、するつもりはないんだ。僕は虎の手を握り、頷いた。
それから虎につれられてやってきたのは、大きな旅館だった。ものすごく古い、けれどこれ以上ないほど上等な。
出てきた女将とは馴染みなのか、虎は簡単に話をして僕を振り返ると再び手をとった。その手に導かれるまま長い廊下を抜け、途中で外に出て、一戸建ての部屋へとついた。
「え、っと…」
「ここだ」
「え、ここに泊まるの?」
「嫌か?」
「いやそうじゃなくて…」
木と塀でしっかり囲まれたそこは、明らかに普通の部屋ではない。一棟で一部屋の広い座敷には大きなテーブルと座椅子。縁側と、露天風呂。閉まっている襖の向こうには、きっと二人分の布団が敷いてあるのだろう。
ここへきて妙に緊張してしまった僕は、座ることもできないで突っ立っていた。
「風呂どうする」
「え?」
「ここにもあるけど、本館に大浴場もある」
「あ…虎は、どうするの」
「いや、俺は向こうにはいけない」
シャツの袖のボタンを外し腕時計も外してから、虎は「背中の」とだけ付け加えた。ああ、そうか、共同の大浴場には入れない。
「俺はここで済ませるから、蓮は向こう行ってきたらいい」
「え、でも…」
ほら、と浴衣とタオルを渡されて、大浴場へと促された。
お風呂は本当に気持ちよくて、こんなのは初めてだと驚くほど。部屋へ戻れば、既に浴衣を着て並べられた料理を前に座る虎がいた。湿ったまま後ろへと流された髪や、見慣れた病衣とは違う浴衣からの肌の見え方に、心臓が痛む。
「お茶しかないけど、酒はどうする」
「お茶にするよ」
きっと、湯上がりなんて関係なく、真っ赤な顔をしている。
「そう。じゃあ、食べよう」
豪華すぎる食事は、これもまた驚くほど美味しかった。仕事関係でしかこういう料理は食べたことがなく、そういうときは味なんて分からないから余計に。お互いにお酒は飲まなかったけれど、すごくいい気分だった。
「ご馳走さまでした」
食べ終わる頃には外はもう暗かった。
虎は部屋の電気を小さくして、縁側へ出ようと僕の背を押した。
「縁側…なんだか、いいね」
「そうか」
「うん。僕、ずっとマンション住まいで…縁側なんて初めて」
「そんなもんか…俺は家にあるから」
「そうなんだ」
タクシーの中でうとうとしていた所為で、ここが何処なのかはっきりとは分からない。けれどそんなに長く時間はかかっていない。それでもこんなに静かで、落ち着ける場所があるなんて知らなかった。
「……虎、お父さんのこと、聞いてもいい?」
「は?あ、ああ…別に、構わないけど」
「じゃあ…顔似てる?」
「顔…似てる方だと思うけど。目とか、鼻とか」
「へぇ、じゃあ格好いいんだね」
「いや…まあ、信頼はあるけど…顔は全然」
楽しそうではないけれど、嫌な顔もしない。産まれた家が極道だから、仕方なく、そんな感じはしなかった。きっと思っていないんだろう。虎はもう、受け入れられているんだ。
「……親父らしいことしてもらった覚えはないけど、ちゃんと良い親父だとも思うし」
「そう、なんだ」
「親父が、親父だったから、跡継ぐ覚悟が出来たようなもんだし」
「そう…」
「……蓮は?聞いてもいいか」
「僕の、父さん…」
“父さん”と、呼んだことなんてきっと数えるほどだ。子供の頃でさえ、呼び方には困っていた。
「全然似てないよ。僕とは、正反対」
そう、いつだって僕は…
「顔も全然違うし、性格も違う。僕が生まれた日に母さんが死んで、僕には父さんだけだったのに…全然似てないから不安だったよ」
顔も知らない母さん。恋しいと思うことさえなかったのは、そう思う前に父さんの存在が大きかったから。“父親”としてではなかったけれど。
「父さんは忙しい人だから、僕はいつも一人だったんだ」
「そうなのか」
「うん…それに父さんは…」
「一生越えられない壁。一生、僕にとっての“父さん”にはなれない人」
「……」
「僕、ギタリストだって言ったでしょ?スタジオミュージシャンとか、そういうのやってるって…僕に向けられるべき声は、僕以外にしか向けられない。評価されるべきなのは僕なのに、僕自身は絶対に評価されない。僕を唯一称えてくれるのは、他でもない裏側の人間だけ。それでもいいと思うのは…」
誰にも言うことのない真実。誰にも言ったことのない、誰にも知られていない、僕の秘密。僕の中に潜む、一番の闇。
「“タツロウ”って、ミュージシャン知ってる?」
「あ、ああ。知ってる」
「僕はタツロウの息子」
「は?」
業界のことに疎いといっていた虎でさえ知っている。
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