次の日、槙さんは宣言通り十時に僕の前に姿を現した。僕に着せる為に用意してきたスーツを押し付け、着替えてと一言添えて。ありふれたスーツは僕の体にぴったりで、けれど見覚えはないから僕のものではないだろう。ネクタイはなかったらそのままジャケットを羽織り、履き慣れない革の靴へと足を突っ込む。こんな格好はいつぶりだろうと考える間もなく腕を掴まれ、看護師さんに簡単な挨拶をしてから病院を出た。
昨日と比べると天気はよくない。けれどまだ過ごしやすい温度だ。
「槙さん」
「なに?」
「僕、何話すの?」
「何言ってるの。話があったから連絡が欲しいって言ったんでしょう?」
そういうわけではないけれど。話したいことがあると言うよりは、やっと会ってもいいかなと思えた。その程度のこと、なんて、そんなこと槙さんに言ったら怒られるだろう。だからそれは黙っておくことにした。でも自分の中ではそんな感情の変化を誉めてやりたくてたまらなかった。だって、自分から“会ってもいい”、そう思えたのはきっと初めてだから。
「乗って」
僕は促されるままタクシーに乗り込み、槙さんの告げた行き先に着くまで口を開くことはしなかった。目を閉じて、昨日見たものを描く。白い虎、漆黒と琥珀の瞳を持ち、美しいハスに囲まれ、悠々と佇むあのトラを。
ああ、会いたいな。そんな獣を背負う、温かい彼に。早く病院に戻れば会えないだろうか…いや、会えないだろう。きっと、あと一時間もしたら、僕はこんなに穏やかでいられないだろうから。今は彼を思い出すだけで落ち着けても。
「蓮、起きて」
「っ…」
「降りるわよ」
眠っていたつもりはなかったが、何度目かの呼び掛けだったのだろう、槙さんは少し乱暴に僕の背中を押して車からおろした。
降り立ったそこは見慣れた場所だった。道路を挟んだ向こうに見えるのは自分が所属している事務所で、目的地はその前のカフェ。話の流れで、事務所に入ることになったら嫌だな、なんて思いながら店のドアを引いた。
「いらっしゃいませ」
「人を待たせているのですが」
柔らかい笑みを浮かべた店員に答えたのは槙さんで、僕は急速に加速し出した鼓動に気づかないふりをして、もう一度そっと目を閉じた。
大丈夫、虎が居てくれる。白虎の残像に、そういい聞かせて。
「おー、槙、蓮。こっちこっち」
「タツロウ…あ、あそこです」
「お水とおしぼりお持ちしますね。どうぞ」
愛想のいい店員は、僕らを“タツロウ”の座る席の近くまで案内すると、そう言い残してカウンターの向こうへと消えた。立ち上がった“タツロウ”は、満面の笑みで僕を抱き寄せ、窒息しそうな力を与えてくれた。
「っ、タツロウ…離し─」
「その呼び方禁止って、何度言えばわかるんだ。昔みたいに呼べって」
「む、り…くる、し」
「タツロウ、蓮が死んじゃう。離して」
渋々と言った風に、タツロウは僕の体を離し、代わりに肩に手を置いて顔を覗き込んできた。ああ、そうだ。この人は背が高い。虎より大きい。彼も充分に背が高くそして体格もいい。でも、タツロウの方がもっと逞しい。そんなことさえ曖昧になっていたことに、思い出してから気づいた。
「蓮、久しぶり。連絡くれるなんて思ってもなかったら嬉しかった。嬉しくて、会いに来た」
泣きそうな、感極まって、そんな微笑み。僕には理解できない。タツロウがそんな顔をする意味も、今こうして喜んでいる理由も。僕には一生、分からないんだろう。
「とりあえず座りましょう。ほら、蓮も」
逆に、今すぐこの場から逃げ出したい僕の気持ちなど、タツロウには分からない。顔さえまともに見れない理由など、分かるはずもない。
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