「蓮。連絡があったわよ」
槙さんの声は、いつも刺々しい。
「はい?」
もう来ないでほしいと言ったのに。僕の意見なんて無視で、病室へやって来た彼女。けれど、それは恐らく僕が予想した“大事な連絡”が原因なんだろうと気づく。
「仕事よ」
「槙さん」
「明日、一日だけ来て。外出届は出したから。着るものは用意する。明日の午前十時に迎えに来るから、ここにいて」
「そんなに急な、仕事ですか」
「タツロウが帰ってきた」
「っ…」
一方的な言葉を押しつて、槙さんは早々と出ていった。それはありがたかったけれど…明日一日ここを出ていく…それはつまり、明日は屋上にいけないということ。今日も、行こうと思ったところに彼女が来た。今から行くにも気分が落ち込んでいてどうしようかと迷っているのに。
…いや、今はそれより何より、“タツロウ”が帰ってきた、その言葉がずしりと頭に響いて体が重い。急速にうるさくなった心臓は僕を追い詰めようとしているみたいで。“連絡がほしい”と留守電に入れたのは自分、でもそれはまだ昨日のことだ。昨日の今日で帰ってくるなんて、思っていなかった。
落ち着かない心臓を押さえながら、それでもこのままここで呻いては彼に会えない。明日も会えない、今行かなければ、彼は退院してしまう…
僕は慌ててベッドからおり、スリッパに足を突っ込んで駆け出した。屋上につく頃には酷く息が切れていたけれど、それでも整える時間さえ惜しく思えて、ドアを開けた。
「…はぁ、はあ…」
「蓮?」
手すりに背中を預け、こちらを見る虎。
初めて見たときと同じ、光を纏った、漆黒。
「どうした?そんなに、息切らして」
「…ううん、なんでも…ない」
慌てて駆け寄ってくれた彼は、昨日みたいに僕の頬に触れた。
「大丈夫か」
その温度に安心した。でも、心臓のうるささはおさまらない。
「うん…」
心拍数が上がったのは、走った所為だけじゃない。
「運動不足、だね」
本当にそれだけかと言いたげな目が、僕を覗き込んだ。
「、少し…待って、」
荒い呼吸を落ち着けてから、彼の手に自分の手を重ねて言葉を紡いだ。
「明日、急に出なくちゃいかなくなって…今いかなきゃ、もう虎に…会えないかもって思ったら、体が勝手に…動いてて」
「っ、」
「あとっ…」
あと、なに?
“タツロウ”?
「…あ……ううん、何でもない…」
たとえ虎が真実を知ったとしても、彼は絶対に動じない。し、関係ないって顔をしてくれるに違いない。それがなんだと、微笑んでくれるかもしれない。僕にとってそれ以上ありがたい対応はないのに。でも、そういうことじゃないんだ。
「蓮?」
「……なん、だろ…明日ね、人と会うんだ。…会いたくない人で、でも、会わなきゃいけない人…」
苦しい。
身体的にも、精神的にも。
「そうか…」
握った手に力が入り、虎は一瞬困惑した様にその手へと視線を向けた。けれど何も言わず、大人しく握られていてくれた。
「……あの、」
「ん?」
「背中…」
背中の、虎。
「見せて、もらえない…かな……」
無性に、そう思った。
まだ心の整理がつかないんだ。ざわざわとうるさい心臓を、騒がしい脳みそを、どうやって鎮めたら良いのか分からない。感情の起伏があっても、そういうものはあまり表に出さないでいられる方だと、自負していたはずなのに。そんなことないじゃないかと、今この瞬間思い知らされた。そんな風になっているのは多分、目の前に彼がいるからだ。自分一人ならば、ここにいるのが他の誰かならば、僕はきっともう少し落ち着いていられたはず。
僕の中で初めて、誰かに頼りたいという感情が、生まれていた。
そんな僕に返事をしないまま、虎はそっと僕の手を退けた。どくりと、心臓が嫌な跳ね方をしたけれど、すぐにその手は病衣へとかけられた。
「っ、」
逞しい肩から滑り落ちたそれはそのままに、背中を向けられる。
異質な白い虎はやっぱり美しく、気高くこちらを見ている。その奥に隠された獰猛さを揺らめかせて。
「一つ、聞いてもいい?」
「なんだ」
「…どうして、白い…虎に?」
気品の高さは圧倒的に白が上回る。けれど、強さを表すならば。
「…ごめん、なさい…答えたくないことなら─」
「いや、構わない。…ただ、他とは違うものが、良くて。それだけ」
背中を向けられているのだから、彼の顔は見えない。表情も分からないのに、なんとなく、それだけではないように思えた。突っ込んで聞くなんて出来ないけれど。
「、蓮?」
触れてしまった。
初めて見たとき、思わずのばした指。けれど触れてはいけないと、かけることができたブレーキ。今はそれが出来ず、指先が虎の輪郭を撫でた。触れたところで、彼の抱えるものは分からないままだけど、それでも触れたいと思うほどに美しい。
「…やっぱり、綺麗だ…」
彼の皮膚の感触と体温に、緩やかに胸のざわつきが凪いでいく。
「蓮しかそんなこと言わない」
「え、」
「今まで誰にも“綺麗”だなんて、言われたことない」
オッドアイの瞳に僕が映ることはない。それでもそれを見つめ、手を押し当てる。毛並みを感じることはないけれど、虎の体温は伝わってくる。
「…こんなに、綺麗なのに」
とくん、とくんと、小さく感じる彼の鼓動。それはまるでそこにいる白虎のものの様で、まるで生きている様で、僕はそっと目を閉じた。目を閉じても、暗闇の中でその白い虎を描けた。とても鮮明に、ハスの花まで。
「ありがとう…」
「もう少し、こうしてても…い?」
「ん」
たったそれだけの返事に、僕はひどく安堵していた。もう会えないかもしれない、じゃあ何か言葉を交わすべきか。そう思いながらも、今はその体温に、美しさに、浸っていたかった。何かを口にするよりずっと、その方がいいと思えた。虎もそれ以上何も言わず、ただそこにいてくれた。白虎はじっと僕を見つめ続け、落ち着かせ、背中を押してくれたように感じた。
じわり、滲む世界で、僕は確かなものを見つけた。
prev next
←