『ピーッという発信音のあとに…』
繋がることはないと知っていながら、僕は発信ボタンを押す。そしてその度聞こえる冷たい声に、言葉にならなかった声を飲み込んで通話終了のボタンを押す。
「……帰ってきたら、連絡下さい」
けれどもその時は、何故か言葉を残していた。きっと連絡なんてこないのに、そんならしくない言葉を。
入院している間は出来るだけ人と連絡をとりたくないからと、すぐに携帯の電源を落とした。大事な連絡なら槙さんが直々に足を運ぶ。それ以外に重要な連絡はおそらくこない。画面の消えた携帯をベンチに置き、昨日とはうってかわって晴れ渡る空を見上げた。
眩しくて目が眩むのに、見上げてしまう。あの日…虎もあの日、何かを考えながら、空を見上げていたんだろうか。あの漆黒の瞳は何を見ていたんだろうか。
「蓮」
不意に名前を呼ばれ、勢いよくそちらへと顔を向けた。足音に気づかなかった自分より、俊敏に振り向いてしまったことが恥ずかしかった。まるで待ってましたと言わんばかりの行動。待っていたのは、本当のことなのだけど。
「……こん、にちは」
「ああ」
けれど、振り返ったそこにいた彼は。
「退院…ですか?」
スーツ姿、髪の毛も整えられている。普通の格好なのに、サラリーマンには見えない。やっぱりそれはまさしく“裏”の生き物を隠しきれていない。
「いや、人と会ってきた」
気崩されていないスーツが、妙に色っぽいと感じた。きちんと締められたネクタイを緩めながら僕の座るベンチの方へ歩み寄るそんな彼に、どきりと心臓が跳ねる。
「退院も、もうすぐするけど」
「そう…」
“退院”そうか、当たり前だ。
「蓮は?退院とか…」
なにを、ガッカリしているんだろう。彼は僕とは違うんだ。
「蓮?」
「、あ…僕は」
「……弟に、会ってきた。今」
「…え?」
「十も離れてるからまだ高校生なんだけど。ケーキ、食わせてやってきた」
僕が“退院”の言葉に嫌な顔をしたことのに気付いたのか、虎は無理矢理に話を変えた。
「ケーキ…」
「兄弟らしいこと、こういう休養中しかしてやれないから。進路の相談受けるついでに」
「…好きなんですか、甘いもの」
「ん、まあ」
その風貌でケーキを食べるんだ、なんだか可愛い。眉間にシワを寄せながら、けれど甘いのは好きなんだと言いながら食べる姿を想像して口元が緩んだ。
「…じゃあ、美味しいお店、紹介するよ」
「…楽しみにしてる」
甘いものは得意じゃないけれど、好きなカフェはある。本棚に囲まれた静なあそこはクリームあんみつが美味しい。ここは女の子が多いけどワッフルが美味しい。そんな話をした。その間ずっと目を見て話を聞いてくれる彼に、胸が詰まった。
「……退院は、いつ?」
「え?あ、ああ…三日後」
「三日後…もうすぐ、なんだね」
「……ああ」
「僕は、今日にでも退院できるし、あと何ヵ月でも入院していられる」
言いたくなったわけじゃなかった。ただなんとなく、気を遣わせてしまったのも嫌だったし、曖昧に終わっていくのも嫌だと思ったから。はっきりさせたところで、なにも変わらないかもしれないのに。
「今回の入院も、もうすぐ三ヶ月になるんだ」
「…蓮」
「退院したら、僕の好きなカフェに弟さん連れてってあげて」
すがろうとしているんだ、これは。
「本当に、おすすめだから」
「…また、そんな顔するんだな」
そう気付いたと同時に、虎の指が僕の頬を撫でた。ごつごつしていて、でも優しい。温かい手だった。
「無表情で、笑ってる」
「っ…」
「この前ここで蓮が女の人と話してたとき、本当は全部聞いてた」
全部…
「そんな顔で、あんたは…何を見てるんだ」
「僕は…」
「俺は、あんたの見てるものが見たい」
熱くなった目頭には気づかないふりをして、僕は自分にさえ聞こえないんじゃないかってほど小さな声で、呟いた。
“優しさを、探してる”
世界は残酷だけど、いつもどこかに優しさを残してくれてる。それは道端の花だったり、道路に残された子供の落書きだったり、日陰に置かれたベンチだったり。見逃してしまうような優しさを、今精一杯見つけて、目に焼き付けておきたい。見えなくなってから、見ておけば良かったと後悔することがないように。
初めて声にした言葉たちは、驚く程陳腐で幼稚はものだった。
「…僕は、もうすぐ目が見えなくなるから…最後の悪あがきみたいに」
今も貴方が霞んでる。
それは病気が進行した所為なのか、滲んだ涙の所為なのか、わからない。喉に詰まった声は、そのまま体内で消えてしまった。代わりに出たのは、遠ざかる結城先生の背中を見ながら生まれた言葉だった。自分の見ている世界は、これ以上変わらない、そんな言葉たち。
虎は何も言わないで、頷きもしないで、じっと僕を見るだけ。そして、蟠りを吐き出した僕が口を閉ざしたところで、そっと囁いた。
“俺の世界は、黒の上に赤をのせた色だ”
「光の当たらない場所、暗くて、闇に包まれた、真っ黒な世界。唯一の色は、血の赤。俺が見てきたのは、そんな世界だ」
両方の頬を包み込まれ、キスでもされるんじゃないかという状態で、見つめあったまま紡がれたそれ。
「あんたみたいに、何処かにある優しさの存在なんて知らなかったし、気付いたこともなかった。それに気付けた蓮は、俺よりずっと幸せだ」
そして彼は付け足した。
“見える世界があるだけいいんじゃないのか。たとえそれが、形を変えなくとも”と。
僕はまだ、一番重要な部分を話していないのに。
まるで全部お見通しだと言う目が、僕を捕らえて離さない。もういっそ、吸い込まれてしまえばいいのに。その黒に、全てを溶かされてしまえばいいのに。
誰にも言ったことのない事を、口にしそうになって、また胸に押し込んだ。触れてしまった彼の優しさに、甘えてはいけないと、冷静な自分がいた。
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