「あれ、園村くん。こんなところで、どうかしたの?」
「結城先生…」
結城先生はこの病院で一番偉い人らしい。僕に病院の詳しい事情は知らないけれど、それでもそれだけは理解していた。
「あんまり歩き回ってると、マネージャーさんに怒られるよ」
柔らかく笑った彼は、噂で聞いただけの年齢よりずっと若々しい。白衣も、これほど似合う人は他にいないのでは、と思えるほど格好良く着こなしている。
「内緒にしてて下さいね」
「個人情報は漏らさないよ」
「今日は雨だから屋上には出れないんですね」
「一応、傘も少しの屋根もあるけど、今日は雷がひどいからね。危険だから鍵は閉めたままなんだ」
「……他に、行くところがないので少しうろうろしてたんです」
ガタガタと窓を打つ雨は、時折雷を誘う。光を放ち、音をたて、病院内は静まり返っていた。もっとも、僕の病室がある階は、元から静かなのだけれど。
「…園村くん、退院する?」
「え…?」
「私としては、退院させたくないんだけど。出来る限りのことはしたいし。でも、ここじゃ君の目を治してあげることは出来ないから」
僕は、
「…それは気にしてません。ただ、慌ただしくしてるうちに、見えなくなるのは嫌なんです。退院したら、槇さんに無理矢理にでも仕事させられちゃいますから。だから、入院してるって口実が、今は欲しいんです」
もうすぐ視力を失う。
「日本での合法な手術じゃ君の目は治らないけれど、可能性のある病院はアメリカや─」
「いいんです」
「園村くん、」
「リスクの高い手術を受けて、目が治っても…治らないままでも、僕にはあまり変わらないんです。たとえ目が見えていても、見えていなくても、僕の世界はこれ以上、変わらないので」
目の病気が発見されたのはもうずっと前のこと。移植をするにも、ドナーを待つ患者は数えきれない。順番を待つだけで終わることだって考えられる。他の手術ではどうにもならないからと、進行を遅らせる薬を飲んで、なんとか誤魔化してきたけれど。ここ数ヶ月で病状は悪化。体は元気だし、問題なくギターも弾ける。問題は、隠し通せなくなったこと。
「先生には、本当に感謝してます」
生活に支障が出る程ではないけれど、楽譜がうまく見えなくなった。幸いにも、僕は耳がいい。だから聞けばなんとかなる。ただやっぱり細かい変更だとかを書き込んだり、それを確認したりが大変で。
病気のことを知っているのは槙さんだけ。他には誰も知らない。僕を知っている人だって、そう多くはないけれど。事務所の社長でさえも知らない。槙さんだけが真実を知っていて、隠してくれている。
「あとは、見えなくなるまで…いろんな景色やものを、脳みそに焼き付けて過ごしたい」
「…そう。あ、外出届。好きに出してくれていいからね。退院も、したくなったらしていいし、したことを隠していたいなら少しくらい誤魔化してあげられる。それくらいは、させて」
「……ありがとうございます」
「じゃあ、私はそろそろ」
「はい、じゃあ…」
僕は、世界が霞始めたときに悟ってしまった。この先、僕の世界が色を変えることはないのだと。だから、日々の何でもない時間の中で小さな幸せを、優しさを探した。
今までを塗り替えることなど出来ないと分かっていながら、変えようとしてみたのだ。遠くなる結城先生の背中を見送りながら、そんなことを思い出した。
僕は生まれたときから音の世界で生きていて。耳と手があれば良かった。目なんてなくていいほどに、僕はその世界でしか生きていなかった。
「……雨」
雨の音でさえ、僕はそれを音楽に変えてしまう。
頭の中で、音は溢れて、溢れて、目を閉じる。そして気づく。やっぱり、目が見えなくとも、僕には関係ないのだと。現実的な話をするなら、目が見えなければ一人じゃ生活なんて出来ない。季節が移り行き、変わる景色さえ見られないのに。それは確かに困るのに。けれど僕はそれ以上に、もう変わることのない、自分の世界を捨ててもいいと思えたんだ。
それに偽りや見栄はないのに…どうしてだろう。
まだ視力を失いたくないと思うのは。
あの屋上で、眩しすぎる光を纏い、けれど影のように存在していた姿が、瞼の裏に浮かぶのは。また、彼を見たいと思うのは。彼の見ている世界を見たいと思うのは。
視力の余命が短くなったからじゃない。まだすがっていたいと思わせたのは、そんな理由じゃない。色を変えてしまったのだ。誰かに染められるなんて、初めてのことで。彼に、トラを背負った彼に、僕は…
「恋をしたのかもしれない」
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