『バタンッ』
一番日の高い時間を過ぎた屋上には、僕しかいない。昨日はあのまま槙さんが帰って、僕もすぐに病室へ戻った。あの人には会わなかった。いや、そもそもあれから待っていても、彼は屋上に来なかったかもしれない。
今日も会えないのだろうかと思った矢先、音のした扉の方を見れば、そこには壁に凭れて俯くその人がいた。
「え、どう…したんですか」
風によってドアが閉まったらしく、彼は血色の悪い顔で僕を見た。
「あの、顔色が…」
慌てて駆け寄れば、彼の横腹には赤い染みが出来ていた。彼も怪我だと言って横腹を擦っていたけれど、そこから出血している様だった。
「嘘、酷い血…病室まで送り─」
「いや、必要ない」
「でも…」
痛くはないのだろうか、苦痛に歪んだ顔はしていない。ただ顔色が悪いだけ。
とりあえず支えようと、血の出ていない側の腕を自分の肩に回し、傷口に触れないよう彼の腰へ手を添えた。背が高いと改めて感じた上に、体つきも逞しかった。引き締まった腕や背中は、僕なんかより全然男らしい。
「辛く、ないですか」
「ああ、」
慣れないタメ口も、こんな時に気にしてなんかいられない。焦る僕を他所に、彼は涼しい顔で立っている。多少僕に寄りかかってはいるものの、重いと感じるほどではない。
「……あの、傷が開いてるわけじゃ、ない?」
「…ああ、塞がりきってないだけ。消毒してガーゼ貼り替えれば、問題ない」
「じゃあ、消毒を…」
「ああ、ポケットに…いや、いい」
「でも、」
「駄目だ、見せれない」
「僕は大丈夫」
「違う、そうじゃなくて」
何が言いたいのだと、彼を見上げてみても答えは出てこなかった。とにかくこのままでは病室にも戻れないだろうと、彼の病衣のポケットから、消毒液とビニールに入ったガーゼを探りだし、日陰のベンチまで誘導した。
「傷口、見せて」
「自分で出来る。あとで、するから」
見せられないような傷なのだろうか。僕にはわからないけれど、それでも心配するのは当然で。
「人前で、脱げない体なんだ。見せられないもんが…」
見せられない、もの。
余計なことを言ってしまったと言うように、彼はぐっと口を閉ざした。
「僕に見られるのが嫌なら、誰か先生を呼びにいってくる」
「……そこまでしなくていい。放っておいていいから」
「放っておけないから、こんなに必死なんです。…心配、だから」
「なんで、」
「分からない。分からないけど、放っておけないから」
強引に病衣へと手をかければ、それは制止されてしまった。けれど、彼の手が自ら病衣へとかかり、するりと肩を滑り落ちて逞しい上半身が露になった。血に汚れたガーゼを剥がせば、そこには痛々しい傷。
「痛かったら、ごめんなさい」
「構わない」
消毒をして、ガーゼを貼り替えて、一息ついたところでふと思った。見せれないものとは、なんなのか。
「はい、終わり」
特に変わったところはない。目を覆いたくなるような傷ではあるものの…見たくないようなものはない。そう思いながら病衣を着せようと体勢を変えたとき、彼の肩に模様が見えた。
「見るな」
もう、見えてしまった。
「俺は、裏側の人間だから」
「裏、側……」
しっかりと見えてしまった僕に隠すことを諦めたのか、彼は立ち上がりこちらに背を向けた。地面に落ちた病衣に気付かないほど、僕はそこから、目が離せなかった。
広い背中、彼はそこに獣を飼っていた。
白い虎だ。睨み付けるでも、威嚇するでもなく、此方をじっと見つめるトラ。琥珀色と漆黒の目。オッドアイを持った、ホワイトタイガーだ。“裏側の人間”を、そんな人の背中を、僕は映画やテレビでしか見たことがないからよく分からないけれど…それでもこの入れ墨は、今まで見たことのあるものとは違った。肩や腕を覆うことはなく、ただ虎だけが圧倒的な強さを示している。肩から一瞬見えた模様は花の一部だった。虎と、花。
「綺麗…」
「綺麗…?」
気高い虎も、それを支えそして飾るように咲いた花も。思わず触れようとしていた指を引っ込め、頷いた。
「僕の、花だ…」
薄く色づいた花は、確かに僕と同じ。
「ハス…僕の名前、“蓮”でれん、なんです」
「蓮、か」
「うん、園村、蓮。一昨日お話したのに、名前言いそびれたし聞きそびれてたこと、実は少し後悔してた」
単純に、彼の背中に僕の花が咲いていたことが嬉しかった。トラとハスしかない世界が、とても美しく見えたのだ。
「……貴方は、とら…?」
「ああ、とらじ。愛嬌、虎士」
「虎…」
例えそれが、“極道”のものだとしても。
「やっぱり綺麗」
白い虎を背負う意味やその重みを知ったとしても、僕はそれを、美しいと思うのだろう。
「教えてくれたお返しに、僕も一つ。…僕も、裏側の人間なんだ」
「は…?」
「貴方とは…虎、とは違うけど、それでも、僕は表に立つことのない人間」
「…昨日も、そういう顔してたな」
「っ、もしかして…」
僕に向き直った虎は、足元で寂しげにしていた服を拾い上げ腕を通した。もう見ることはないのだろうかと、何故だかひどく残念だと感じた。でも、それより昨日のことだ。
「来たら、先客が居て。話してるあんたの…蓮の顔が、今みたいな無表情だった。聞くつもりはなかったけど、蓮が殴りかかられそうで、目が離せなかった」
「殴り…ふふ、そう、彼女、すごく怖いし厳しいんだよね。仕事のパートナー、なんだけど…」
「最初は、恋人か何かかと思ったけど」
「その勘違いは嫌だな」
上手に笑えなくて、思わず下を向いてしまった。
見られたのは仕方がないとして。話はどこまで聞こえていたのか、僕の言葉は聞こえていたのか、嫌な汗が、背中を流れた。
「…それ以上は聞かないから下向くな」
別に、構わないのに。
僕は表舞台に立つ勇気のない人間だと言えばすむ話なのに…“裏側”を選んだ理由を、ここでの僕の考えを、彼に問われるのだけは嫌だった。僕とは違う、僕の見えている世界を、見られたくないと思ったから。
「…大丈夫、隠したいわけじゃなくて…その、僕、スタジオミュージシャンなんだ。光を浴びないギタリスト」
「ギタリスト…」
「そう…ステージには立てない、ギタリスト」
「ああ、だから…」
虎は、僕の肩に手をおいて、穏やかに言った。
「綺麗な手だと思った」
てっきり“だから裏側なのか”という言葉が返ってくると思った僕は、また全身に衝撃を受けたような感覚に囚われた。
虎はそれ以上、槙さんとの会話については触れてこなかった。僕がそれを求めたからか。話したくなったら話せばいいし、話したくないなら別に話す必要なんてない、そういう目で、微笑んだ。それは僕も同じで。彼の背負ったトラを、怪我の理由を、生きてきた道を、僕は何も、聞かないままだった。
その日、僕らはお互いの事情を、一つだけ口にした。たった一部の、けれどとても大きな。
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