昨日はあんなに気分が良かったのに、今日はあまり良くない。というのも、一番会いたくない人が、わざわざ会いに来たから。
「…よくここが分かりましたね」
「ここくらいしかないでしょう。こんなところにいたら余計体調が悪くなるわよ、病室に戻りなさい」
「病室に居る方が気分が悪いんですよね」
「なに馬鹿なこと言ってるの。こんなところにいて、誰かに見られたらどうするのよ」
嫌い、というわけではない。苦手なだけ。そう、苦手なんだ。波長が合わない、そういう感覚。長く一緒にいてもそれは変わらない。反対を言えば、昨日の彼とは短時間で馴染めた。つまり人との距離に、時間はあんまり重要じゃないってこと。
「見られたとして、何か不都合でも?」
「っ、だから─」
「誰も、なにも思いませんよ。誰も、僕のことなんて知らないじゃないですか。人に指差されたとしても、それは槙さんがうるさいからって理由です。視線を集めるのも同じ」
槙、それは僕が十年一緒に仕事をしている人。気の強そうな目をした、そして凛とした彼女は綺麗で、我が強い。
「いいから、病室に戻って」
「何処に居たって病状は変わりません」
掴まれた腕が痛くて彼女の手を解く。
華奢な手に、ああ女の人だ、と思うけれど、明らかに僕よりも強いものを持っている。
「もう、ここには来ないでください」
「なに言ってるの。これからの話全然してないのに」
「退院したらでいいじゃないですか」
「いつ退院するの、それじゃ手遅れになると思わないの?今だって、貴方への依頼がたまってるの。貴方はプロなの、自覚しなさい」
「…すぐに、退院しますから。退院したらちゃんと仕事しますから」
「いい加減にしなさい」
「槙さんこそ、僕の気持ちも少しは考えてください。僕だって混乱してるんです。一人で考えたい。でも、槙さんが来たら頭が痛くなるだけ。病気や治療のことは、先生に直接聞いてください。僕からも言っておきますから」
「それは関係ない。貴方の話をしてるの」
「僕は話すことなんてありません」
「ふざけないで!」
「ふざけてなんていません」
本当は混乱なんてしていない。
ただ一人になりたい。
「今日はもう帰ってください」
「貴方は天才よ。でも、だからってこんな我が儘が通用すると思わないで。貴方の才能を、手放すわけにはいかないの。今さら逃げないで」
なにも考えたくない。ただ静かにその時を待ちたい。その時まで、一瞬も見逃したくないだけ。誰にも邪魔されないで、変わっていく、なくなっていく世界を、僕は…
「僕は逃げたりしません。今さら逃げられないことも分かってる。それに、僕は他に何も持ってませんから」
「そこまで分かってて、どうして…」
「分かってるからです。だから槙さん、帰って」
「…分かった、今日は帰る。でもまた来るから。それから、一つだけ分かってないみたいだから言っておくけど」
嫌だな、今日は彼に会えないかもしれない。いや、きっと今ひどい顔してるから、会いたくない気もする。なんだろう、この胸のモヤモヤは。
「見えなくなってからじゃ、手遅れなのよ。目が見えなきゃ─」
「馬鹿にしないでください。視力がなんですか。別に目なんて見えなくても、僕には耳がある。才能だってあるんでしょう?だったらそれで、それだけで、充分です」
唇を噛んだ槙さんは、諦めたようにため息をついて僕に背を向けた。一つに結った髪が揺れて、目眩がした。
昨日より僕の世界は、霞んでいた。
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