昨日と変わらない青い空にぽつりぽつりと浮かぶ雲。昼を過ぎた屋上には、いつも通り僅かな日陰とそこに置かれた白いベンチ。代わり映えのない光景に、落胆している自分がいたのは確かだった。
この病院のどこかにいるはず。けれど探す術などない。彼が一般人であるわけがないと、やっぱり断言もできた。
僕はゆっくりと日陰のベンチへ歩み寄り、風に靡く真っ白なシーツを眺めながら腰を下ろした。パタパタと揺れるシーツは眩しく、けれど昨日の彼の方が眩しかったな、なんて恥ずかしいことを考えてしまった。そこには自分しかいないのに、なんだか落ち着かなくて気を紛らすように本を開いた。
「……」
人の気配に気づいたのは、それからしばらくしてからのことで。時折霞んでしまう文字から目を逸らし、ゆっくり瞬きをする。その動作の中で、視界の端にちらついた人影。ドアの方、ゆっくりと視線を向けると、壁に凭れかかって此方を見ているその人と目が合った。
「…昨日、の……」
「悪い、また…邪魔したか」
そう、昨日の彼だ。
日陰から一度日向へと出た彼は、風に飛ばされた一枚の白いタオルを拾い上げ、掛けてあった場所らしきところへ掛け直した。それから僕を振り返り、また昨日のように光を浴びながら視線を合わせた。
ぶわりと、全身に鳥肌がたった。
抜けるような空の青さより、清潔感のある白のシーツより、まるでそれらの影であるように揺れる彼の髪と瞳の黒が、僕の中にその色を広げていったのだ。
「あ、いえ…」
どくんどくんとうるさく脈打つ心臓を隠すように胸に手をあて、やはり異質だと感じる彼に次の言葉をと思考を巡らせた。全てが初めての感覚で、どうしていいのか、分からなかった。
「……あ…すいません、ここ、座ります…か?」
一人で座るには広すぎるベンチ、空いた場所に手をおけば、彼は少し驚いた様に目を開いてから「ああ」と呟いた。ほんの短い距離をゆっくりと移動し、隣に腰を下ろす。人の重みに軋んだベンチは、一度だけ苦しそうな音をたててすぐに静かになった。
意外と近くに座った所為か、彼の温度が腕に伝わってきた。日陰を吹き抜けていく風に、少し寒さを感じていた僕にその体温はひどく優しく思えた。
心地よく思えたのだ。
「…気持ち、良いですよね、ここ」
「……ああ…そう、だな」
なんとなく彼の方を見れなくて、手元の本へと視線を落とす。栞を挟んで閉じたそれに、ブックカバーはしていない。露になった表紙、書かれた題名の文字を指でなぞった。
「……懐かしい本、だな」
「えっ?」
「昔、読んだことがある」
僕の一番好きな本。何度も何度も読み返した。購入したのは十年以上前。年期が入り、黄ばんだページの端。とても有名とは言えないものだけど、それでも、僕の中で一番の。
「初めて、会いました」
反射的に彼を見れば、彼も僕の手元から顔へと視線をあげたところで。躊躇いもなく目があった。
「この本、読んだ人と」
「…俺も、かも」
「昔から好きなんですこの本」
「……」
一瞬、眉を寄せられたような気がして、小さく首を傾ければ、その人は「昔って言うほど、生きてなさそうだけど」と、笑った。切れ長の目が細められ、なんだか余計に胸が高鳴った。こんな風に笑えるのかと思うほど、意外だったからかもしれない。それほど、顔が整っていながら険しい目付きをしているのだ。
「買ったのは、中学一年生の時だから…丁度十五年前ですね」
「…今、二十八か」
「はい」
貴方はいくつですか、自分より年上っぽいけど、どうだろう。聞こうと思ったのに、彼は困ったように視線をおとし、今度は苦笑いで「なら同い年だ」と、小さく呟いた。
「すいません、年上かと」
「俺も。若いくせに、そんな古い本って思った」
同い年に見えないのは、彼が老けているから、というわけではない。見た目ではなく…彼の纏う空気。貫禄と言うのか、ただの落ち着きなのか、とにかくそういうものが、三十手前には見えないようにしていたんだと思う。
鋭い眼光と、周りを屈服させるような低い声、他人を寄せ付けないオーラ。感じたことにズレが生じた。いや、僕も寄せ付けないようにされているのかもしれない。ただ、少なくとも今はそんなことないはず。なんとなく、本当になんとなくだけど、そんな気がした。
「たまに思い出して、今でも読み返すんです」
「…分かる」
「今は余計に。病院って、出来ること限られますしね」
こんな風に話ができるなんて。
自然と緩む口元はそのままに、彼を見つめた。
「……怪我?」
「へ?」
指差されたのは包帯の巻かれた腕で。半袖の病衣から露になるそこ。確かにそこは怪我しているしかしそれが僕の入院している理由ではない。問われたのはどちらの意味なのかわからなくて、とりあえずそうですと答えた。同い年だとわかっても抜けない敬語は、やはり異常なまでの貫禄を彼に感じるからだろう。
「ダメですね、気を付けないと」
それでも敬語はやめろと言われ、そのあとしばらく話す間に少しずつ敬語を抜いていった。昨日会ったばかりなのに、僕らは何でもないように接していて、きっと彼も驚いていたと思う。僕だって驚いてるんだから。
そんなことを思いながら、好きな本の話や、育った町の話をした。日が傾きだした頃、先に腰をあげたのは彼の方だった。
「そろそろ戻る」
「はい、じゃあ…お大事に」
「いや、あんたこそ」
微笑めば、微笑み返してくれる。
ああ、名前を聞きそびれたと思ったけれど、昨日と同じ。もう彼の姿はなかった。なんだか、夢でも見ていたんじゃないかと不安になった自分がおかしくて、また口元が緩んだ。
夢でもいいじゃないか。
こんなに幸せな夢なら、構わない。
昨日より、霞んでしまった世界。けれど、何故だかとても鮮やかになった気がした。景色は何も変わらないのに。
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