夏の暑さが抜け、肌寒さに秋を感じ始めた頃。病院と言う場所の屋上で。薄い青の病衣を纏ったその人は。
「……あっ」
手すりに背を預け、息をするのさえ億劫そうに空を仰いでいた。病院には不釣り合いな風貌の人間だったから目を奪われたのでも、醸し出される刺々しい空気に動けなくなったのでもなく、何故か分からないけれど“彼”と言う存在に体の中を電気が走っていく様な感覚、それに思わず声が漏れた。
僕のそんな小さな声にか、ドアの軋む音にか、空を仰ぐ顔が動いた、ゆっくりと。
その視線は彷徨うことなく僕を捕らえて。漆黒の髪が光を浴びて艶やかに輝き、涼しげな切れ長の目は感情を写し出すこともしないで、そこに存在していた。髪と同じ、漆黒の瞳で。
綺麗な人だ。男らしく、けれど整った顔立ち。一瞬でそう思い、じっと見つめればそれはさらにはっきりとしていく。
「…誰」
光に包まれているみたいで。
彼の背後に佇む太陽が彼に同化して、目が眩んだ。
「っ」
そんな、見つめるばかりでなにも言わない僕に投げ掛けられた、彼の声は鋭く、けれど心地いい低音。支配力を秘めているみたいな、そんな声だ。僕は慌てて言葉を繕った。
「すみません、本を、読みに来ただけです」
手に持っていた本を胸の前に翳せば、彼の視線が本へと移動した。本当にゆっくりと流れた視線。その人は何も言わず面倒臭そうに手すりから背中を離した。
背が、高かった。
少しずつ前へと進み出した彼は、僕の方へと近寄っていた。いや、正確には僕の後ろにあるドアの方、へ。ここは病院で、彼は病衣を着ているから病人か怪我人で。だからなのか、それとも元からなのか、その動きはとてもゆっくりだった。僕にはそんなスローペースな理由など検討もつかない。ただ、僕の真横まで来たところで、思わずまた声をかけてしまった。
「あのっ…」
日本人男性の平均位はある僕を見下ろすほど、彼はやはり背が高かった。
「邪魔、したな」
シーツや洗濯物が干してある以外、ここにあるのは数個のベンチだけ。日陰に置かれているのは一つ。唯一のそこは、ここしばらく僕の特等席だった。完璧に温度調節された病室より、過ごしやすいわけではないけれど。日が当たれば暑く感じる、けれど日陰は涼しく、風が吹けば僅かに肌寒いと思う。そんな、人工的でないそこが好きだった。
僕は、入院してからほぼ毎日そこへ足を運んでいた。
「っ…いえ…あの、本を読むだけなので、構いませんよ」
彼に会ったのはそれが初めてだった。
明らかに“異質”な彼は、曖昧にしか微笑むことのできなかった僕に、「いや、病室に戻る時間だ」と、言い残して行ってしまった。
通りすぎていった彼の残り香がふわりと鼻を掠めていき、思わず振り返ってしまった。けれどそこにはもう姿はなく、ただ無機質な白い壁とエレベーターの扉があるだけだった。完全に閉まっているそのドアの上、黄色いランプは“▼”を光らせて下降していく。
都内でも有名なこの大きな病院は、政治家や芸能人も多く入院している。一般病棟とは隔離されている病室もあるから。もしかしたら彼も、そんな中の一人なのかもしれない。何となくそう感じたのは、やっぱり普通ではない目立つ顔立ちと背の高さ、纏う空気の違いからだろうか。そして、感覚的な部分で感じた得体の知れない衝撃。
残された時間の中で、僕は日々の小さな優しさを見つけた気持ちになった。いつまでも鼻の奥に染み付いていた彼の匂いに、それは更に大きくなる。
次の日、再び彼を見つけて、僕は気づいてしまう。僕の世界が、色を変え始めていたことに。
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