Tiger x Lotus parallel | ナノ

僅かに聞こえるピアノの音に誘われるように、俺は階段を上りきり、右手にあるその教室のドアガラスから中を覗いた。防音のドアであるものの、音は小さく漏れている。

「……は…」

第2音楽室、あるのは滅多に使われることのない黒いグランドピアノと古びたキーボード、磨かれたまま使われていない真っ白なホワイトボード、そして雑多に置かれたパイプ椅子。使うものは全て向かいの棟にある第1音楽室に置かれており、吹奏楽部や合唱部がそっちを使用している。だから俺たちはこっちを使っていて、それでも希に第2音楽室を貸してほしいと言われるから、楽譜や資料以外、物などないに等しい第2音楽準備室を使っているのだ。しかし、今の問題はそこではなく…
そんな、人気もなく需要も少ないそこに、人が居るということ。調律されているかさえ怪しいグランドピアノの前、椅子に腰を下ろす人がいるのだ。自分が着ている制服とは違う、真っ白なシャツを着る、つまりは生徒ではない…そう、教諭だ。

窓から吹き込む風に柔らかそうな髪を靡かせ、その人は鍵盤に手を置いて、音を紡いでいるのだ。ここからじゃよく見えない、音もよく聞こえない。もどかしくなって少しだけドアを開ければ、穏やかなピアノの音色が確実に鼓膜を揺らした。

全身に鳥肌がたつ。
息をするのも忘れて、それを感じた。
あの日の光景が、甦る。

熱気の籠った体育館、ステージ、ライト、歓声、そして…

手が震えていた。
あの時の興奮が、体の中を駆け巡る。
俺は疲れなど忘れるほど目の前のものに釘付けになっていた。そうだ、このピアノを弾いているのは…保健室の、園村蓮。俺にコーヒーを淹れてくれる彼だ。あの日から初めて思った“綺麗な手”を持つ彼だ。

何故、彼が…?
動揺しすぎて、脳が働かない。狂いのない音色に、聞き覚えがあるから。風と緩い光に包まれた白いシャツの彼が誰かと重なって見えるから。

胸に下げ続けたあの瞬間の感動。
追い求めていたもの。

俺は本能的に目の前のドアを思い切り開き、ふっと途切れてしまった音色の方向を目指す。目を見開いた園村が、こっちを見ていて…近づくにつれて捲られたシャツの袖から覗く綺麗な手が、見えた。

「……!愛嬌く…どうして、」

動揺しているのか、彼の声は僅かに震えていた。

「園村…だったのか」

「っ…」

11年前、俺が必死になって手を伸ばした相手は。でも、あの時とはどこか違うんだ、手の感覚が…それに園村は俺の話を聞いて、なにも言わなかった。必ず会えるだろう、そんな希望を与えてくれただけで…希望?

「なんで、」

違う、希望なんかじゃない…
鍵盤の上に置かれたままの園村の手を掴み、指と指を絡めた。暖かくて、それはやっぱり綺麗で、じゃあ一体どこが違うんだ。

「連れて、こられた」

「…天城くん、か…」

「そんなこと、どうでも…いい」

タツはもう、立ち去ったのだろうか。
そんなこともどうだっていい。これを教えてくれたことには素直に感謝するが、もっと早く知りたかった。…知って、どうこうできたとは思えないが…それでも、俺にはこれほど大きなことなどないのだ。

「…ごめんね、黙ってて」

俺よりも小さな手が、そっと俺の手を握り返してくれた。

「……君を、保健室で初めて見たときから気づいてた」

「は…?」

「僕も、覚えてたんだよ。あの日…あの学祭の日、大人に紛れて僕に手を伸ばしていた君を。すごく、脳に焼き付いていたんだ。その時の子だって、目を見て分かった。切れ長の目と、漆黒の瞳」


「うそ、だろ…」

「本当。…まあ、確信できたのは…」

園村は絡めた手とは逆の手を俺の胸元に置き、優しく撫でた。薄いシャツの下にあるのは、褪せたピック。

「これは、僕の特注なんだ」

どこか遠くを見るように、園村は曖昧に微笑んだ。

「知り合いに作ってる人がいてね、自分の好きな色をつけてもらって…バンド名をいれようと思って、やめたもの。あの学祭のステージで落としてしまって、拾い上げたけれど小さな手が触れて…思わずそこに乗せてしまった」

見上げられて、細められた目に自分が映った。
変わらない、どこか切なげな色を浮かべた瞳。焦げ茶色の、濁りのないそこ。

「はじめに保健室で会ったとき、君はシャツがはだけてて…見えたんだ。僕しか持っているはずのない、あの時の男の子しか持っているはずのない、このピックが。その瞬間にね、ああ、やっぱりあの子だって…」

俺の記憶に、あの時の人の顔はない。
あるのは音と手。音の違いなんてわからないけれど、それでも感覚的な部分で、いつも判断していて…

「10年も前なんだから成長していて当たり前なのに、君の成長ぶりには驚いたよ。その目を覚えていなかったら、気づかなかったかもしれないくらい」

「……俺は…」

気づかなかった。
手に触れても…

「あの時の君は、眩しすぎるくらいキラキラしてた。だから脳に焼き付いていたんだと思うし、あの頃は僕も色々と事情があって悩んでた時期で…そんな僕を、君は明るい顔で見上げてた。なんだかね、それに救われたんだ」

「救われた?」

「うん。実はあの頃、ギターをやめようと思ってたんだ。音楽事務所に目をかけてもらえたのに、全然嬉しくなくて…気づいたんだ。僕は、ただ音楽が好きなだけ。それを、仕事にはしたくないんだって。それで、なんだか色々嫌になっちゃって、そのバンドでも浮いちゃって…」

眉を下げて、けれど笑う彼。最初、嘘臭い微笑みだと感じたもの。その裏を知りたいと思ったのは、いつからだったんだろうか。

「あのステージを最後にしようと思ってた。でも、君を見つけて…あんなにも必死に手を伸ばされて、見つめられて、初めて“求められてる”って感じたんだ。人材でもビジネスとしてでもなく、ただ聞き惚れてもらえてる、って」

「……」

「また会えるって、根拠もなく思ってた。君は、あの時みたいにキラキラして、音楽をやっているだろうって。…けれど、再会した君は、光を失ってた。どこか寂しげで、喪失感を抱いているような」

「っだから…あの時」

行為が終わり、女の子を追い出し、それから戻ってきた園村が口にした言葉。それがあの日以来の再会になるなんて、思いもしなかった俺に与えられた最初の言葉。

“そんな目をされたら、怒れないよ。何をそんなに、苦しんでいるの?”

「そう。もう一度会えた喜びに浸ることより、その心配が先に出たんだ。それから君のことを少しずつ知って、少しずつ変わっていく姿を見て、やっと、嬉しさを実感できた」

「だったら、どうして…俺があんたに打ち明けたとき、言わなかったんだ」

そう、どうして…
必ずまた会えるなんて、残酷なヒントを残すだけだったんだ。


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