Tiger x Lotus parallel | ナノ


ことの始まりは10年前、母親につれられて足を運んだ大学の学園祭だった。特に近いわけでもないそこへ行ったことは、あまり覚えていないのだけど。どうして行ったのか、何故つれていかれたのか、その時俺はまだ小学生になったばかりで、考えることもなかった。

5月の真ん中、気持ちのいい天気、たくさんの模擬店や様々な服装。初めて見る世界だった。楽しくて、けれど怖くて、母親の手を離せなかった。はぐれてしまったら、なんだかもう会えなくなってしまう気がして。

そんな母親は楽しそうに笑っていて、体育館で劇や演奏をしているから見に行こうと言った。意味なんてわからなかったけど、離れたくなくて頷いた。

外にもたくさん人はいたのに、体育館の中はもっと人がいて。人の密集したそこは立っているだけでも汗が滲むほど暑かった。ざわめきも数ヵ所しかない窓に詰まり、こだますように宙に浮いたまま。それも怖いと思った。早く出ていきたい、そう思った。

縋る様に母親を見上げた途端、ざわめきが消えた。

「っ、」

ピアノの音だった。
でも俺の目線からではぎゅうぎゅう詰めの人の腰しか見えなくて。気づけば前へ前へと身を押し込んでいた。あれほど母親の手を離すのが不安だったのに。吸い寄せられるように体は動いていた。そして眼前にあったのは、黒い大きなグランドピアノと、その鍵盤に手を置く男の人の姿。

この暑い中、その人は汗一つかかないで、涼やかにピアノを弾いていたのだ。白いシャツはほとんど日の光など入ってこないそこで、眩しく輝いていた。

何を弾いていたのかは覚えていない。
ただ、聞き覚えのあるような…今思えばクラシックだったと思う…それは、体育館に静寂を産んだ。俺にはピアノの良し悪しも上手い下手も分からないのに、すごくドキドキした。
緩やかに続く音を、ずっと聞いていたいと思った。
でも、それは数分で存在を消す。ふわりと消えた音。静寂の余韻に浸っていたら、照明が落とされ、マイクで何か喋る声がした。俺には聞き取れなかったけれど、彼の伴奏が終わり、他の何かが始まるということは理解できた。

そしてステージの幕が上がり、スポットライトが照らしたそこには…

白いシャツに涼やかな顔。数人が立つそこで、俺にはその人しか見えなかった。そう、ピアノの人だと気づくのに時間はかからなかった。けれど手にはピアノではなく別の楽器。綺麗な指が、それを掴み、弾き、音を奏でた。それをギターということも、俺はまだ知らなかった。

ピアノとは全く違う、けれど同じ。
俺はその音に聞き入り、彼に見入り、そして恋をしたんだろう。

何曲演奏したのか、よく覚えていない。ただ、“アンコール”の声にもう一度ステージに戻ってきた彼等に…俺は手を伸ばした。
周りの大学生らしき人たちにもみくちゃにさながら、短い手を精一杯伸ばした。

それを苦しく感じなかったのは、俺自身息をしていなかったからだろう。呼吸も瞬きも忘れて、自分の内側からくる震えを感じていた。


そして、音は消えた。
頭を下げた彼等。幕が降りてくる。
俺はまだ手を伸ばしていた。

その瞬間だった。
落としたピックを拾おうとした彼の手が触れた。目があったのは気のせいだったか、けれどその人は微笑み、指に挟まっていたピックを俺の手に乗せた。


そこで、俺の記憶は途切れている。




俺はひたすらに目を覗き込む園村を見つめたまま、ひとつ大きな息をついた。一気に話した所為で、胸が苦しい。露になった胸で、それはひらりと揺れた。あの日の、ピック。

俺はあの日からその人に恋い焦がれ、ギターを始めた。
このピックは使えなくて、使うのが勿体なくて、でも無くしたくないからネックレスにして毎日つけ続けた。絵も字も書かれていない、紺色のピック。色褪せ、傷ついたそれは、今でも確かに俺の胸にある。

そう、ちょうど11年間、俺はこれだけを頼りにギターを弾いた。
またどこかで会える、聞ける、見れるだろうと期待して、彼を思い浮かべてギターを弾いた。ピアノではなくギターにしたのは、感覚的なものだったと思う。


「話してくれて、ありがとうございます」

「……」

園村の視線が、俺の胸を射抜く。
握りあった手が僅かに汗ばみ始めていた。

「愛嬌くんは、まだその人のことを、想っているんですか?」

「…どうだろうな、分からない」

分からない、というよりは、もうそれさえ曖昧だから。このピックがなければ、あれは夢だったのだと思えてくるほどに。

「たぶん、もう一度会えても、気づかない」

「…色褪せてる、ってこと?」

「いや…ただあの時、顔はよく見えなかったから」

手だけ。手と、あの音。
けれどあの日から、唯一綺麗な手だと思う人に会ったのは、彼が初めてだ。よく、似てる。本当に似ているけれど、触った感じも似ているけれど、どこか違う。

「会えると、良いですね」

切なげにはにかんだ園村は、そっと俺の手から逃れていった。

「会えますよ、必ず」

「……」

どうしてそんな無責任なことを…
でも、まず自分がそう望み続け手をのばさなければ、叶うものも叶わない気がした。そんな希望を、また与えられた。

「っ─」

「あ、いけない。今日僕日直なので、戸締まりしてきますね」

「あ、ああ…」

“ありがとう”、“でも、あんたこそ何か…”そう続けようとした声は遮られ、左手からも園村の手は退いてしまった。

「歩きですよね、帰れますか?」

「ああ」

「無理しないで下さいね、辛かったら送りますよ」

立ち上がったくせに腰を少し曲げて視線を合わせてきた園村。空を切った言葉をもう一度紡ぐのは無理そうで、「いや、大丈夫」としか答えられなかった。

「わかりました。気を付けて帰ってください」

「ん」

「本当に、無理そうなら待っててくださいね」

待っていたい、送ってほしい、どちらも違う。俺はただ、もう少し一緒にいたかった。もう少し、手に触れていたかった。

園村はもう一度微笑んでから、白衣の裾を翻して出ていった。
一人取り残された保健室、窓から見えた空は既に薄く闇を広げていた。


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