「蓮」
「っあり、がとう…」
冷たいカップをその頬に押しあててからテーブルに置き、肩が触れてしまうほど近くに腰を下ろす。まだエアコンの効ききらない室内はむわりと生温い温度を肌に与えてくる。それでも、触れたいと思って。
「…説教でもされたわけ」
「へっ?」
「放課後」
「あ…うん、まあ…」
そんなわけないだろうに。蓮が教師に説教されるなんてあり得ない。確かに授業に出ないことは多々あるが、それには“病気”が有効な言い訳になるし。生活態度にも問題はない。
「ごめん、待たせて…先、帰っちゃったかな、って…思った」
悲しげに微笑み、蓮は冷えたコーヒーを口に含んだ。俺は限界まで甘くして飲むが、蓮はブラックで、たまにミルクを入れるだけ。別に俺も甘くしなくても飲めるが、何故だか甘いものが好きで。
「帰らねえよ」
「っ…でも……」
「嫌なら嫌って言えば」
「ちがっ」
勢い良く俺を見た蓮の手の中、コーヒーの水面が揺れて波紋が広がった。
「違うよ…そんなこと、ない」
「……なんでそんなに、泣きそうな顔してるんだよ」
伏せられた瞼からのびる長い睫毛が、びくりと揺れた。
「蓮?」
カップを小刻みに震える手から抜き取り、自分のカップの横へ並べてから、そっと顎を掴む。無理矢理に持ち上げた視線を絡ませ顔を近づければ、蓮の頬が赤く染まった。
「っ…」
「何?言いたいこと、あるなら言えって」
きゅっと噛まれた唇。それが緩やかに開き、やっぱりダメだと言うようにまた噛まれる。それを二、三度繰り返し、意を決したように蓮は口を開いた。
「…僕、邪魔?」
「……は?」
…邪魔、とは。問われた意味が良くわからず蓮を見つめれば、蓮まで困ったように眉を下げてしまった。
「…三組の女の子に、言われて…」
「三組…?何を」
なんだか俺が責めて泣かせている図みたいで、無意識に柔らかい口調になる。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「帰り…とか、休みの日も…虎、全然遊ばなくなったんだけど、園村くんの所為か、って聞かれて…」
「んん、それで?」
「分からないって答えたら、とりあえず今日は私が、虎と帰るから…園村くんは適当に時間潰して、一人で帰って…って」
「…は?」
「だから、まさか…待っててくれると、思ってなくて…」
「ちょっと待て。なんでそれで、蓮が言うこと聞くんだよ」
「え…?」
言われてみれば、蓮を待つ間に声をかけられたかもしれない。鬱陶しくて、掴まれた腕を振り払い、それから何か言われて…でも、内容は覚えていない。俺にしてみたら、それだけのことなのに。
「そんなの気にすることないだろ。堂々としてればいい」
「…でも」
「蓮」
顎を持つ手に、力が入る。
「…付きまとうな、って…虎は、僕なんて相手にしないって…」
誰だかわからない相手に苛つきを覚えたが、それより嬉しさが勝っていた。あれほど俺を遠ざけていた彼が、今は俺から離れろと他者に言われて傷付いているのだ。傷つけたことは許せない、けれど傷つき考え込むほど、自分の存在が大きいことを知り、不純にも嬉しくなったのだ。
「馬鹿」
触れるだけのキスをひとつ落とし、すっかり汗の引いた頬を撫でる。
「……キス以上は、する気にならない?」
猫のように俺の手に擦り寄る蓮。耳を疑うような言葉に、俺はなにも言えなくて。唯一、驚きに目を見開いたことには気づいた。でも思考がついてこない。
「あ…ごめ…」
俺の手から逃れようとした蓮をひき止めて両手で頬を包み込む。琥珀色に光った瞳に、自分の間抜けな顔が映った。
「…やっぱり、男…だかっ─」
耐えきれず、その体を抱き上げてすぐ脇に置かれたベッドへ下ろす。見た目通り簡単に持ち上がった体に跨がり、馬乗りになれば、蓮の顔はみるみる赤く染まっていく。
「俺が、どれだけ我慢してると思ってるんだよ」
「…え……」
「血を吸う云々を抜きにしても、俺は常に、蓮に欲情してる。でも、お前の目に諦めの色が浮かぶから」
「それは…」
「快楽に流されて、蓮を抱きたくない。今まで蓮を犯した奴等と、同じにはなりたくない」
「っと、ら」
布団に縫い付けた彼の手を握りしめ、まっすぐに視線を絡める。
「今すぐ抱きたい。毎日、常に、そう思ってる。でも、蓮が俺に抱かれたいって、ただ好きでそれを望んでくれるまで、俺は蓮を抱かない」
今にも手放しそうな理性を、あの日気づいた諦めがなんとか今も繋いでいる。
「それがどういう意味か、分かる?」
「い、み…?」
「そう、意味」
「……」
「分かんねぇの」
肯定も否定もせず、蓮は困惑の目を向けるだけ。別に、わからなくてもいい。いや、本当は痛いってくらい分からせてやりたいけれど、まだ、いい。最初と同じ。じわりじわりと侵食し、分かった頃には身動きできなくなっていればいい。
「いいよ、まだ」
額にキスをしてから拘束を解き、蓮の横へと自分も寝転ぶ。大人の男二人が満足に寝られるほどの広さはないが、セミダブルというのは案外広い。
「……虎」
「ん?」
ギシリと、ベッドが軋んだ。
同時に、隣に横になる蓮の顔が近づく。
「れ─」
触れて、すぐ離れた唇。
唇の柔らかさが、熱が、鮮明に残った。
「ばーか。あんまり煽ると、食われるぞ」
本当に、これ以上は止められないのに…さらに俺を追い込むようなことを、蓮は呟いた。
「……いい、よ…」
「、は…」
すぐに枕に埋められてしまった顔は見えなくて、けれど乱れた髪から覗く耳は真っ赤で。籠った声は良く聞こえなくて、聞き間違えだったかと思うほど。けれど、蓮の赤さに聞き間違えなんかじゃないと悟る。一気にうるさくなった心臓の音を誤魔化すように、彼に覆い被さって顔を覗いた。
「…もう一回。ちゃんと俺の顔見て、言って」
なかなか俺を見ようとしない目を待ち、さらに顔を近づけた。
「蓮」
おずおずと俺に向けられた顔。濡れた睫毛に縁取られた綺麗な瞳、こぶりな、けれど柔らかな唇、時おりちらりと覗く八重歯、視覚からの情報全てが脳を刺激し、下半身は情けなく反応してしまった。
「……食べられても…かまわな、い」
「っ、」
今度こそ本当に、止められない。
「…いいのか?」
「…でも、ひとつ…聞いて?」
「なに?」
息がかかるほど近くにある顔。しかしその口を塞ぐのは、今すべきことではない。落ち着いて話を聞ける状態ではないけれど、蓮は言葉を紡ぎ始めた。
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