床に散るダークブラウンの髪も、ピアスはついていないがピアスホールのある形の良い耳も、全て、綺麗だ。
「っ…ま」
「待てない。待って、答えは変わるのか?変わったとしたら、それはやっぱり理性に負けた答えだろ。今、出てる答えは?」
喉仏が上下して、白い喉が鳴る。
「……て…る、なら……」
「なに?」
熱を帯びていくのが、感じられる。それがひどく心地よくて。きゅっと噛まれた唇に早く触れたくなって。
「…………本当に、僕を…殺してくれる、なら…」
「んん」
「君の…と、らの…血が、欲しい」
今にも泣き出しそうな顔が必死に俺を捕らえようとしている。愛嬌くんでも、君でもなく、その声は俺の名前を奏でた。
「…僕は、たぶん…虎より前から…気になってた」
「…は?」
「、ダメ、だと思った…入学式の日から、君の匂いには、気付いてて…こんなにも欲望を掻き立てられたのは、初めて、で…」
だからあの日、我慢出来なくなったのだろうか。もちろん俺が問いただしたことも関係しているだろうし、自ら首を差し出しもした。けれど、それまでの我慢を無駄にしたのは彼自身だ
「同じクラスになって、おかしく、なりそうだった。常に理性を失ってしまいそうで、気が狂いそうで…だから、こうして近くにいるだけで、僕は…」
どくんどくんと、血の流れる音が聞こえる。指から、伝わってくる。
「俺のこと、意識してたのか」
「っ…」
「俺を見ないように、関わらないように、してたのか?」
返事の代わりに、こくんと頷く。
「約束する。俺は蓮を死ぬまで愛して、蓮が俺を食らいたくなったら殺してやる。だから、俺の傍に、いて」
じわり。
滲んだ涙が頬を滑る。
白い肌をなぞって消えたそれは、静かに絡まる。
「蓮」
罠にかかったのは俺の方だろうか。全ては彼の策略で、まんまと引っ掛かったのは俺で。こうして縋りつくよう仕掛けられていたのかもしれない。いや、それでも良い。
「……ずるい、そんなの…」
「人間はそういう生き物だ」
その声が、俺をもう拒絶しないのなら。
「………わかっ、た……」
消えてしまいそうな声。雨の音に、軋む床に、掻き消されそうな声。それでも彼の精一杯が胸に染みて、自分でも信じられないほど満足していた。繋いでいた手をひき、その体を胸に収める。
少しの力で持ち上がったが、抱き込まれるのは嫌だと言うように胸を押されてしまった。
「……コーヒー、冷めちゃう…よ」
「そうだな」
赤い頬に口づけてから、そっと離れてマグカップを手にした。温度を下げたそれを一口飲み下し、蓮の返事を頭のなかで再生した。“分かった”それはつまり、“恋人”ということでいいのだろうか。付き合う、なんていうのは初めてで、よくわからない。ただ傍にいても良いという許可を得たにすぎないのか、すぎないにしても、構わないのが。
しばらくの沈黙、その間雨は一定のリズムで窓を打っていた。こうして誰かと過ごす時間なんて滅多になく、ましてや何をするでも喋るでもないなんて。少しも苦痛に感じない沈黙が、酷く心地良かった。
「…あの」
「ん?」
「……そろそろ」
「ああ、帰るか?乾燥機見てくるよ」
空になったカップを持ち、立ち上がれば「洗うよ」とその手を掴まれた。別にそんなこと良いのに、律儀なやつなんだな。確かにそう思ったが、それはガラスの割れる音に、断ち切られる。来客用の、白にブランドのロゴが入っただけのマグカップが、フローリングの床に小さくなって散った。あっと漏れた蓮の声。そしてその手が慌てて破片を拾おうとする。
「馬鹿、片すから待て」
「ごめ……なさ…」
反対の手に持っていた自分用のカップをテーブルに戻し、大きめの破片をゴミ箱に入れ、細かいものは掃除機で吸い、それだけのことなのに…蓮は何度も何度もごめんなさいと呟く。
「大丈夫だから。手は?切ってない?」
「僕は、大丈夫…あ…」
「そう、ならいい」
「でも、君が…」
「あ?…」
痛みはなかった。けれど、親指の腹が切れていて。滲んだ血が、赤い線をひいていた。
「ああ、これくらいどうってこと…」
舐めておけば治る、言おうとして飲み込んだ。
蓮の目が、俺の指先に釘付けになっていたから。ごくりと音が聞こえるほど、この赤を渇望して。そして、そのまま顔が寄せられ、生暖かい口内に指が飲まれた。
「っ…」
大した出血量でもないのに、思いきり指を吸われ、思わず息をのむ。 蓮はまだ、自分の行動に気付いていない。本能の赴くままに、俺の血を舐めるだけ。もう何も出てこなくなったのか、柔らかな舌が傷口をなぞり、つついた。そこでやっと目が合い、蓮ははっと手を離した。
「ごめん、ごめんなさ…」
「腹、減ってるのか」
力なくふるふると横に首を振られても、説得力などない。
固く口を閉ざし、唇が噛まれる。
「噛むな」
切り傷だけが残った親指でそこをなぞり、顎を掴んで潤んだ瞳を覗き込む。とんでもなく、扇情的だ。俺の方が、食らいつきたい気分だ。噛みついて、滲んだ血を、舐めとりたい。一滴残さず。
「血なんて、幾らでもやるから」
抱き寄せ、ちょうど首筋に蓮の鼻が当たることに気づく。だからさっき、拒否したんだろうか。確かにこうするたび蓮はびくりと体を揺らす。このまま抱き込まれてしまえば、ただただ自分の欲求に耐えなければならないから。
「ほら、蓮」
耳まで赤く、そこに舌を這わせれば大袈裟に肩を揺らして俺のシャツを掴む。まるで、まだ葛藤しているみたいに、震えながら触れる唇。首筋に感じたその感触に、ぞわりと鳥肌がたつ。荒い息は、興奮しきっているみたいで。ひやりと触れた硬いものは、紛れもない、あの八重歯だ。
「っ、」
鋭い痛み、広がる熱、そして疼く腰。
血を奪われている、じんじんと熱くなってくる。
「ん、……」
本当に、この行為は堪らない。どんな誘惑よりも薬よりも、高揚しきった目を細め耐え難い感覚を残していくこの男に、俺は欲情する。興奮して、苦しくなる下半身を抑えようと、息を整えるしかできない。
「は、ぁ…」
「っ、んく…ご、ごめ…」
「はぁ、は…もう、終わりか?」
唇が、血でうっすらと赤く染まっている。それが自分の血だと思うだけで、身体中の毛穴が開いたように感じた。
「ごめん、なさ…ごめんなさい…」
「謝んなくて良いから」
「でも…」
「名前、ちゃんと呼んで」
顔の近さに、息の熱さが伝わる。それはきっと俺も同じで。もしかしたら俺の方が熱いかもしれない。
「…虎」
「そう」
今すぐ押し倒して、繋がりたい。自分のものにしたい。
そんな欲が止めどなく溢れ、けれどあの日垣間見えた“諦め”が、その欲をギリギリのところで繋ぎ止めている。俺は今まで彼に欲情してきた奴等と同じにはなりたくない、それだけの意地が、理性を繋ぎ止めているそれにしても暑い。違う、体の中から熱が込み上げてくるんだ。血も脳みそも、沸騰しそうに熱い。
「ごめん、苦しい…よね、」
ああ、苦しい。今すぐこの欲望を吐き出したい。けれどやはりまだ早い。我慢できなくなるのは時間の問題だが、今はまだ大丈夫だ。せめてもう少し耐えて、蓮に分からせてやりたい。俺がどれ程惚れていて、不純な行為だけが目的ではないということを。大事にしたいんだという誠意を。
「蓮…」
「っな、に?」
「キス、して」
この興奮に流されて、抱きたくなどない。
「へっ…」
間の抜けた返事。俺はまぶたを下ろし、うるさい心臓を静めようとひとつ大きく息をついた。汗の浮かぶ額に前髪がはり付いて、気持ち悪い。邪魔だ、そう思って掻き上げ、唇に意識を集中させた。胸元でシャツを掴んでいた手が、緩やかに肩へ移動し、鼻と鼻が触れる。たかがキスひとつ、こんなにも緊張するなんて。やっとふれた柔らかいものは、本当に触れるだけで離れてしまった。
「もう一回」
薄く目を開き様子を伺えば、困ったように眉を下げる蓮が見える。
「蓮」
今度は、近づく様をしっかりと捉え、唇を重ねた。
そのまま幾度か触れるだけのキスを繰り返し、ほんの少しずつ鎮まっていく熱がなくなるまで、名前を呼び合った。
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