それからは特に何を話すでもなく、学校から自宅までの徒歩二十分をゆっくり歩いた。家につく頃にはやっぱり二人ともびしょ濡れで、立ち止まった俺を、蓮は困惑の色を浮かべた目でチラリと見た。
「上がってく?タオルと着替え、貸す」
「っ、いい、大丈夫…か、帰るね」
俺の手から傘を奪おうとした白い手を取り、半強制的に玄関へ招き入れた。閉じた傘は適当に立て掛け、制服から滴り落ちる水滴をそのままにタオルを取りに行き、大きめのタオルで彼を包む。
「あとで送るから、先に拭け」
「え、本当に、いいから…」
「取って食ったりしねえよ」
警戒心丸出しなのがまた可笑しい。確かにここでまた血なんて吸われたら、理性を保つ自信はない。でも、それ以上に俺は傷つけたくないと思ってるわけで。とりあえず今は一秒でも長く一緒に居たいだけ。
「だからほら、靴下脱いで上がれ」
両親とも帰っていない家の中は静まり返っていて、雨の音だけが響く。ただでさえシンプルな家なのに、人気がないとくるとそれはさらに寂しいものに感じられる。
「コーヒーとココア、どっちがいい?」
「…コーヒー」
「ん、砂糖とミルクは?」
「どっちも、いらない」
「分かった。階段上がって左の部屋だから、上がってて。あと、これ、着替えとけ」
朝かけられたま放置された乾燥機の中から適当にTシャツとジャージを渡し、キッチンへ入った。トントンと階段を上がっていく足音が、雨の音と共鳴していた。その背中を見送ってから自分も着替えを済ませ、コーヒーをいれた。見た目に反してブラックを飲むのかと思ったが、見た目通りか、とも思った。自分のものにはたっぷりの砂糖を入れ、二人分のマグカップを持って部屋へ上がると既に着替えを済ませた蓮がものすごく遠慮がちに床に座っていた。笑いそうになる程ぶかぶかの服の所為かいつもよりこじんまりと見える。別に体が小さいわけじゃなく、存在感の話だ。
「はい」
「あ、りがとう…」
マグカップを受け取る手が触れ、その冷たさに少し驚いた。やっぱり冷えているじゃないか。
「寒い?」
「ううん、大丈夫」
「そう」
彼の脱いだシャツとスラックスを拾い上げ、自分のものと一緒に乾燥機にかけるため、一度階段を降りてから再び部屋に戻った。
たいして広くもない、無機質な自室。見慣れたシンプルな家具の中、たった一つの、一人の、その異質感はすごい。異彩というより、異質なもので。ここへ招き入れたのは、彼が初めてだ。だから余計に、そう感じるのかもしれない。
「……美味しい」
両手でカップを持つ姿が可愛らしく、ぽつりと呟かれた声にその中身が揺れた。
「佳乃が…母親が、拘ってるんだ」
「そう…なんだ」
少しだけ距離をおいて座り、律儀に畳まれたタオルを頭に被せた。僅かに湿ったそれからは、嗅ぎ慣れないシャンプーや香水の匂いがした。
気まずそうに俯いて、折り曲げたジャージの裾から覗く白い足がもぞりと動く。柔らかな髪は癖毛なのか、半乾きで放置されて無造作に跳ねている。
「あの、そんなに……見ない、で」
「悪い、それは無理」
「あい─」
「虎」
可愛い。
真っ赤だ。
「ずっと、気になってたから」
そういえば電気がついていない。瞳が、焦げ茶色のままだ。いや、電気の明かりくらいじゃ琥珀色には光らないんだろうか。
「もう、ずっと前から。…一目惚れ。男だって、分かってたのに」
「っ……」
「分かってるのか?今こうして隣に居ることが、俺にとってどれだけ奇跡みたいなことなのか」
たっぷりの砂糖が入ったコーヒーを一口飲み下し、言葉を続けた。
「手を伸ばせば届くところに、蓮がいる。でも、俺はなにも知らない。蓮のこと」
真っ直ぐに視線がぶつかり、けれど逸らされない。
「何が好きで、どうやって生きてきて、何を考えてるのか、俺は、なにも知らない」
温まってきた手を彼に伸ばせば相変わらずびくりと震える肩。
「辱しめを受けてきたからこんなにも怯えるのか、 蓮自身が理性を抑制出来ないから焦っているのか、ただ単純に俺が嫌なのか、俺には何も分からない」
冷たい頬を、指が掠める。赤いのに、まだ少し冷たい彼の頬。
「それでも俺は、離したくないと思うんだ」
「…あの、でも…もう少し、離れて……」
「なんで?」
「っ匂いが…」
“匂い”あのときも言われた。
俺の匂いが好きだと、好みの匂いがすると。そして我慢できないと。
「なあ、聞いても良い?」
「な、に?」
「…血を飲むペースは、どのくらいなわけ?」
「え?」
「一日に何リットルとか、何日にどれだけとか」
「あ…特に、そう言うのは…人間と同じように食事をして、サプリを飲んでれば一週間は全然平気、だし…どうしても我慢できなくなったら、買えばいいし…」
「そうか」
「でも、子供の頃は…生き血で育ったから…」
ふっと声が途切れ、顔を覗き込む。しまった、というように唇を噛んだ彼は、俺の視線から逃れるように顔を背けた。
「育ったから、なに?」
「なんでも、な…」
「やっぱりそれが、恋しい?」
「……」
「なんで?俺に噛みつけばいいだろ」
「っそれはダメ」
「だから、なんで?」
長い睫毛が、揺れる。
「……から」
「なに?」
「君の、血が…忘れられなくなる、から…」
「それ、俺にとっては好都合なんだけど」
「お願い、だから…僕のことなんて─」
言い終わるより先に両頬を捕まえ、ぐっと顔を寄せる。逃げる暇もなかった目と目がしっかりと合う。絡んでしまえば、離せないようなきつい絡まり。
「見返りとか対価とか代償とか、余計なこと抜きにして、考えられないのか。俺はただあんたが好きで、別に血が欲しいならくれてやるし、それだけが目的で傍に居るのも構わない。言っただろ、あんたに血を吸われて死ねるなら、本望だって」
欲しい。
解けてしまわない絡まりが。消えてしまわない繋がりが。
「ダメ…お願いだから、離れて……君の匂いに、僕は可笑しくなりそうなんだ。…今も、自分を抑えるのに必死で…もう一度君を喰らったら、僕は…本当にもう、」
「俺は、それを望んでる。俺を殺したくなる前に、あんたを殺してやるから」
諭すような、宥めるような、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。声の穏やかさとは裏腹の言葉。けれどそれはまさに今の自分の中にあるもの。彼の中に少なからず俺の存在がある、それがただの生理的欲求でも、確かにあるのなら、もう堕ちるしかない。いや、彼を引きずり落とす、と言う方が正しいのだろうか。分からない。分からないけれど。
「蓮」
生まれて初めて自ら欲しいと望んだものが、目の前にあって触れられる。俺を拒絶しながらも、その裏では彼も俺を望んでいる。少しずつ、本当に少しずつ、知っていければいいのだ。だから今くらい、必死になってしがみついてもいいだろう。
どさりと、カーペットも敷いていないフローリングの床に、蓮が背を預けた。俺が、押し倒した。困惑と興奮と、そして欲情を浮かべる瞳が、俺を見上げる。
「取って食ったりしない。今は、まだ」
触れた唇は熱く、俺よりも温度の高いそこにぞくりとした。
じわり、ゆっくりと絡まる。
指が、髪が、息が、絡まっていく。
これでいい。捕らえた場所を離さず、静かに全身を絡め取っていけば。俺から離れられなくなればいい。
「んっ、ぁ…」
深く口づけてから体を離し、絡まる互いの指を見下ろした。白く、脆そうで、けれど女っぽくなどない。角張っているようで、けれどしなやかで。整えられた爪は病的に白いけれど、それもまた綺麗だと思った。
「蓮…返事は?」
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