「蓮」
熱い頬にそっと頬に手を滑らせれば、大袈裟に揺れる肩。
口と目を拭ってやり、もう一度顔を寄せた。けれど慌てて目を閉じた彼に気づき、鼻と鼻が触れる位置で動きを止める。
「…目」
固く閉ざされた目を指で一撫ですれば、それはぴくりと動き、恐る恐るというように少しずつ開いていく。焦げ茶色の瞳に自分が移り、それに満足して触れるだけのキスをした。唇と唇が触れ、その温度を確かめ合うことも、舌が侵入し合うこともしない、子供の戯れのようなキスだ。
それでも離れることが嫌で、何十秒も何分も、そうしていた。うっすらと開いたままの目で、同じように開いた園村の目を捕まえて。
「っ、ん……」
「…そんな、物欲しそうな顔するなよ」
「してな…」
やっと離せた唇を、今度は園村の額に当て、ちゅっと音をたててまた離れた。それから乱れた髪を直してやり、見た目通り柔らかなそれを指先で弄んだ。
「…あの、あいきょ─」
「虎」
「っ……虎…」
「ん?」
「その、…本気?」
「何が」
「さっき、言ったこと」
「…お前に殺されてもいい?お前を殺してやる?俺のものになって?」
「……全部」
射抜くように見つめられ息がつまる。
「冗談で言わねえよ」
「でも、どうしてそんなこと…理由が、分からない」
理由がいるのだろうか。俺が園村蓮について話せば、それが理由になるだろうか。
「何て言えば、満足するんだ」
「っ、…」
「俺があんたに…蓮に、惚れてるから、じゃ足りないのか」
眠る姿が忘れられなくて。やっと見つけて、触れるチャンスを掴んだ、それだけのこと。非現実的な言葉をつきつられていることなんてどうでもいいほどに、俺は蓮に囚われているとどう伝えればいい。
「そんなの…僕の言うことを信じろ、って言うのも、無理な話なのに…君は、そんな僕を…」
「関係ない」
喉から手が出るほどあんたが欲しいなんて、自分でも異常だと思う。でも、もし彼が倒れていなかったら、俺は話しかけることなんてなかった。見ているしかできなかったと思うんだ。恋する乙女、そんな可愛い言葉ではなく、獲物の隙を目をギラつかせて待って窶れていく哀れな肉食獣のような。自ら触れることなど出来ないくせに、望むのだろう。そう思うから、今のこの現状を、俺は離したくないのだ。
「じゃあ…俺は蓮が好きだから、付き合って欲しい」
生まれて初めての告白が、まさか男相手だなんて、それも同じ人間じゃないなんて、考えもしなかった。驚きに見開かれた目が、緩やかに形を戻す。
「僕、男だよ」
「今さらそれを言うのか」
「でも」
「いいから、もう黙れ。嫌ならあの時みたいに、本気で押し返せ」
華奢な背中に腕を回しそっと抱き寄せれば、一瞬肩が震えただけで拒絶されることはなかった。ただ、未だ息の整わない蓮に、少しの疑問。いや、心臓のうるささは、伝わってきている。
「……興奮してるのか」
「ちがっ…」
慌てて離れようとした体をしっかり抱え込み、逃げないよう力を込める。湿気の臭いが、彼の匂いに消される。窓を打つ雨の音が、彼の心音に消される。なんて心地良いんだろう。このまま、何もかもが溶けて混ざり合えたらいいのに、なんて、柄にもなく思ってしまった。
「……なあ、ここままサボる?」
「え、」
このまま、どこか二人きりで居たい。唐突にそう聞いていたのは、ここに居てはタイムリミットがあると感じたからかもしれない。
「もう六限始まってるし、雨だし」
「…あ」
「傘無いし」
帰宅ラッシュの中、傘をささずに走る滑稽な自分が嫌だから、あのまま一人だったら確実に今帰っている。
「……傘、ないの?」
「朝は、降ってなかった」
「僕の、貸そうか」
「蓮が濡れる」
「僕は大丈夫。少しくらい濡れたって、どうってこと、ないよ」
「……なあ、馬鹿?」
「へっ?」
「いや、馬鹿だろ」
笑いが漏れた。可笑しくて。
「好きなやつ濡らしてまで、傘借りたりしねえよ」
そう思った自分が。ゆっくりと体を離し、きょとんとした彼の顔に、更に笑いが漏れる。久しぶりだ。自然と笑いが漏れてしまうなんて。もう何年も、こんなことなかった。
「蓮を濡らすくらいなら、俺が濡れた方がマシ」
「っ…じゃあ、一緒に…」
「…送ってくれるって?」
それを期待しての、さぼろうか。顔を真っ赤にして頷いてくれたことが嬉しくて、蓮の手を取り立ち上がる。クラスが同じだから下駄箱の場所も同じ、同じような皮のローファーに足を突っ込み、玄関を出た。蓮は置いておくと必ずと言って良いほど誰かに持っていかれる、昇降口の傘立てから一本手にして俺の横で立ち止まった。
「…自分の?」
「?うん」
「そこ、ほとんど貸し出し自由みたいになってるけど」
「…僕は一度も、なくなったことないよ?」
濡れた傘を教室まで持っていくのは確かに億劫だけど、盗まれるとわかっているそこに、皆好んで入れてはいかない。なんとなく、流石だなあなんて思いながら一歩前へ出て、開かれた傘に視線を移す。
「ど、どうぞ…?」
茶色の木の柄がついた、紺色の傘。彼には少し大きいように見えるが、今はちょうどいい。
「持つよ」
するりとその中へ滑り込み、柄を奪う。今さらだけど家の方向は違うだろうか。いや、違ってもいいか。送り届けられたら、俺が傘をもって送り返せば良い。そんなに一緒に居たいと思っている自分にも、抵抗もなくそれを受け入れている自分にも驚いて、また笑いが漏れた。
「あっ…ありがとう」
想像していたより強い雨足に、これは傘があっても大分濡れてしまうと気付き、気づかれない程度に傘を傾けた。自分のシャツが濡れるのは構わない。帰って脱げば済む話だ。
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