☆☆3

「七海って可愛いよな〜。」

そんな声が聞こえたのは断りきれなかった男の同期たちとの昼ごはん。思わず吹き出しそうになった蕎麦をごくんと一気に飲み込んだ。

「なにお前狙ってんの?」
「いやぁ、まぁ隙があれば?」

接点もっとあればなーなんて同期は含み笑いをしながらそう答えた。茅ヶ崎はどう?と聞かれても俺がいいと思ってるから狙うな、なんて言えるはずもなくいい子だよねと当たり障りもなく返事をした。

最近前よりはちょっと積極的に頑張ってるつもり。というか七海さんが熱でダウンした日の医務室でうっかり近づきすぎてかなり反省してる。でもあのときは先輩があまりにスマートに事を運んで躊躇いなく七海さんに触れたりしてて、嫉妬と悔しさといろんな気持ちが入り乱れてた。そんな後に熱とはいえあんな目が潤んで火照った顔で、しかもベッドで、俺といると安心するなんて笑顔で言われたらなんかもう可愛くて止められなかったんだ。

「茅ヶ崎同じチームで羨ましいわ。」
「はは、でも七海さん仕事出来るから抜かされないように必死だよ。」
「真面目か!」

ここのところこんな会話がやけに胸にささるようになってきたことに気づいた。そろそろちゃんと気持ち伝えた方がいいのかも。少なくとも嫌われてはいないはず、たぶん。おあつらえむきにあと1カ月弱でクリスマスもあるし、こういうのってたぶん勢いが大事な気もするし。言わなきゃ伝わらないなら早いうちがきっといい。

「今日だって2人で飲みだろ?いいなぁ。」
「2人っていうか2人で接待しに行くだけだから全然意味が違うでしょ。」
「は〜茅ヶ崎ってできた奴だよなぁ。」

羨ましいだろと言いたくなるのをグッとこらえて笑いながらもう時間だよと立ち上がった。

**

飲み会という名の接待は至って平和に進んでいった。相手は気のいいおっさんたちで、エロオヤジなんかではなく強いて言うなら酒豪。無理にお酒を勧められたら止めようと思ったりもしてたけど、七海さんは楽しそうに飲んでいたから安心した。

だけどどうやら俺が思っていたよりも飲んでいたらしいと気がついたのは店を出て七海さんと2人になった時だった。笑顔でタクシーを見送って振り向いたらかくんと膝が折れて体がバランスを崩す。反射的に手を伸ばしたからなんとか転ばせずにすんだけどこれはもしやけっこう酔ってるのでは?

「わたし、よってるかもしれません!」

顔をあげてへらりと笑った七海さん。ほんのついさっきまでは仕事モードで上品に微笑んでいたのに任務完了とばかりスイッチが切れてしまったのかなんとも幼い笑顔になっていて。

1人で大丈夫だという七海さんのタクシーに乗り込んで送っていくといえばすみませんと小さくなってしょんぼりとしていた。さっきからいちいち可愛いなとにやけそうになる顔をグッとこらえ表面上は冷静を装って到着を待つのだった。

**

車を降りた七海さんはあと帰るだけだからと言い張って俺をタクシーに残して歩きはじめる。流石に心配になって少し様子をみていると隣に七海さんの鞄があるのが目に入り、慌てて追いかけた。そして声をかけようと思ったときにその背中が突然前ではなく横に向かって勢いよく進み始め止まる。左右でそれを何回も繰り返してまったく前に進めていない様子にあまりに面白くて。

「はははっ…、七海さん面白すぎ。」

勢いよく振り返った七海さんは目を丸くして爆笑している俺をなんとも言えない顔で見つめていた。

いきだおれたら心配だから部屋まで行くことにして、心の中で決して送り狼なんかではなく心配なだけ心配なだけと誰に言い訳するわけもなく唱えながら七海さんの後に続いた。そりゃ俺だって男だからこのまま…なんて思わなくもない。正直他の女の子だったら手を出していたかもしれないけど、好きな子だからこそここは堪えるべきだ。うんこの決意が崩れる前に早く帰ろう。

「ちゃんと鍵かけてね。」
「ふふふ、だいじょうぶです!もうこのまま床で寝ることにしました。」

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玄関に着いたら完全にスリープモードに入ってしまった七海さんに鍵だけはしてもらわないとと声をかけるも声は届かなかった。

「おつかれさまでしたぁ。」
「まじか。」

そのまま床でスヤスヤ気持ちよさそうに寝始める七海さんと立ち尽くす俺。さすがに鍵閉めてくれないから帰るのは心配すぎる。このままじゃ風邪もひきそうだしな…とりあえずベットまでは運ばないと…

「ちょっとごめん。」

自分の腕力が心配だったけど七海さんは軽く、抱えることができた。運ぶだけ運ぶだけと再び自分に言い聞かせて部屋の奥へと進む。

そうして一歩進むたびにふわりと香水とは違ういい匂いが鼻をくすぐった。込み上げてくるいろんなものを押さえ込むために顔を見ないように必死で上を向く。一体なんの試練なんだこれは。耐えろ俺。がんばれ俺。明日から始まるイベのことを考えろ。ベットに降ろしたら玄関で朝までゲームゲームゲーム…

「よっ、と…これでやっと離れられる…」

ゆっくりと七海さんをベットに降ろして小さく息を吐いた。彼女はしっかりしてるから誰に対してもこんなに無防備なわけじゃないとは思う。それでも、仮にも俺だって男なんだから信用しすぎな気がして喜んでいいのか悩むところだ。

少し複雑に思いながらも変な気が起きる前に早くベットから離れようと立ち上がったとき、突然スーツが引っ張られバランスを崩した。

「え、」
「ちがさきさん…まだ…」

驚いて振り返ろうとして、そのまま七海さんに覆い被さるような形で顔の横に手をついた。

月明かりの薄暗い部屋。目の前にはアルコールのせいで赤くなった七海さんの顔があって、思わず息をのんだ。これは本当にやばいと体を起こそうとしたとき。

「いかないで…」

ささやくように聞こえるか聞こえないか、そんな声で耳に届く。その瞬間に心臓が脈打った気がした。俺に対して言ってるのかなんて分からない。それでも2人しかいないこの部屋で好きな子に、甘い声で名前を呼ばれこんなこと言われて冷静でいられるやつがいるんだろうか。

ゆっくりと手を伸ばして髪を撫でれば彼女は少し身じろぎをして、なにか夢をみているのか幸せそうに微笑んだ。さっきから必死で張っていた理性という細い糸が限界まで伸ばされていくようで。

「マナ…」

半ば無意識に名前を呼んだ。もちろん返事はなく、静かな部屋に響く時計の音がやたら大きく聞こえてくる。ずっと葛藤していた頭は、だんだんとなにも考えられなくなり引き寄せられるように距離が縮まっていく。後先なんて考えられなくて触れたい、そんな気持ちが強かった。そして唇が重なるまであとほんの数センチ、そんなところまで迫り…

「…っ、セーフ。」

ギリギリのところで顔をそらして脱力し、はぁ〜と大きくため息をついた。

よぎったのは七海さんが笑ってる顔で、たとえ寝てる間でも信用を裏切るわけにはいかないと思った。俺がこんなテンパってるなんて知るよしもないだろうけどやっぱり七海さんの前ではかっこよくありたいから。いや今の時点でかっこよくはないんだけど。でも俺がもうちょっと酒入ってたらアウトだった本当に。むしろ理性を保った自分を讃えたい。

「こっちの気も知らないで気持ちよさそうな顔して寝ちゃって。」

身体起こしてベットサイトに腰掛け彼女の頭をやさしく撫でてそのまま触れるか触れないか、そんなキスを額に落とした。

これくらいは許されてもいいよね。

「おやすみ、七海さん」

来ていたスーツの上着をかけて床に座りなおした。そしてこれから力尽きて眠るまで、朝までの我慢大会の幕開けだ。

**

「イタル!昨日はどこいってたネ!朝帰りなんてふしだらヨ!?」
「至さんおかえりなさい!シトロンさんなんで朝帰りがふしだらなんですか…?」
「咲也それはネ…」
「シトロンそこは説明しなくていいから。てゆうかそういうんじゃないし、頼むから寝かせて…」

朝の太陽に溶けそうになりながらなんとか帰って玄関に入るなり、シトロンに見つかってガンガン詰め寄られる。こんな早くから起きてるなんて誤算だった。ひっそりと部屋に帰ろうと思ってたのに。接待で電車がなくなってしまったと説明すると咲也は純粋に心配してくれたけどシトロンは考え込んで俺のことを眺める。

「接待でスーツ忘れるはずないヨ!」
「そっか言われてみれば…シトロンさんよくみてますね!」
「名探偵シトロンだヨ!イタル、何があったか白状するネ!」
「なんの騒ぎ?」
「真澄くん!今至さんが帰ってきたんだけどシトロンさんが…」
「サイテー。」
「おい真澄はまだなんの説明も聞いてないだろ。」

一刻も早く部屋で寝たいのにそれから綴が来たりどんどん人が増えていって話が膨らんでいく。怪しまれまくったけどやっとのことで誤魔化しふらふらと部屋に帰ると、ラスボスならぬ千景さんが部屋に座していた。笑顔をみて凍りつくってなかなかないよね。

「おかえり茅ヶ崎。昨日会食だったって聞いたけどどうだった?」
「…積んだ。」

詳細を話さない代わりになにを要求されたのかは103号室だけの秘密だ。

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