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「七海さんこれ今日中にお願いできる?」
「わ、かりました…」

普段あまり仕事を回してくることのない女性の先輩が仕事を頼んできたのは就業30分前。先輩だから拒否もできず思わず受け取ったものの今日中、なんてどうして言えたのかというくらいの量で。断れない私の性格も悪いのだけど、もう一回言うけれどこれはなかなかの量がある。恨みがましいことを思いつつも引き受けてしまった以上覚悟を決め背伸びをしたら隣で帰り支度を終えた茅ヶ崎さんと目が合った。

この前のことはまるで夢だったんじゃないかと思うくらいに次の日からはいつも通りだった。キスされた訳でもないし、聞いたところでどうしたいかが分からない私にはあれはなんだったのかなんて聞くことはできなくて。それでもやっぱり意識しないことは難しかったけど、考える間もないほど仕事に忙殺されてしまったのは不幸中の幸いかもしれない。

「七海さん帰らないの?」
「まだ少し残ってるのでチャチャっと終わらせてから帰りますね。茅ヶ崎さんは先にあがってください。」
「手伝うよ。」
「いえこれは…同期の頼まれ物なので!ほんとにすぐ終わるので大丈夫です!お疲れ様でした。」

最近はみんな帰る時間が遅い。帰れるときは帰ってもらわないと。次に手伝うよ!をかけてくれたのは隣の席の同期だった。

「大丈夫だよ。今日デート久しぶりのでしょ?こっちはすぐ終わるし楽しんできて!」
「そうだけど、」
「いいからいいから。またあったらお願いするね。」

この量が終わる頃にはきっとデートの時間がなくなっちゃう。だから手伝わせるものかと優しい同期に感謝しつつやんわり頑なに断り、強引に帰るよう促した。そして私も出来るだけ早く帰るべくパソコンに向き直すのたった。

**


チクチクチク…


時計の音がやたらと大きく聞こえる誰もいなくなったオフィスで1人。定時からどれだけ時間が過ぎたんだろう。

「終わらないよーー!!!」

広いフロアに私の声が響き渡った。ちょっとスッキリした。こんなに残業するのなんて久しぶりだなぁ。さすがに文句を言いたくなったけど仕事を振った女性の先輩はいつのまにか帰ってしまっているからそれもできず。とはいっても放り出せないチキンな自分にため息が漏れた。

終電には帰りたかったからひたすら手を動かし続けたけどとうとう集中も切れた私はバタンと机に倒れ込む。あれタクシーって経費で落ちるよね…?

「おつー。」

思考停止したとき、コンと何かが横に置かれる音と人の気配がして驚いて顔をあげれば机に置かれたエナジードリンクと茅ヶ崎さんの姿があった。

「ちっがさきさん…!今の聞いて!?」
「忘れ物取りに来たらすごい叫びが聞こえてきてびっくりしたよね。来てみたらまさかの七海さんだったっていう。」
「聞かれてたなんて…」

今度から叫ぶのは絶対やめようそうしよう。テンション高い幽霊だなって思ったなんて肩を揺らす茅ヶ崎さんを軽く睨むと私の顔を見て笑いながらごめんとなりに座った。

「あとどのくらい?」
「あと…ほんの少しなので気にしないでください。」
「あと少しだったらあんなに叫ばないでしょ。ほら俺一応七海さんの上司なんだよね。有能すぎて普段ほぼ教えることないからこういうときくらい手伝わせて。」

私の返事を待たずに早く終わらせようとパソコンを立ち上げる。気遣いはありがたいけれどこんなの一緒に付き合わせてしまったら夜中になってしまうと思って慌てて立ち上がった。

「うちのチーム仕事じゃないですし、私が引き受けた仕事なんです。あ、早く帰らないとイベント出来ないですよ!」
「2人でやったほうが絶対早いから。たまたま戻ってきたのもなんかの縁だし、それに七海さんには秘密も握られちゃってるから。このまま帰る訳にはね。」
「それは今っ…!」

関係ないですとそう言いかけて、私に気負わせないようにわざと言ってくれたんだってことに気づく。こういうところはかなわないな。そんな間にも本格的に仕事に取り掛かっている茅ヶ崎さんを見て、私は少しでも早く帰れるようにとエナジードリンクを一気に飲み干した。

「すみません。ありがとうございます。」
「うんそれでよし。」

私の肩を軽くたたいて柔らかく笑った茅ヶ崎さん。ものすごく憂うつだったはずなのに誰かが気にかけてくれたというだけですこし気持ちが楽になるのだから不思議だ。

「頑張ります!茅ヶ崎さんの大切なゲーム時間を奪う訳にはいかないので。」
「はは、そこはあんまり気にしないでいいよ。」

そういえば茅ヶ崎さんの忘れ持ってなんだろう。いつも手際よく仕事をしていつのまにか帰っているのに珍しい。携帯、はつねにポケット待機だろうし家で仕事するタイプでもないし。帰ってからけっこう時間経ってるから運転でもしてて急に思い出したとかかな?

**

やっと終わった時、時計を確認するとちょうど私の最後の電車が出発するくらいの時間だった。でも最初思ってたよりもずっと早かったからそれはやっぱり茅ヶ崎さんのおかけだ。

「本当にありがとうございました。」
「いえいえ。じゃあとっと帰りますか。俺車だから送ってくよ。」
「そこまでしてもらうわけには!そのへんでタクシー捕まえますよ。」
「七海さんの家通り道だから大丈夫。タクシー代けっこうかかるでしょ。」

時間もったいないから行くよと私の鞄も持ってさっさと立ち上がった茅ヶ崎さんの背中に抗議を向けながらもスルーされ有無を言わさず車にのせられてしまった。こんなに至れり尽くせりでなんだかバチが当たりそう。というか女子社員に呪われそうだ。

真夜中で人気のないビル群の中を車が走っていく。車で一緒に外回りをすることはなかったから助手席って少し緊張するな。

「七海さん最近前にも増して仕事頑張ってるよね。」
「そうですか?自分では意識してなかったですけど…」
「うん、いよいよ俺のメンツ保てなくなってきたなぁと思って。」
「そんなことないですよ!私なんてまだまだです。でも、そう見えるんだったらたぶん寮にお邪魔したのがきっかけかもしれないです。」

ほんの少しだけどMANKAIカンパニーに触れてみんなと知り合って。いづみさんを初め劇団の人たちはそれぞれ真っ直ぐ真剣にお芝居に向き合っていた。そんな姿が眩しくて、私も今できること頑張らないとなってどこかで思っていたのかもしれない。

「…そっか。それ監督さんとかみんな聞いたら喜ぶよ。」

話を終えたとき茅ヶ崎さんはそんな風に言って。薄暗い車内のなかでも分かるくらい嬉しそうだった。かみしめるような優しい顔はやっぱり会社でみる笑顔とは違ってまた私の胸をざわつかせる。

ふとこちらに顔を向けた茅ヶ崎さんは窓の外を指差してみてみて、と言った。促されるまま視線を移すと車はちょうど大きな橋にさしかかったところで橋から見える夜景がキラキラと光を灯していた。

「わ、きれい…!」
「この前外回りしてたとき見つけたんだ。綺麗だよね。」
「すっごく綺麗です!わざわざ通ってくれたんですか?」
「人の仕事をこんな遅くまでやったお人好しな七海さんお疲れさまってことで。」
「っ、ありがとうございます。」

疲れた頭だからか茅ヶ崎さんの笑顔の破壊力がすごい。運転する姿と背後に見える夜景もあいまってさらにかっこいいなんて思って前を向いたその横顔をしばらくみていたような気がする。

疲れてるからか、車の振動が心地いいからか、ふわふわと地に足がついていないようなそんな気持ちになる。ふとすっかり忘れていたこの前の風邪事件(私の中で)のことを思い出して、さらに落ち着かなくなってしまった。気を紛らわそうとラジオに耳を傾けると聞こえてきたのは最近よく聞く恋愛ソングだった。

**

家に帰り数時間ぶりに携帯を確認すると同期からのLIMEを知らせる赤い数字が表示されている。

‘今日は任せちゃってごめんね。マナのおかげでデートすごく楽しかった(^^)残業お疲れさま!’

‘帰り道に買い物帰りの茅ヶ崎さんに会ったよ!マナの残業のこと話したら連絡するって言ってたけど連絡きた?’

開いて見てみればそんな内容で。

ということは茅ヶ崎さんは同期の話を聞いてわざわざ会社まで来てくれた?たまたまの忘れ物じゃなく?

同じチームの後輩だからこんなによくしてくれるのかな。他の女子社員にも同じように手伝ってあげたり気にかけたりしてるんだろうけれど。そのやさしさが嬉しい反面どうしてかチクチクと胸の奥が痛み出す気がした。出会ったばかりの頃ならこんなこときっと感じることはなかったのに。いつのまにこんなに欲張りな気持ちが芽生えたんだろう。だって今きっと茅ヶ崎さんの優しさを独り占めできたらいいのになんて思ってる。

どうにもむず痒い気持ちになって私は携帯をベットに放り投げそのまま枕に顔をうずめた。目をつむってゆっくり息を吐けば今まで見ないようにしてきた気持ちがはっきり形を成して見えてくるみたいだった。

それはたぶんずっと考えないようにしてきた私の中にあった想い。


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