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「リュディガー様、どちらかへお出かけですか?」
「月光草を取りに行ってくる」
出がけに館の使用人から声をかけられ、リュディガーはふわりと夜空に飛び立った。
月光草とは名のごとく月の光で育つ草で、このモンスターの世界にしか育たない。月の魔力を蓄えたその草は多くの魔族の体を回復する力がある。
―――――今、死なれては困る。まだやり足りない。ただそれだけだ。
そう考えながら、自分の顔が悲痛に歪んでいることに気がつかない。
いつもよりも余裕なく飛び急いでいた。
月光草を取りに向かう途中に、リュディガーは感じ慣れた気配を察した。…これは、あの犬の気ではないか。まさか、逃げ出したのか!
ひどく焦りながら気配のする方へと進路を変える。
いた。
だが、そこに立つものにリュディガーは困惑した。
そこにいたのは、ロルフではなかった。漆黒の少し長めの髪に、気の強そうな大きな瞳。ロルフとはまるで正反対の人狼。そして、その傍らにいたのは
「おや、こんなところで会うとはな。久しいな、我が兄上よ」
己の弟である、イアン・ヴァンディミオンであった。
「イアン。貴様、何をしている。それは誰だ。何者だ」
リュディガーが、イアンの傍に立つ見たことのない人狼を指さしたその時である。
「――――――コイツ、兄さんの匂いがする!」
その人狼がリュディガーを指して叫んだ。
兄さん、だと…?
そう言われ、思いつくものなど一人しかいない。この人狼は、ロルフの弟なのか。
「おい、お前!兄さんをどこにやった!兄さんはどこにいるんだ!」
「…!やめろっ、レオン!」
レオンが叫ぶと同時にリュディガーへ飛び掛かろうとするのを制したのはイアンだった。腕の中で暴れるレオンを、イアンは腕で羽交い絞めにしたまま離さない。離すわけにはいかないのだ。今レオンが飛び掛かろうとしたその相手は自分の兄。つまり、吸血鬼一族の頂点に立つ男。冷酷で、残忍なまさに吸血鬼の王と呼ぶにふさわしいその男は、自分に害をなすもの、しかもはるかに格下のレオンなど一瞬にして灰にしてしまうだろう。
レオンを殺されるわけにはいかない。
「兄上、こんなところでなにをしているんだ?用事があったのではないのか?」
イアンはレオンを腕の中に閉じ込めたまま暗にリュディガーに去れ、と促す。だが、リュディガーは怒るわけでもそこから去るわけでもなく、ただじっと暴れるレオンを見つめていた。
「お前!お前が兄さんをどこかにやったんだろう!兄さんにひどい事してないだろうな!?変なものを食べさせたりしてないだろうな!兄さんは、肉が食べられないんだぞ!兄さんに何かあったら…、お前を許さないからな…!兄さんを返せ!」
暴れて吠えるレオンをリュディガーはその金の目でじっと見ていた。
…あの犬が、大人しく自分に従ったのは、この弟の為ではないのか。
そう考えると、リュディガーは目の前の人狼がひどく忌々しく感じた。
リュディガーの纏う空気が殺気を含む物に変わったその時、イアンは暴れるレオンを背にかばい同じく怒りを纏うオーラでリュディガーを威嚇する。
「はなせっ!イアン、離せよ!こいつ、こいつがきっと兄さんに何かしたんだ!兄さんが帰ってこないのはこいつのせいなんだ!ひ…っ、く、…っ、にい、さ…っ、兄さんを、返せよぉ…っ!」
リュディガーの気を感じながらも気丈にただ兄を返せと泣き叫ぶレオンを見て、その芯の強さにやはり兄弟か、とふと気がゆるむ。それを感じたイアンが背にかばうレオンの頬に軽く口づけ、何かをささやく。そして同じように少し気を和らげながらリュディガーに向かって一歩踏み出した。
「…イアン。貴様、何をしている。よもや私に楯突こうとしているのではないだろうな?」
「そのまさかだ、兄上。この人狼は私の大事な伴侶でな。むざむざと殺されるわけにはいかないのだ。
…そしてその大事な伴侶の願いなら、何としてでも叶えてやりたい。泣き顔などみたくはないからな」
リュディガーはイアンの言葉に驚きのあまり声を発することも忘れてしまった。今、自分の弟は何と言ったのだろうか。気高き吸血鬼の王族が、人狼を『伴侶』だと?
「イアン…貴様、自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「もちろんだとも。」
リュディガーの心底呆れたような問いかけにも意をも介さずにけろりとして応えるイアンにリュディガーは頭が痛くなった。
「ヴァンディミオンの血も落ちたものだ。よもや我が弟ともあろうものが、犬を伴侶としようなどと…」
「何とでもいうがいい。我が行いを愚行と罵るも兄上の自由。今から私が兄上に力ずくでレオンの兄というものの事を聞きだそうとしていることも、兄上にとっては愚行であろうな。」
イアンの答えに先ほどまで収まっていた殺気が一気に甦る。
「私から、あの犬の事を聞きだす、だと…?」
リュディガーの体から発される怒りのオーラに大気がびりびりと震える。実の弟であるイアンでさえ気を抜けばあてられてしまうほどのオーラに、レオンはその大きな尻尾の毛をぶわりと逆立てた。ガタガタと震えながらも、気丈にリュディガーを睨むその目に、リュディガーはますます怒りをあらわにする。
私から、あの犬を奪おうと言うのか…!
この、弟だという犬が私の犬を、兄だから返せだと…!
リュディガーの体から、まるで湯気でも立ち上るかのごとく怒りのオーラが溢れる。
許さん…!例え弟であろうが、私からあれを奪おうとするなど断じて許さん…!
「あれは、わたしのものだ…!」
リュディガーの怒りの叫びに呼応するかのごとく周りの空気が震撼する。
リュディガーが魔力を全て放出しようかというまさにその時、イアンはレオンを抱え夜空高く舞い上がった。
「イアンッ、何するんだよ!俺はあいつに兄さんのことを…!」
「堪えろ、レオン。分が悪すぎる。だが心配はするな、私に任せておけ」
二人が去った後、その場に取り残されたリュディガーは一人唖然としていた。一体、どういうことなのだろうか。目の前から消えた二人に対するあれほどの怒りはなんだったのか。
たかが犬一匹、いくらでも遊ぶなら換えはきく。だが、あの犬が己の手から離れる事を想像するとえもいわれぬ感情が体中を支配する。
あの犬に出会ってから、おかしなことばかりだ。
「チッ…」
リュディガーは一つ舌打ちをするとばさりと羽を広げ飛び立った。
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