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リュディガーが屋敷に戻ると、なにやら慌ただしい雰囲気が漂っていた。この自分の屋敷において、今までこのようなことがあったことはなくリュディガーは何事かと使用人を呼びつけた。
「リュディガー様…!お出迎えもせずに申し訳ございません…!」
「よい。それよりもこれは何事だ。何かあったのか」
主の帰宅に気付かないなど初めてのことで、よほどのことがあったのかとリュディガーが問いかける。
「…じ、実は、リュディガー様の犬が…」
使用人の口からその単語が出るやいなや、リュディガーは最後まで聞かず寝室へと駆けだした。
「うああ、あ゛――――!」
扉を開けると、ロルフの叫びが部屋中に響き渡る。今までどれだけ手ひどく扱おうと聞くことのなかった叫びにリュディガーはひどく焦りながら部屋の中へと歩を進めた。
「リ、リュディガー様…!」
「これは何事だ!」
ケージに近づくと、そこには瞳孔を見開き体中から脂汗を吹き出し、がくがくと痙攣を起こしながらのたうち回るロルフがいた。
「大人しくするんだ!」
リュディガーが魔力を込め、首輪に放つ。だが、いつもならその痛みに飛び跳ねるロルフがそれさえも感じることがないのか叫び、ケージの中でただ痙攣を繰り返す。
「どういうことだ…!」
「じ、実は、リュディガー様がお出かけになられた後、理由を聞いた使用人の一人が手っ取り早くリュディガー様の為に犬を回復させようと、肉を与えましたところ突然このように…」
『兄さんは肉が食べられないんだぞ!』
リュディガーの脳裏にレオンの必死な姿が蘇る。あの時にはそんなばかな、と思った。だが、中には偏食な生き物だっているだろうくらいにしか思わなかったのに。
この犬は、肉自体を受け付けないのか…!
「どけ!」
ケージを囲み、おろおろと慌てる使用人たちをはねのけ、リュディガーがケージからロルフを抱き上げベッドへと横たえる。あまりの拒絶反応に、すでに意識は混濁し息が浅くなったロルフの頬を必死に叩いた。
「犬…!しっかりしろ!私だ、わかるか!私を見るんだ!」
「あ゛…、ァ゙…」
リュディガーの必死の呼びかけにもロルフが答えることはなく。すぅ、とその目から気力の光が消えかけた瞬間。
「…ッ、ロルフ!」
リュディガーは、ロルフの名を叫び持っていた月光草を口に含み、ロルフに口移しでそれを与えた。
「ん…、ぐぅ…っ、」
「そうだ、もっと飲め。」
与えたそれをゆっくりと飲み込んだロルフの髪を優しくなで、再び草を口に含みロルフに与える。数度繰り返した後、痙攣していたロルフの体は徐々に落ち着きを取り戻しその目に正気の光が戻るのを確認するとリュディガーはひどくほっとしてそっとロルフを抱きしめた。
「ご…、しゅじ…、さま…」
「いい。今は眠れ。」
ロルフがリュディガーに伸ばした力の入らぬ手を、リュディガーは優しく握りしめシーツの中に入れてやる。ロルフは緩くその口元に笑みを浮かべ、静かに目を閉じた後寝息を立て始めた。
いまだ眠ったまま目を覚ますことのないロルフの傍らで、リュディガーは食事を取ることも休むこともなくその手を握りしめていた。
ケージの中で抱き上げた時の、あの目の光が消えそうになった瞬間を思い出すと背筋がぞくりとわななく。
あのまま、死んでしまうかと思った。
握る手のぬくもりに、生きていることを感じひどくほっとする。
『勝手な真似をして申し訳ございません…。玩具ならいくらでも替えがきくでしょうから放置しようかとも話したのですがリュディガー様はこの犬がどうもお気に入りのようでしたので使用人皆で話し合って早く元気にさせようかと肉を…』
仕置きにひどく怯えながら肉を与えた理由を説明する使用人にリュディガーは一言『よい』とだけ答え、下がるように命じた。
なんの咎めもないことに驚きを隠せないまま一礼して下がる使用人たちには見向きもせずにリュディガーはロルフから視線を外さなかった。
温かさは感じるものの、時折息をしていないのではないかと不安になり口元に耳を寄せる。そのたびに軽くふれる吐息にほっとすると同時にリュディガーは胸が熱くなった。
月光草を与える際に、触れ合ったその唇に指先でそっと触れる。体はいくども重ねたけれど、唇を合わせたのは初めてだ。
あんな状況でありながら、リュディガーはロルフの唇に触れるたびに頭の芯が甘くしびれるような感覚に陥った。そして、もっと触れていたいと確かにそう思った。
眠れ、と頭をなでた時にふと見せた笑みに、体中を電流のようなものが走る。
知らない。私は、この犬に出会ってから味わうすべての感情や感覚の名を知らない。
「リュディガー様…」
控えめに部屋がノックされ、使用人が来客を告げた。
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