「言い残すことは」
「え、えっと…」


錆びた鉄の匂いに紛れて、温かなお出汁の香りがふわりと鼻腔を擽った。打ち付けた後頭部がじわりと熱を帯びる。きっと今日の晩御飯は煮物だろうな、私のはお野菜多めで、お子様舌の辻のお皿にはお肉と練り物がいっぱい入ってて…。なんて、少しばかりの現実逃避。


「い、命だけはお助けを…」
「は?」
「すいませんでしたぁ…」


錆びた鉄の匂い、痛む肩と後頭部、見慣れた天井に、辻の顔。既視感しかない、というか、二度目だ。けれど前回と違うのは、血の匂いが強すぎることと、どう考えたって私の自業自得だということ。後悔したって時既に遅しなのだ。潔く諦めようではないか。

数秒後に訪れるであろう激しい痛みに備え、私は穏やかに目を閉じた。


ーー


「………なんで?」


ぼたり。私の目から零れた涙が新ちゃんの手首を伝って床に落ちた。心底間抜けな顔をした新ちゃんの眉間に、じわじわと皺が寄っていく。やばい、新ちゃんが正気に戻ってしまう。許可を得る前に殴るべきだった。


「待って、お願い、話を聞いて」
「…話聞いたら納得できるの?」
「うん。それに論理的には多分セーフだから」
「物理的にアウトならアウトだと思うけど…」


私の瞼を撫でる手がするり、と離れていく。なんだか凄く寂しくなってその手を両手で捕まえて握りしめた。新ちゃんは私の『顎殴らせて』発言にドン引きしている。心做しか重心も後ろだ。私と距離を取りたい気持ちが全面に溢れ出ているが、逃げられては困る。


「私さ、新ちゃんが好きって言ったじゃん」
「うん」
「だからね、殴ろうと思って」
「全然納得できなかったんだけど」


じりじり、少しずつ後退する新ちゃんを、膝歩きで攻める私の図。気分は完璧に捕食者だ。ベットサイドまで追い詰めれば新ちゃんは次の逃亡策を練る為に一瞬動きが止まるだろう。そこまで行けば私の勝ちだ。押し倒して殴る。


「そういえば新ちゃん印鑑持ってる?」
「こ、こわい…」
「印鑑登録してる?」
「してる、けど、」
「どこに閉まってんの?引き出し?本棚?」
「い、言わない…、教えない、」


じりじり、じりじり。ベットサイドまで後6cm。"攻める時は視線に注意しろ"って師匠が言ってた。視線で次の動きが読まれるんだって。高等技術にも程があるだろ、狙撃手にもそれ関係あるの?って聞いたら、当たり前だろって一蹴されたっけ。

…攻める時は、視線に注意、


「、っ!」
「よっしゃ、」


ぺたり、辻のお尻がベットサイドについた瞬間、全体重を掛けて押し倒す。ごぉんっと鈍い音がした。恐らく辻の後頭部が床に打ち付けられた音だろう。
辻は突然の事態に頭がまだ着いてきていないらしい。勝ったーー!そう確信して体制を立て直そうとした、の、だが。


「ぅえ?!」


体が重い。腰に何かが巻き付いていて上半身が起こせない。なんだこれ、固いし長いしなんか痛い。なんだこれ、なんだこ…あ、これ辻の足だ。辻の足が私の腰に巻き付いてて、


「ぐっ」


ごぉんっ、と鈍い音が、頭の奥に響いた。
…えっ待って、何これ頭くっそ痛いんだけど。なにこれ、どういう状況?さっきまで辻が倒れてたのに、なんで私が見上げてんの?さっきまで辻びっくりして放心してたのに、なんで私が押し倒されてんの?


「…何か」
「…え?」
「言い残すことは」


カーテンの隙間から差し込む月明かりが、辻の紫の目をぎらりと光らせた。
蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事。形勢逆転、気分は完璧に被食者だ。


「すいませんでしたぁ…」


諦めよう。顎ぶん殴って既成事実作戦は失敗だ。そもそも私が辻に勝つなんて無理な話だったんだ。馬鹿力だし、元A級だし、強いし、攻撃手だし。頭がついて行かなくても体が勝手に動くなんて、辻レベルになれば当たり前なんだろう。

諦めよう。私の初恋は私本体と共に辻に殴られ死ぬのだ。惚れた男に守られ最期は殺される、なんてハードなラブストーリーだ。いつか師匠にノンフィクションが売りですと映画化して貰おう。そうすればきっと、この初恋も、私も、報われる。


「…なまえちゃん」
「一思いにやってください」
「それは後でするから、まず話」
「あっハイ」


後で殴られるのか…。出来ることなら早めにトドメを刺して欲しいんだけど、まぁ今回は全面的に私が悪いから辻の言う通りにしておこう。
そろり、閉じていた目を開けて、辻を見る。その表情には呆れはあれど、怒りはないように見えた。


「…す、座る?」
「座らない。解放したら何されるか分からない」
「…では、このままで?」
「うん。ちゃんと話して」


ぐっ、と私の肩を握る辻の手に力が篭もる。これは多分『さっさと白状しねぇと両肩捻り潰すぞ』という脅しだ。あまりにも怖い。白状するから許して。


「あのですね…」
「うん」
「私、辻が好きで、結婚して欲しくて」
「うん」
「でも私、フラれてるから、辻を殴って、気絶させて、その隙に既成事実を作ろうって、思って…」
「思考回路どうなってるの」


はぁ。辻が大きなため息を吐いた。うん、分かる。頭を強打して冷静になった今なら分かる。私はこの数時間で死を間近に感じすぎて、パニックになっていたのだ。強さ(暴力)こそ正義だと勘違いしていた。どう考えたって暴君、犯罪者の思考回路じゃないか。


「とりあえず、座ろうか」
「…殴らなくていいの?」
「それは後で」
「後でするんだ…おわっ」


先延ばしにされる制裁を想像して、なんだか気が遠くなった。きっとお母さんの愛の拳の8倍は痛いだろうな、だって辻は馬鹿力だから。たんこぶとか出来ちゃったりして…なんて考えていたら、脇の下に手が差し込まれて、ぐわんっと体が床から離れる。


「解放?」
「…………暴れない?」
「人を怪獣みたいに…」
「猟奇的な犯罪者予備軍としてみてる」
「あまりにも酷い…自業自得だけど…」


ずるり、ずるずる、両脇の下を支えられ部屋の中を引き摺られる。辿り着いたのは扉のすぐ目の前だった。私が暴れたら直ぐ逃げれるようにってか?賢い判断だな。


「ここ座って」
「え、いいんですか?」
「今更でしょ」


ぽふん。胡座をかいた辻が自分の太ももを二回叩く。膝の上に座れってことだ。そこにはこれまでも何度か座っているし、確かに"今更"なのだが、良いのだろうか。私は辻を男の人として好いているし、暴行未遂を犯したばかりだというのに、座っても良いのだろうか

床に這いつくばったまま、辻の太ももを眺め悩む。本当に座らせて頂いても良いのだろうか。これは今日頑張った私へ神様からのご褒美だったりするのだろうか。うん、それなら無下にする訳にはいかんな?よし、ありがとう神様、喜んで座らせてもらいます。


「失礼します」
「暴れたら殴るから」
「あっ、そっちでしたか」


ご褒美じゃなくて拘束でしたか。勘違いして大変申し訳ないが、辻は分かっていない。そこにどんな理由があろうとも、惚れた男の膝の上に座れることはご褒美だ。
ぬるり、と床から起き上がって、辻と対面する形で辻の太ももの上に座る。うわぁ顔が近くてなんか照れる〜…


「まず、俺は」
「うん」
「なまえちゃんを振ってない」
「…うん?」


…………どゆこと?


気道確保と疑問符


マエ モドル ツギ

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