きみに遺したいもの  




ずっと考えていたことがある。
僕の存在がエンシオディスやエンシアの邪魔になっていることは間違いなく、ヴァイスやマッターホルンには余計な心配をかけることも多い。ならば、この残された人生の中で僕が彼らに出来ることはなんだろう、と。
イェラグの情勢は非常に不安定で三大貴族の均衡が崩れればあっという間に全てが雪の下に飲み込まれてしまいかねない、とエンシオディスは言う。僕はシルバーアッシュ家の一員として国内の情勢はそれなりに知っておく必要があると思っていた。
長くずっと考えてきたことがある。
ブラウンテイル家、ペイルロッシュ家それからシルバーアッシュ家が手を取り合うまではと言わなくても、互いに歩み寄れるようにするにはどうしたらいいのだろう、と。特にエンシオディスがヴィクトリアの留学から戻ってきてからもたらした外国の技術や品物がペイルロッシュ家とシルバーアッシュ家の仲をさらに悪くしたことは事実だ。
だが、それによってもたらされた富や食料、利便性といえば彼らも一部恩恵を賜っているところもある。エンシオディスがもたらしたものは全てが悪というわけではないはずだ。
「若君、考え事ですか」
「……マッターホルン」
午後二時過ぎ。
ベッドの上で身体を起こす。気持ちのいい晴れ間が広がる空を眺めて考え事をしていたら、部屋に入ってきたマッターホルンが声を掛けてくる。エンシオディスが帰ってきたということもあって、彼らは腕によりをかけて食事の準備をしていた。
「うん、少し考え事をしていたんだ。ブラウンテイル、ペイルロッシュ、シルバーアッシュが和睦の道を進む術はないのかなって」
「若君、それは……」
「無理じゃないと思ってるんだ。何か解決する道はきっとあるはずだよ」
そう言って僕は唇を噛む。元々不仲ではあったけれど、何か分かり合える道があったはずなんだ。誰もその道に気づかなかっただけで。
「ねぇ、マッターホルン。ヴァイスは今何をしている?料理の仕込みをしていなければ連れてきて欲しいんだ」
「ヴァイス、ですか?」
「うん、頼み事をしたいんだ」
彼は僕達双子の護衛であり、執事のような役割も担ってくれている。僕が生まれた時からそばにいた人で、彼の知識量は僕なんかよりも遥かに上だ。それに彼は僕の体調の変化にも機敏に気づいてくれるし、適切な処置を施してくれる。彼に頼めば大抵のことはすぐに片付くのだ。
「呼んできますのでお待ちください」
「ありがとう」
彼が部屋を出て行くと、ふっとため息をつく。ここ最近は特に調子が悪い日が続いている。寝込むほどではないのだが、身体が重く感じたり頭痛に悩まされたりすることが多い。
そして今日は特に酷い気がしてならない。今朝起きた時なんて頭が割れそうなほどの痛みに襲われていた。今はもう治まっているが、これからもっと酷くなるんじゃないかと思うと不安になってくる。
(こんな時にエンシオディスがいてくれたら……)
そんなことを考えてしまう。彼なら僕が苦しんでいる時にはすぐに駆けつけてくれて助けてくれるだろう。しかし、今の僕にとって一番必要な存在なのはエンシオディスではなくヴァイスだ。
もう長くない人生の中で一度くらいはエンシオディスを誘導してもばちは当たらないと思うから。しばらくして扉がノックされる。入室を許可すると、マッターホルンと一緒にやってきたのはヴァイスだった。
「失礼します。若君、どうかなさいましたか?」
「頼みたいことがあって呼んだんだ。……エンシオディスには絶対に言わないで欲しい、また僕が余計なことをしたと知ったらうるさいから」
僕の言葉を聞いてヴァイスはこくりと首を縦に振る。
あまりない僕からのお願いに戸惑っているようにも見えた。
「これからペイルロッシュ家のアークトスに手紙を書くから届けて欲しいんだ。彼と内密に会って話がしたい」
「いけません!若君、もしもあなたに何かあれば我々は……!!」
ヴァイスは声を上げて僕の言葉を遮ろうとする。
しかし、それを制したのは他でもない僕自身だった。
僕の身体は日に日に弱っていく。それにいつ崩れるかもわからないイェラグの情勢は非常に不安定だ。だから、三大貴族の関係を少しでも良くするために僕は動いた方がいいと思ったのだ。
僕がいなくなった後でもエンシオディスがイェラグで生活しやすいように何か残しておきたかった。そのために、僕はアークトスと会う必要がある。
「分かってる。でも、これは僕にしか出来ないことだ。当主ではないにしても、僕だってシルバーアッシュの一員だから話くらいは聞いてくれると思う。それに僕にはもう失って怖いものはエンシオディスだけなんだ、他はもう何も怖くない」
ヴァイスは何も言わずに黙り込んでしまう。マッターホルンも同様に心配そうな表情を浮かべたまま何も言葉を発しようとしない。だけど、僕は彼らを説得しなければならない。
それが、僕に残された最後の仕事だと思うから。
「大丈夫だよ。ただ話がしたいだけだ。あと、エンシアにも絶対に言わないこと、あっという間にエンシオディスに知られてしまうからね」
「……承知しました。ですが、くれぐれもご無理はなさらないでください」
「うん、ありがとう」
ヴァイスは渋々といった様子で僕の願いを聞き入れてくれた。
マッターホルンはヴァイスと共に部屋を出ていく。残された僕はベッドの上に座りながら、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせる。
緊張しているのだろうか、手が震えているのが分かる。だが、やると決めた以上は成し遂げなくてはならない。
これは僕のわがままだ。
双子の片割れとして彼の人生にはいい影響はあまり与えてこなかった気がするから。だから、最後くらいは何かいいものを残しておきたい。
「……よし」
ペンを手に取り、インク壺に浸す。それから紙を広げて文字を書き始めた。

***

書き終えた手紙を見て僕はひとつ頷く。我ながら満足のいく出来だと思うけれど、あとはアークトスがこれを読んで応じてくれるかどうかだ。封筒の中に手紙を入れ、封蝋を施す。これでひとまず準備は終わった。後は、これを無事に届けてもらうだけでいい。
「ヴァイス、いるかい」
「はい、こちらに」
顔を見せたヴァイスは僕の手元にある封筒を見て心配そうな顔を見せる。
それもそうだ。これから彼が手紙を届けるのはペイルロッシュ領の領主であり、差出人の僕はシルバーアッシュ領の人間なのだから。争いに発展しないとも限らない。
けれど、僕はどうしても彼と話さなければいけない。ブラウンテイル家よりペイルロッシュ家の方が厄介なのだ。
三大貴族は意見の食い違いによって対立してしまっている。シルバーアッシュ家とペイルロッシュ家は特に。伝統と新しい文化は相反することも多いのだ。
エンシオディスが動けないのならば僕が動けばいい。
「……若君、本当によろしいのですか?」
「いいんだ、これは僕のわがままだから。それにもう時間がない」
「……分かりました。それではお預かりいたします」
ヴァイスは恭しく頭を下げて部屋から出ていった。彼にはあとで何か渡さなければいけないだろう。
エンシオディスに迷惑をかけるようなことはしたくないけれど、彼に何かをしたいと思うのは僕のわがままだ。それもわかっている。
僕がいなくなった後、たくさん迷惑をかけることも理解しているつもりだ。だからこそ、今出来ることをしておかなければ絶対に後悔する。
「エンシオディス、ごめん」
そっと呟いて窓の外を眺める。綺麗な青空が広がっているのが見えた。
こんな日がずっと続けばいいのに。そんなありきたりな願いが叶わないことも知っているからこそ、僕は自分のやるべきことをやらなくてはいけない。
返事が来るまでは動くことはできない。
読みかけの本を開いたところで部屋の扉が開いてエンシオディスが姿を見せた。出先から戻り身体を清めてきた後のようだ。シャンプーのいい匂いがする。
「お帰り、エンシオディス」
「あぁ、ただいま。変わりはないか?」
「うん、大丈夫だよ」
ベッドに横たわったまま本を読んでいた僕の元にエンシオディスがやってくる。ベッドの縁に腰掛けるとそのまま僕の頭を撫でた。少しくすぐったくて身を捩らせると彼は小さく笑う。
「体調はどうだ?最近は冷えるから風邪を引いていないといいのだが……」
「大丈夫だって、もう子どもじゃないんだからそんなに心配することないよ」
僕がそう言ってもエンシオディスはまだ心配そうにしている。
「最近は小さい発作の回数が増えてきているとヤーカから聞いた。……無理はするな」
「うん、ありがとう」
確かに最近になって特に身体の不調を感じることが多くなった。
以前はたまに起こる程度だった頭痛や目眩、息苦しさなどが増えてきて、エンシオディスだけでなくヴァイスやマッターホルンにも迷惑をかけている。
もちろんそれは一時的なものでしばらくすれば落ち着くことが多いのだけれど、手紙を書き終えてから嫌な感じがずっとしていた。
「お前はいつも心配そうな顔をしているね」
「治療を受けているエンシアはともかく屋敷にいるお前は何が起きるかわからないからな」
胸の奥底からじわじわと恐怖感がせり上がってくるような錯覚を覚える。エンシオディスは僕を安心させるように微笑むが、どこかぎこちないように見えるのは気のせいだろうか。
「ふふ、それでもお前は僕をエンシアのところへ連れて行かないよね」
「お前は行くとは言わないだろう」
エンシオディスは僕の手を取って優しく握る。彼の手は大きくて、温かくて、安心する。
エンシオディスは僕が何をしようとしているのか分かっているのだろうか。もしわかっていたとしても手出しはさせないつもりだ。僕がエンシオディスに残せる最期のものだと思っているから。
「何でもお見通しだね」
「頑固だからな、お前は」
くすりと笑みをこぼしてから視線を逸らす。窓の向こうに見える空は相変わらず綺麗で、雲一つない快晴だ。あと何回こんな空を見られるのだろう。
ざわつく胸の奥を察したように心臓がどくりと嫌な音を立てる。
発作だ、ここ最近は起きていなかったくらいの。
「ぐっ……!うぁ……っ!」
胸のあたりを押さえて蹲りそうになるのを必死に堪える。視界がぐらついて吐き気すら覚えるくらいだ。身体が鉛のように重く感じて言うことを聞かない。
「大丈夫か、薬はどこにある」
「引き出しの、にばんめ……ッ、」
エンシオディスの問いかけに途切れ途切れになりながら答える。彼はすぐに立ち上がり、ベッドサイドのチェストに付いている二番目の引き出しを開けて中から錠剤を取り出した。そして水の入ったグラスを手に戻ってくると、僕にそれを差し出してくる。
「飲めるか?」
頷いて彼からグラスを受け取るがカタカタと手が震えてグラスから水が溢れてしまう。このままでは水が零れてしまうと焦っていると、横から伸びてきたエンシオディスの手が僕の手を包み込んだ。そして、グラスを持つ手に力が込められる。
ゆっくりとした動作で口元に運ばれたグラスに口をつけると少しずつ水を飲み込むことができた。錠剤を口に放り込まれて再び水を飲む。そうしてようやく落ち着きを取り戻した僕はほっと息をついた。
「……ありがとう、助かったよ」
「いや、構わない。それより顔色が悪いから少し休んだ方がいい」
「うん……あのさ、少しだけ、そばにいてほしいな。まだ、発作が起きそうで怖いんだ」
「分かった」
エンシオディスは珍しく笑みを浮かべるとベッド側の椅子に腰を下ろす。手を握られると不思議と気持ちが落ち着いた。
温かい体温を感じながら目を閉じると眠気に襲われてしまいそうになる。まだ眠りたくない、せっかく二人きりになれたのだからもっと話をしていたいと思うのにまぶたは重くなるばかりだ。
「ごめん、エンシオ……」
「……そばにいるから少し眠るといい」
エンシオディスの言葉に甘えて目を瞑った。意識が遠退いていく中、唇に柔らかいものが触れる感覚がする。それが何なのか分からないまま、僕は深い眠りに落ちた。
物音で目を覚ます。眠る前はそばにいたエンシオディスの姿はなかった。
きっとヴァイス達に呼ばれたのだろうと思い至る。彼はいつだって多忙だ。
起き上がろうとして身体を起こすと頭がくらくらして目の前が真っ白になるような感覚に襲われる。思わずぎゅっと目を閉じて耐えていると徐々に落ち着いてきた。
ふぅ、と小さく息をついて目を開くと視界の端に誰かが立っているのが見えた。それが誰なのか認識した瞬間、ひどく安心する心地になった気がした。そこにいたのは間違いなくエンシオディスだったから。
エンシオディスの顔を見て僕は安心する。窓の外を見ていただけのようだ。
「落ち着いたか」
「うん、なんとかね」
僕の様子を見て安心した様子のエンシオディスは僕の額に手を当てて熱を測る。それから安堵したような表情を見せた。
「あまり無理のできない身体だ。何度も言っているのにお前はいつも無理をする」
「……うん、心配かけてごめんね」
謝ることはないと言って頭を撫でてくれる。その感触が心地よくてつい笑みがこぼれてしまう。
僕の双子の片割れ。どうかこれから僕がしようとしていることがお前にとっていいことであるように。
「そういえばお前に手紙が届いていたぞ」
「……手紙?」
その言葉に僕はしらばっくれたような反応をしたが、本当は分かっていた。ペイルロッシュ家からの手紙だと。それをあえて知らないふりをした理由は二つある。
ひとつ目は手紙の内容を確認するためだ。差出人が本当にペイルロッシュ家であれば僕に危害を加えることはないはずだけれど、万が一ということもある。
ふたつ目は僕自身が覚悟を決めるためでもある。手紙を開封してしまえば後戻りはできないだろう。だからこそ、慎重にならなくてはいけないのだ。
エンシオディスが差し出した封筒を受け取り中身を取り出すと数枚にわたる便箋が入っていた。そこに書かれている文字を見てやはりと思ったと同時に不安が込み上げてくる。この手紙を読んでしまえば後戻りができないからだ。
「……あとで読むよ。まだふらふらするんだ、もう少し休んでからにする」
「そうか、わかった」
エンシオディスの手を借りて横になり、彼が退室したことを確認してから手紙を取り出す。差出人の名前はない。誰かの手に渡ることを考えてのことだろう。
ペーパーナイフで封を切り、中の紙を取り出して広げる。そこには予想通りの言葉が書かれていた。
要約すると明後日の午後に会ってくれるとのことだった。場所はシルバーアッシュ領とペイルロッシュ領の境界にある今は使われていない小さな屋敷だ。
ここならば僕一人でも行ける距離で、ヴァイスやマッターホルンにも迷惑をかけずに済みそうだと考える。あとは発作さえ起きなければ、の話だ。
「……僕がやるしかないんだ」
僕の身体がいつまで持つかわからない以上、やるとしたら今しかないんだ。そう自分に言い聞かせながらまぶたを閉じた。少しでも体力を回復させるために眠らなければいけない。

***

「出かけるのか?」
身支度をしている僕を見てエンシオディスは少し驚いたような顔をしてから、心配そうに問いかけてきた。どうやら僕が外出することは予想外だったようだ。それもそうだろう、ここ数日は体調が悪く部屋に籠りっぱなしだったのだから。それに僕は発作を起こしたばかりだ。
そんな僕が突然出かけようとしているのだから驚くのも無理はない話だ。しかも、今日は雪が降っていてとても寒い日なのだから尚更だと思う。
「うん、ちょっと用事があるんだ」
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、心配しないで。すぐに戻るから」
安心させるように笑ってみせるが、彼の心配そうな表情は変わらないままだ。むしろ余計に悪化したような気がする。そんなに心配しなくても大丈夫なのになぁと思いながら、コートを着てマフラーを巻いた。防寒対策を怠ればすぐに体調を崩してしまうのは目に見えている。ただでさえ身体は弱い方なのだ。
気をつけないといけないことはたくさんある。しかも、会いにいくのはシルバーアッシュ家を敵視しているペイルロッシュ家の領主なのだから。
「……気をつけて行ってこい」
「うん、行ってきます」
玄関まで見送りに来たエンシオディスのほおに軽くキスをして家を出る。外は思ったよりも寒くてぶるりと身震いしてしまうほどだ。早く用を済ませて帰ろうと思いつつ目的の場所へと向かった。
指定された屋敷の前に着くと、門の前に立っていた大柄なウルサスの男性がこちらをじっと見てくる。
「来たか、来ないかと思ったぞ」
「約束を違えるわけには行かないさ。大事な話だからね」
アークトスは僕を中に招き入れるように道を開けたのでそのまま敷地の中に足を踏み入れる。古びた調度品が僕達を迎え、古書の匂いが鼻をくすぐった。案内されるままに応接室へと通されるとソファに腰掛けるよう促されたので素直に座ることにする。しばらく待っていると紅茶を運んできたペイルロッシュ家の人間と思しきウルサスの男性が現れ、テーブルの上にティーカップを置いた後に一礼してから部屋を出ていった。
しんとした空気が部屋の中に流れる。互いに口を開かずただ時間が過ぎていくだけだった。そんな中で先に沈黙を破ったのはアークトスの方だ。
「それで、用件というのはなんだ?わざわざ俺を呼び出したということはそれなりの理由があるんだろう?」
「……そうだね、あなたに頼みたいことがあるんだ」
そう言ってから懐からあるものを取り出しテーブルに置く。それを見た彼は目を見開いたあと、信じられないといった様子でこちらを見つめていた。
それは無理もないことだ。だって、これは本来僕の手元にはあってはならないものなのだから。
「オリジニウム氷晶、だと?」
「これで僕の願いを聞いてほしいとは言わない。……話を聞いてほしいだけだ」
そう言うと彼は小さく息を吐いてから口を開く。
「……とりあえず話とやらを聞こう」
彼は話を聞く気になってくれたようだ。僕はゆっくりと口を開いて話を始める。三大貴族の間にある大きな溝を何とかしたいということ、まずはアークトスと話をしてみたいと思ったこと。それから僕がもう長くはないこと。全て話した後で僕は彼の顔を見ることができなかった。どんな表情をしているのか知るのが怖かったからだ。だが、それでも言わなければならないことがあった。
「……僕は双子の弟のために何かを残したいんだ。彼が安心して生きていける場所を作ってやりたい」
だから協力してほしいのだと続けると、彼は少し考える素振りを見せてから口を開いた。
「なるほどな、話は分かった」
「……じゃあ!」
期待を込めて顔を上げると彼は首を横に振った。
「悪いが俺の力ではどうすることもできない」
「どうして!?」
思わず声を荒げてしまったことに自分でも驚いてしまう。それほどまでに必死だったのだろうかと考えてからそうではないことに気がついた。恐らく彼と話が通じるとは思っていなかったのだろう。まさかここまではっきりと断られるとは思ってもいなかったのかもしれない。
「確かにお前の言っていることは正しいだろう。しかし、それを実現するのは難しいものだ。特に今の情勢下においてはなおさらだ」
「…………」
正論だ、彼の言葉に間違いはない。そんなことは分かっている。だけど納得できない自分がいた。諦めたくないと思ってしまうほどに。でも、現実は非情で、僕にできることなんて限られているということも理解しているつもりだ。
(エンシオディスの為に僕に出来ることは少ない)
もし仮に彼に何かあった時、僕は何も出来ないままになってしまうのではないだろうか。そう思うと怖くなるのだ。
黙り込んでしまった僕を見た彼は呆れたようにため息をつくと言葉を続ける。
「お前が俺に何を望んでいるのかは知らないし興味もないが、俺は俺のやり方を変えるつもりはない」
「……っ、」
分かっていたことだがこうもはっきり言われると堪える。
「僕は一つの手として考えていることがある。……まだあなたには言わないよ、僕が死んでからエンシオディスにしてもらうつもりだよ」
僕の言葉を聞いた彼は一瞬驚いたような顔をしたあとに鼻で笑った。それから鋭い眼光をこちらに向ける。その視線だけで殺されてしまいそうだと思うほどの強い殺気を感じた。背筋がぞくりとする感覚を覚えながら負けじと睨み返す。ここで引き下がるわけにはいかない。
「あなたには言えない。わかってもらえない以上、この話は無かったことにさせてもらうよ」
それだけ言って立ち上がる。これ以上ここにいても無駄だと判断したのだ。このまま話を続けても何も変わらないと思ったからだ。部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで後ろから呼び止められる。振り返ると険しい表情を浮かべたままの彼がこちらを見ていた。
「……お前は自分の命が短いことを知っているんだな?」
「だから何?あなたは僕の話を飲んでくれなかった、それだけだよ」
オリジニウム氷晶を上着のポケットにしまい、僕は屋敷を後にする。この話が無かったことになった以上、あとはエンシオディスに頼むしかない。
僕が残せるものは計画そのものなのだから。

***

「若君、お帰りなさいませ」
シルバーアッシュ邸に戻るとマッターホルンが出迎えてくれた。どうやら僕が出てくるのを待っていてくれたらしい。待たせてしまって申し訳ないことをしたと思いながら彼のそばに向かう。
「ただいま、ごめんね遅くなってしまって」
「いえ、ご無事で何よりです」
穏やかな笑みを浮かべて言うものだからついつられて笑顔になる。きっと彼らならば僕の計画をちゃんと遂行してくれるだろう、と。そう思いながら自室へと向かうことにしたのだった。
「どこへ行っていたんだ」
「散歩だよ、イェラガンドの方まで行って来たんだ」
「……先日発作が起きたばかりだろう」
呆れたような声で言いながらも心配そうな表情を浮かべているエンシオディスを見て申し訳なく思う。けれど、こうするしかなかったのだから仕方がないじゃないか。僕だって好きでやっているわけじゃないんだから。
「大丈夫だよ、今日は調子がいいんだ」
そう言いながら笑うけれど信じていないようで疑いの眼差しを向けてくる。こういう時のエンシオディスは意外と頑固だ。どう説得しようかと考えていたら不意に手首を握られた。
そのまま手を引かれて自室に連れて行かれる。着ていた上着を脱がされて、着替えさせられてベッドに突っ込まれた。
抵抗する間もなかった。僕を見るエンシオディスの目は本当に心配していた時のそれだったから。こうなった彼には逆らうことができないので大人しく従うことにする。
「いいか、少しでも体調に変化があればすぐに知らせるんだ」
「……わかったよ、約束する」
渋々返事をすると満足したのか優しく頭を撫でてくれた。それが心地よくて目を閉じると眠気に襲われる。
エンシオディスの手にはきっとアーツがかかっているんだと思う。僕を眠たくさせる陽だまりに降り注ぐひかりのようなアーツ。暖かくて優しいものに包まれているような感覚を覚えると同時に意識が遠のいていくのを感じた。
残された時間をどう生きていけばいいのか、アークトスが教えてくれた。僕の計画をエンシオディスに託すために生きることが目標になり、これが上手くいけばきっと三大貴族の在り方は大きく変わると思う。
「エンシオディス」
「何だ」
「お前が僕の双子の弟で本当に良かった」
心の底からそう思う。僕にはもったいないくらいの最高の片割れであり魂の半身でもある存在なのだから。だからこそ僕は彼のためにできることを考えなくてはならないのだ。
僕に与えられた残りの時間の全てをかけて。


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