遺物、愛の嘆き  




「お帰り、エンシオディス」
「あぁ」
その日、久しぶりに屋敷に帰ってきたエンシオディスはひどく疲れた顔をしていた。色の白い顔が更に青白くなり目の下には隈も浮かんでいる。ちゃんと眠れていないようだ。
それでも僕の部屋を訪ねてきてくれるのは彼の優しさなのだろうと思ってはいるけれど、やっぱり無理はしないでほしいと思う。ベッドに身体を起こした僕が広げた両腕の中にするりと入ってくる身体は外の空気に冷やされてつめたい。
髪を撫でればグルルと喉を鳴らすあたりやはりエンシオディスは疲れている。普段ならば僕に抱きしめられるというより僕が抱きしめられる方が圧倒的に多いのだ。
「エンシオディス、疲れているんだろう。早く休んだ方がいいよ」
「やることが残って……」
「ダメだよ、今日お前はここで僕と寝るんだ。喉を鳴らして僕に抱きしめられる時は疲れている時だよ」
僕がそう言うとエンシオディスは諦めたように僕のベッドに乗り上げてくる。いつもならばもっと抵抗するはずなのにいうことを聞くというのはやはり眠たいのだろう。
ぎっしりと筋肉が詰まった身体を抱きしめる。両親が亡くなって以降、ずっと矢面に立ってくれた大切な双子の片割れはいつのまにか僕の背丈を追い越していた。身体はたくましく、精神はより強靭になり、エンシアとエンヤを育て上げた。
僕はエンシオディスの仕事を手伝うことは出来ない。甘やかして少しでも休んでもらうことしか出来ないことはとても歯がゆかった。
僕の身体が健康でどこでもいける身体だったら、と思わないこともないけど、ないものねだりはもうやめた。僕にはこの身体しかないのだから。
「───」
低い声が僕の名前を呼ぶ。
僕はエンシオディスを抱きしめてその名前を呼ぶことしかできない。本来ならば僕が背負うべきだったものを全て引き受けてくるひと。
「僕はここにいるよ、大丈夫」
ふわふわの髪を撫でればまたグルルと喉を鳴らした。誰よりも優しく厳しさを知っているからこそ、エンシオディスはその身に全部引き受けようとする。本来自分が引き受けるべきでないものさえも抱え込んで何事もないと僕に話して見せる。無理をしている訳ではないことはわかっているけれど、痛々しい姿に僕は胸が苦しくなる。罪悪感とほんの少しの後悔。
やがて静かに寝息を立て始めたエンシオディスを抱きしめているとノック音が2回。この叩き方を僕達双子は幼い頃からよく知っている。マッターホルンが夜に僕達がちゃんと寝ているかを伺う時の叩き方。
反応がなければ僕達が寝ているということで彼は去っていくのだ。それは今も活きていて彼は去っていったようだった。
足音が遠ざかっていった後エンシオディスがうっすらと目を開けた。
「……ヤーカか?」
「うん、様子を見に来てくれたみたいだよ」
うつらうつらとしているエンシオディスはいつもと違う雰囲気でどこか幼ささえ漂わせていて、どこか危うささえある。僕が守ってやらなくてはならないと思うほどに。
本来ならばそうあるべきだった形は僕の病気のせいでおかしくなり、両親の急死で
家族はあるべき形を失った。全てをおかしくしたのは僕なのだと思ってしまう。
そんな僕の心を見透かしたようにように彼は僕を抱きしめて優しく頭を撫でた。
「眠れないのか」
「いろいろ考え事をしていたらなんか、ね」
「お前の悪い癖だな……私もお前の事は言えないが」
そう言いながらエンシオディスはため息をつく。彼もまたいろいろなことを考えているのだろう。当主としての立場、そして僕とのこれからについて、きっとたくさん考えているに違いない。だから僕はそっと手を伸ばして彼の手を取る。骨張った大きな手はとてもあたたかくて優しい手だ。その手をぎゅっと握りしめて言う。
「まったく、ちゃんと休まなないと大変なことになったことはお前も覚えているだろう?お前が倒れてしまったら僕も困るんだよ」
「……わかった、今日は休むことにする」
降参したように肩をすくめる姿はなんだか少し子どもっぽく見えて可愛らしい。くすくすと笑うと今度は拗ねたような顔をするのだから本当に愛おしいと思う。普段はあんなにも凛々しく、厳しい顔をしているというのに今はこんなにも愛らしいなんて反則だと思う。
でもそんな顔を見せてくれることが嬉しいとも思うし、甘えてくれているようで嬉しくもある。
「おいで、一緒に寝よう。昔みたいにくっついてさ」
そう言って手を伸ばせば素直に近づいてきてくれるところもまた可愛いのだ。自分より大きな男を捕まえて何をと思われるかもしれないが可愛くて仕方ないのだ。
ベッドに入ってエンシオディスを抱き寄せると彼の尻尾がゆらゆらと揺れているのがわかった。尻尾というのは感情が出やすいものだ。耳や尻尾が感情に合わせて動くことを教えてくれたのはこの弟だ。
尻尾の付け根を軽く叩いてやるとゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてくる。それが面白くて何度も撫でてやるうちにエンシオディスは眠ってしまったようだ。穏やかな寝息とともに僕にも眠気を運んでくる。ゆっくりと目を閉じて微睡みに身を任せるとあっという間に眠りに落ちていた。
朝、目を覚ますとエンシオディスはまだ僕の腕の中で寝息を立てている。よほど疲れているのか少しの物音でも起きそうにない。長いまつ毛が顔に影を落としていて、朝日を照り返してきらめいていた。
「エンシオ、僕の可愛い双子の片割れ」
ほおをそっと撫でて名前を呼ぶ。もう何年も彼と一緒に街を歩いていない。シルバーアッシュ領の人々は僕のことを忘れている人さえいるかもしれない。一緒に歩くことはもうないかもしれないけれど。身体のことを考えれば無理をすることはできない。次に大きな発作が起きてしまえば命はないと言われているのだから無理はできない。エンシオディスやエンシアたちと少しでも一緒にいたいから。
「若君、お目覚めですか」
マッターホルンが僕の様子を見にくる時間になったらしく、控えめなノック音とともにゆっくり扉が開かれる。朝食のいい匂いが鼻をくすぐりぐうぅとお腹が鳴った。そういえば、昨日の夜は食欲がなくてあまり食べていないことに気づく。
エンシオディスが僕の部屋に来てから彼を寝かせることに夢中になっていたから空腹のことなど忘れていた。
「起きているよ。どうぞ入ってきて」
「失礼します」
彼が入ってくるなり驚いた顔をして僕の方をじっと見てから、すぐに平静を取り戻して僕の側に歩いてくる。
「旦那様はいつからこちらに……?」
「昨日の夜からだよ、あまりにも疲れてるみたいだったから一緒に寝たんだ」
「昨日は発作が起きなかったからよかったものの、もし大きな発作が起きていたら……」
マッターホルンのお小言が始まろうとしたところでエンシオディスが小さなうめき声を上げて目を覚ます。ゆっくりとまぶたを上げてあたりを逡巡してから、僕の顔を見て安心したように笑った。
「おはよう、よく眠れたかい?」
「あぁ、久々にぐっすり寝た気がする……お前はいつも強引だからな」
「それは良かった、ほら、ご飯にしよう。お腹が空いたろう?」
僕がそう言うと彼は小さく笑ってからベッドから降りて僕の着替えを手伝ってくれた。シャツに腕を通し、ボタンを留めていくその指先は相変わらず器用で、僕を安心させてくれた。
最後にカーディガンを羽織らせてもらってから、ベッドから立ち上がりかけたところで眩暈がしてふらついてしまう。咄嗟に抱きとめてくれたエンシオディスのおかげで倒れることはなかったけれど、やはり体力は落ちているらしい。
「無理をするな、まだ本調子じゃないんだろう」
「うん、ごめんね、ありがとう」
支えられながらダイニングに向かうと既に食事の準備は済んでいるようだった。焼きたてのパンの匂いとスープの匂いが混ざり合ってなんとも言えない良い匂いがしている。
テーブルの前に座れば湯気を立てる紅茶が置かれる。香り高い茶葉を使ったアッサムティーだ。口に含むとふわりとした香りが鼻を抜けていき、身体に染み渡っていくような感覚を覚えた。
ヴァイスがいつものように一日のスケジュールを読み上げていく中、エンシオディスは涼しい顔で食事を始める。パンを半分に割って口に運ぶ仕草はいつ見ても優雅で品がある。僕はといえば、スプーンを口に運んで咀嚼するだけで精一杯だった。朝から妙に身体が重く、頭痛もひどい。今日は無理をしない方が良さそうだ。
「若君?」
「……大丈夫、少し頭痛がするだけだよ」
「食後に痛み止めと鎮静剤をお部屋の方にお持ちします」
「無理はするな、今日は休んでいた方がいい」
心配そうにこちらを見やる二人に笑いかけて僕はまた一口、スープを口にする。塩加減が絶妙で美味しい。今日のメニューはミネストローネだ。トマトの酸味と野菜の甘みが合わさってとても優しい味になっている。
マッターホルンが作る料理はどれも美味しくて僕達の口に合うように作ってくれている。小さい頃から僕達を知っているだけあって彼は些細な変化にも敏感なのだ。例えば僕が体調が悪い時などにはすぐ気がついてくれる。
「うん、今日はおとなしくしているよ……調子がまだ戻ってないみたいだ」
僕がそう言えば二人は納得してくれたようでそれ以上何も言ってこなかった。僕が体調を崩しやすいのは今に始まったことではないし、二人とも理解してくれているのだろう。
いつ発作が起きてもおかしくないのだから。
食事の後、マッターホルンは薬を持って僕の部屋を訪ねてきてくれた。心配そうな面持ちをしていてその顔にはありありと不安が見てとれる。
「ごめんね、いつも僕は迷惑をかけてばかりだ」
「若君はもう少しご自身のことを大切になさってください、あなたに何かあれば旦那様が悲しみます」
マッターホルンはそう言いながら僕のベッドサイドに水差しを置き、コップに水を注いで薬とともに渡してくれる。鎮痛剤と鎮静剤を飲み込んでから彼の手を借りて横になる。枕に頭を預けてホッと一息つく。
「ありがとう、大丈夫だよ、僕は……マッターホルン、エンシオディスの仕事がまだ残っているだろう。手伝いは不要だろうけど、無理をしがちだからね」
「……言い出したら俺の言うことを聞かないのは幼い頃から変わりませんね、若君」
「ごめん、でもこれは譲れないんだ」
困ったように笑う彼に謝りながらもきっぱりと断る。きっと彼は自分が言っても無駄だということを理解しているはずだけれど、それでも言わずにいられないくらいに彼は僕のことを大切に思っていてくれるのだと改めて実感する。その思いに応えることはできないけれど、せめて自分のやるべきことくらいはやっておきたいと思う。
それが、僕にできる唯一のことなのだから。
マッターホルンが退室すると一気に疲れが押し寄せてきて頭がぼうっとする。最近、物事を考えるのに膨大な体力を使う。せめて自分のことは自分でやりたいけれど、それも時期に難しくなって来るのだろう。更衣、食事、排泄、移動、そのどれにも誰かーー主にマッターホルンの力を借りなければできなくなるのだろうと思うと苦しくなった。何もできなくなる前に大きな発作が来てくれないかとさえ思ってしまう。そうすれば、皆に迷惑を掛けずに済むのになんてひどいことを考える。
そうしなければ、心が弱くなってしまいそうで僕はぎゅっと目を閉じた。誰にも迷惑をかけまいとしていても生きることは難しい。特に僕のような身体に病気を抱えている人間は。
「……ごめん、エンシオディス」
僕の存在がエンシオディスの足枷になっていることは間違いないのに。僕はお前に何一つ残せないとは言わないけれど、迷惑と心配をかけていることには間違いない。だから、もしもその時が来たのなら、僕の事を忘れて幸せになって欲しいと思っているのだ。僕にはもったいないくらいの弟に恵まれたのだから、それだけで十分なのだから。
もうじき死ぬであろう人間のために人生を棒に振る必要はない。エンシオディスはエンシオディスの人生を生きればいいと僕は思っている。エンシアやエンヤも自分の人生があって、それぞれの役目があるのだから。
それに、僕が死んだ後でも自由に生きていいはずなのだから。
僕が死んだら、エンシオディスはどうするのだろうか。
そんなことがふと頭をよぎる。エンシオディスのことだから、僕がいなくなったら一人で生きていくのかもしれない。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
でも、それでいい。それが正しいのだから。
静かに目を閉じる、時折このまま目覚めなければいいとさえ思いながら。
それからどのくらい時間が経っただろうか。足音で目を覚ますとエンシオディスがベッドの端に腰掛けてこちらを見ていた。その手には読みかけの本を持っていてどうやら読書をしていたらしいことがわかる。
「起きたか、気分はどうだ」
「うん、だいぶ良くなったかな」
「そうか、なら良かった」
そう言って優しく髪を撫でてくれる手つきはとても優しくて心地が良い。そのまましばらく撫でてくれる手が気持ちよくて目を細めていると不意にその手が止まる。不思議に思って顔を上げるとじっとこちらを見つめているエンシオディスと目が合った。どうしたんだろうかと思い首をかしげるとそっとほおを撫でられる。くすぐったくて思わず身を捩ると今度は手を握られた。そしてゆっくりと指を絡められて恋人繋ぎの形になる。彼の長い指が僕の指の間を撫でるたびにぞわぞわとした感覚が身体を駆け巡った。
「仕事はどうしたんだい、昨日はまだやることがあると言っていただろう」
「……もう終わったから問題ない」
絡められた指を振りほどくことも出来ずされるがままになっているとそっと唇が触れるだけのキスをされる。僕達の秘密をなぞるようにエンシオディスは唇を離すと悲しそうな目をした。置いていかれることを恐れているようなそんな目だった。
「なんて顔をしているんだい、お前はシルバーアッシュ家の当主だろう?」
「それ以前にお前の双子の弟だ。お前だって同じ立場だったら同じことをするだろう」
「……そうかもしれないね」
エンシオディスの言葉に曖昧に笑って返すことしかできない。彼は今にも泣きそうな顔をして僕を見て抱きしめた。
彼を失うことが何よりも恐ろしいことだから。
彼だけは失いたくないと思ってしまうから。
本当はいけないことだとはわかっているのだけれど、僕はこの感情を抑える術を知らない。
彼を失いたくなくて、彼と共にありたくて、彼を愛していたいと願ってしまうのだ。
彼を想う気持ちが日に日に強くなっていくのがわかる。彼が愛おしくて仕方がないのだ。
「ーー」
僕の名前を呼ぶ低く優しい声。大好きな、双子の片割れ。僕は、彼のことが好きで好きでたまらない。
それは、家族として、兄弟としての愛情なのか、それともそれ以上のものなのか、僕にはわからない。
ただ、彼と一緒に居たいという気持ちだけが膨らんでいく。
もっと名前を呼んでほしい、もっと側にいてほしい、もっと、触れてほしい。
それは、僕のわがままなのだろうか。
「エンシオ、エンシオディス……ねえ、お前は今幸せかい」
「何を急に……」
不思議そうに首を傾げるエンシオディスに微笑みかけてからそっとほおに手を伸ばす。滑らかな肌触りを楽しみながら撫でてやれば擽ったそうに目を細めるのが見えた。その姿がなんとも可愛らしく思えて自然と笑みがこぼれてしまう。
ねえ、と先ほどと同じ問いかけを投げるとエンシオディスは呆れたようにため息をついて、それから僕の手に自分の手を重ねた。
「お前がいて、俺がいる。それ以外に何が必要だ?」
「ふふ、そうだね、その通りだ」
重ねた手に指を絡ませて握るとそれに応えるように握り返してくれるのが嬉しかった。こうして、何気ないことで笑い合える日々がずっと続けばいいのに、なんて柄にもないことを考えてしまう。
僕は、多分、エンシオディスを愛している。
言葉にしてしまえば陳腐になってしまうかもしれないけれど、僕は確かに彼を愛しているのだ。
それが、友愛ではなく恋愛的な意味だと気がついたのはいつだったろうか。もしかしたら、初めからそうだったのかもしれない。
今となってはどちらでもいい事だ。
もうこの気持ちは伝えるつもりはない。この気持ちは僕が死ぬまで持っているつもりだ、誰にも伝えるつもりはない。ああ、そうだとも、これは墓場まで持っていくつもりなんだ。だから、どうか許しておくれ。
これは僕がお前を思う気持ちなのだから。
だから、何も遺せない僕をお前は許さなくていい。


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